第五話『聖女か魔女か』
右腕を貫く、灼熱の痛み。
それはすぐに、じわりと甘く痺れるような疼きに変わった。
うっすらと浮かび上がった黒い紋様は、みのりのものよりはまだ淡い。だが、それは確かに私の肌に根付き、私の魔力を吸い上げ、生き物のように脈打っていた。
(嘘でしょ……なんで、私が……)
恐怖で全身の血が凍りつく。
でも、それと同時に。
身体の奥底から、奇妙な熱が込み上げてくるのを感じていた。
腕の呪印から流れ込んでくる、微弱な快感。みのりの喘ぎ声を聞くたびに、その快感は少しずつ濃度を増していく。
まずい。このままでは、私もみのりと同じになる。
私は音を立てないようにその場を離れ、自室に逃げ込んだ。
ドアに鍵をかけ、ベッドに倒れ込む。
「はぁっ……、はぁっ……!」
呼吸が荒い。心臓がうるさいくらいに鳴っている。
自分の腕に浮かんだ紋様を、もう一度見つめる。
黒いインクのようなそれは、先ほどよりも少しだけ、色を濃くしている気がした。
(逃げなきゃ……)
頭の中の警報が、ガンガンと鳴り響いている。
今すぐにでも、荷物をまとめて、この街から、協会から、全てから逃げ出すべきだ。
この呪印が完全に定着してしまう前に。
私の理性が、快楽に呑み込まれてしまう前に。
情報屋の憶測通り、呪印の感染が『乗り換える』ことで成立するならば、呪印の大本がみのりに残っている今であれば、物理的な距離を離すことで進行を妨げることができるかもしれない。
私は震える手で、ベッドの下に隠していたトランクを引きずり出した。
中には、少しずつ貯めてきた現金と、偽造ID、そして海外への片道航空券が入っている。私の『夢』であり、『最後の手段』だ。
これを掴んで、今すぐ――。
その時だった。
コンコン、と。
また、ドアがノックされた。
「そよぎ……? いるか?」
ほむらの声だった。
私は息を殺し、返事をしなかった。居留守を使おう。
だが、ほむらは構わず続けた。
「みのりの様子がおかしい。さっきから部屋に閉じこもって、出てこないんだ。ひかりたちが心配してる。お前も、一緒に来てくれ」
ほむらの声には、苛立ちと、隠しきれない不安が滲んでいる。
私は唇を噛んだ。行けるわけがない。
みのりの近くに行けば、呪いの共鳴はさらに強まる。私の腕の紋様も、もっと濃くなってしまう。
なにより、今の私がみのりの姿を見たら、正気でいられる自信がなかった。
あの甘い毒に、私まで引きずり込まれてしまう。
「……ごめーん。悪いけど、パス。ちょっと疲れてるから、寝る」
私がそう答えると、ドアの向こうでほむらが舌打ちするのが聞こえた。
「チッ……薄情な奴だな、お前は!」
足音が遠ざかっていく。
静寂が戻った部屋で、私は再びトランクに手をかけた。
今だ。今しかない。
仲間なんて、知ったことか。自分の身が一番可愛い。
私はそういう女だ。そう割り切ってきたはずだ。
……なのに。
なぜか、身体が動かない。心の底の、乾いた場所で何かがまだ燻っている。
脳裏に、みのりの蕩けた顔が浮かぶ。
ひかりの、私を信じてくれた笑顔が浮かぶ。
アキラやほむら、しずく……憎まれ口を叩き合いながらも、背中を預けて戦ってきた、仲間たちの顔が。
(……私が逃げたら、あの子たちはどうなる?)
考えるまでもない。
ディストの元へ、無謀な突撃を敢行するだろう。
そして、返り討ちに遭う。
捕らえられ、私と同じように呪印を刻まれ、醜悪な鬼の玩具にされる。
全員が、あの先輩と同じ末路を辿る。
それを想像した瞬間、胃の奥から酸っぱいものがこみ上げてきた。
それは、仲間を見捨てる罪悪感か。
それとも、自分だけが助かろうとしている卑劣さへの自己嫌悪か。
……いや、違う。
もっと、ドス黒い感情だ。
(……なんで、私だけがこんな目に?)
そうだ。
なんで、私が。
私はただ、夢を叶えたかっただけなのに。
貧乏な暮らしが嫌だった。魔法少女になって、お金持ちになりたかった。
その為に、血みどろになるまで戦って、柄でもない人助けも頑張って。
その末路が、これ?
そんなの、あんまりじゃないか。
みんな、のうのうと正義のヒロインを気取っているくせに。
この呪いの苦しみを、痛みも、そしてこの抗いがたい快感も、何も知らないくせに。
どうして私が。
「……むかつく」
ぽつり、と呟きが漏れた。
その瞬間、腕の呪印が、ズクリ、と熱く脈打った。
嫉妬、怒り、絶望……そういった負の感情が、呪印の最高の栄養になるのだと、本能的に理解した。
まずい。
思考が、どんどん悪い方へ引っ張られていく。
身体の奥から湧き上がる熱が、理性を溶かしていく。
(いっそ……)
邪悪な考えが、頭をもたげる。
(いっそ、みんな道連れにしてやろうか)
私だけが苦しむなんて、不公平じゃないか。
あのキラキラした光の魔法少女が、この甘い毒に喘ぐ姿を見てみたい。
あの気高い炎の魔法少女が、プライドを砕かれて快楽に屈する顔を見てみたい。
どうせ苦しいなら。どうせ助からないなら。
その方が、よっぽど――面白いんじゃないか?
「あ、ぁ……」
自分の思考にぞっとする。
でも、その背徳的な想像は、恐ろしいほどの興奮を伴って、私を支配しようとしていた。
腕の疼きが、快感に変わっていく。
もう、痛みは感じない。
ただ、熱くて、甘くて、もっと欲しくてたまらない。
私は、崩れるように床に座り込んだ。
トランクの冷たい感触が、現実を突きつけてくる。
逃げるか、堕ちるか。
聖女のまま死ぬか、魔女として生きるか。
「……ふ、ふふ」
乾いた笑いが、止まらない。
ああ、なんてこと。
翡翠そよぎは、もう既に手遅れなのかもしれない。
私はゆっくりと立ち上がり、クローゼットを開けた。
一番派手で、露出の多い、お気に入りの私服を取り出す。
戦うためじゃない。逃げるためでもない。
――これから始まる、甘美なショータイムに相応しい衣装を選ぶために。
私は鏡の中の自分に、不敵に笑いかけてみせた。
腕の呪印が、その笑顔に呼応するように、妖しく煌めいた。