第六話『最悪の幕開け』
鏡に映る私は、我ながらゾクゾクするほど悪くない顔をしていた。
頬は上気し、瞳は熱っぽく潤んでいる。唇には、これから始まる宴を期待するような、不敵な笑みが浮かんでいた。
選んだのは、黒のボディコンシャスなミニワンピース。
胸元が大きく開き、背中も大胆にカッティングされている。普段なら「ちょっとやりすぎかな」と躊躇するようなデザインだが、今の気分にはぴったりだった。
普段はあまり拘らない化粧も忘れずに行った。ディストに気に入ってもらえるように、念入りに施す。
腕の呪印は、もはや隠しようもなく黒々と肌に浮かび上がり、まるで精巧なアクセサリーのように、私の肌を妖しく飾っていた。
……ほんの少し前までなら、こんな服を着て誰かを誘惑する自分を、思い切り馬鹿にしていただろう。
けれど、今は違う。
着飾って、毒を塗り、舞台に踊り込む。それもまた、私の生き方なのだと――
そう言い聞かせるたび、胸の奥で微かな震えが広がる。
逃げるためのトランクは、ベッドの下に押し戻した。
もう、選択の時は過ぎたのだ。
私は逃げも隠れもしない。
むしろ、この状況を最大限に利用して、愉しんでやる。
堕ちるなら、とことん堕ちてやろうじゃないか。
部屋を出ると、廊下は妙に静まり返っていた。
おそらく、ひかりたちはみのりの部屋に集まって、今後の対策を話し合っているのだろう。お優しいことだ。
私はその集団には加わらず、全く逆の方向へと歩き出した。
目指すは、ただ一つ。
この呪いの元凶――『色欲の醜鬼ディスト』の根城だ。
ポムが解析したデータを頼りに、私は一人、夜の天原町へと繰り出す。
腕の呪印が、北極星のように進むべき方向を教えてくれている。疼きが、道標だ。
ディストが、私を呼んでいる。
より上質な餌が、自らその顎の下へ向かっているのだから、彼も喜んでいることだろう。
旧工業地帯は、街灯もまばらな廃墟だった。
錆びた鉄骨が巨大な獣の骸骨のように夜空を突き、割れた窓ガラスが虚ろな眼窩のように闇を覗かせている。
普通の人間なら近寄りもしないだろうが、今の私には、この退廃的な空気が心地よかった。
「……ここか」
ひときわ大きな廃工場の前で、私は足を止めた。
入口には、禍々しい瘴気が渦を巻いており、素人目にも強力な結界が張られているのが分かる。
ひかりたちが正面から突っ込もうとしていた結界だ。
だが、今の私には、この結界はもはや壁ではなかった。
私はおもむろに、自分の右腕を掲げた。
呪印が刻まれた腕を。
そして、その腕を結界の表面に、そっと押し当てた。
まるで鍵と鍵穴が合ったかのように、結界が音を立てて歪む。
瘴気の渦が私を避けるように左右に割れ、道を開けた。
『同類』だと認識されたのだ。
私は嘲笑を浮かべ、なんの抵抗もなく結界を通り抜けた。
工場内部は、想像を絶する空間だった。
壁や床は、まるで生きている肉塊のように脈動し、歩くたびにじゅくり、と柔らかく沈む。
吊り下がった触手が私の髪を撫で、粘液の滴が肌に冷たく弾ける。
呼吸のたびに、腐った果実と熱病のような瘴気が喉を焼く。
そして、その中央。
巨大な肉の玉座のようなものの上に、奴はいた。
「――ククク……来たか、小鳥」
人間の男の姿を模しているが、その本質は異形だ。
引き締まった筋肉質の身体には、私やみのりのものと同じ呪印が全身に這い回り、その瞳は欲望の炎で爛々と輝いている。
にたり、と裂けた唇から覗く牙。
あれが、『色欲の醜鬼ディスト』。
「待ちかねたぞ、六華が風、翡翠そよぎ。我が新たなる花嫁候補」
「花嫁、ねぇ。ずいぶん気の早いことで」
私は恐怖を押し殺し、わざと挑発的に笑って見せた。
ここで怯えれば、奴の思う壺だ。対等に、いや、むしろ私の方が格上であるかのように振る舞わなければ。
ディストは玉座からゆっくりと立ち上がり、私に向かって歩いてくる。
一歩近づくごとに、瘴気の圧が強まり、私の身体の奥の疼きも増していく。
腕の呪印が、共鳴して熱く、甘く、痺れる。
「お前は特別だ。あの脆弱な大地の娘とは違う。その気高い魂、その抵抗する瞳……それを我が快楽で染め上げ、堕とすのが、どれほどの悦びか……!」
「生憎だけど、私はあんたのオモチャになるつもりはないよ」
「クク……強がるな。お前の身体は、もう正直になっているぞ?」
ディストの指が、私の顎に触れる。
その瞬間、ビクンッ!と全身が痙攣し、自分でも信じられないような甘い声が喉から漏れた。
「んぁ……っ!」
腕の呪印から、脳を直接焼くような強烈な快感が流れ込んでくる。
足の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、ディストの腕が支えた。
「どうだ? 我が与える快楽は。抗うだけ無駄だと、そろそろ理解できたか?」
耳元で囁かれる、粘つくような声。
悔しい。屈辱的だ。
でも、身体は正直に反応してしまう。
快感に、震えてしまう。
(これが……ディスト……!)
想定を遥かに上回る、上級淫魔とは比べ物にならない絶対的な力の差。
体内に渦巻く莫大な魔力量が、奴が搦め手だけの存在じゃないことを物語っている。
これでは、ひかりたちが束になってかかっても、勝てるはずがない。
「さあ、最初の儀式を始めようか。お前のその美しい身体に、我が愛の徴を、もっと深く、もっと濃く、刻みつけてやろう……」
ディストの指が、私のワンピースの肩紐にかけられる。
咄嗟に払いのけようとした。だけど、思いに反して腕はピクリとも動かない。
まるで糸が切れた操り人形のように、なすがままにされている。
呪印の影響だ。肉体が、ディストに屈服しかけているんだ。
あ……駄目だ。
抵抗できない。
このまま、私は……。
苦し紛れに唇を引き結び、瞼をぎゅっと固く閉じる。
その時だった。
工場の壁が、凄まじい爆音と共に吹き飛んだ。
瓦礫と粉塵が舞う中、そこに立っていたのは――。
「――そよぎッ!!」
炎の衣を纏い、怒りに顔を歪ませた、紅蓮寺ほむら。
そして、彼女の後ろには、ひかり、アキラ、しずくの姿もあった。
「な、んで……」
私の口から、呆然とした声が漏れる。
なんで、ここに。どうやって結界を。
ひかりが、悲痛な顔で私を見つめていた。
「あなたの魔力反応を追ってきたの…! そよぎ、どうして、一人で……!」
「チッ、馬鹿な奴だぜ、お前は! 死にたがりか!」
ほむらが吐き捨てるように言う。
彼女たちは、私の裏切りなんて微塵も疑ってない。
私が一人でディストを倒しに来た、無謀なヒーローだと思い込んでいるのだ。
なんと滑稽で、哀れなお人よし。
ディストは、邪魔が入ったことに心底不愉快そうな顔をしたが、すぐに愉悦の笑みを浮かべた。
「ククク……これはこれは。ご丁寧にお仲間がお迎えに来たか。丁度いい。ショーの観客には、多い方が盛り上がるというものだ」
ディストは私を抱きかかえたまま、仲間たちを見据える。
「見せてやろう。お前たちの仲間が、希望の星が、我が腕の中で快楽に堕ち、醜く喘ぐ様をな!」
その言葉に、ひかりたちの顔色が変わる。
まずい。
最悪のシナリオだ。
私のショータイムは、予想外の観客を迎えて、最悪の形で幕を開けようとしていた。
「やめ……」
私が何かを言うより早く、ディストの唇が、私の唇を塞いだ。