第四話『共鳴』
寄りかかってくるみのりの両肩に手を添えて、そっと押し返す。
手のひら越しに伝わる異常な熱と、鼻腔をくすぐる腐った果実のような匂いに、私は全身の産毛が逆立つのを感じた。
これは、ただの体調不良じゃない。呪印が、みのりの精神を内側から侵食し始めているのだ。
「……みのり、しっかりして。疲れてるんだよ。とりあえず、私のベッドで休みな」
私は内心の動揺を押し殺し、できるだけ普段通りの、少し気だるげな声で言った。突き放すのは簡単だ。でも、今この状態で彼女を一人にしたら、何をしでかすか分からない。
それに、呪印の症状を間近で観察する良い機会でもある。
ここで情報を得ておくのは、私の生存戦略において重要なことだ。
みのりをベッドに横たわらせ、自分もその隣に滑り込む。シングルベッドは二人で寝るには少し窮屈で、嫌でも互いの体温が伝わってくる。
「そよぎちゃん……あったかい……」
みのりは子猫のように私にすり寄り、背中に腕を回してきた。その身体は小刻みに震えている。
「……腕の、紋様のところがね、ズキズキするの。でも、嫌な感じじゃなくて、なんだか、気持ちいいっていうか……。誰かに、ここをいっぱい触ってほしい、みたいな。へんなの……」
呂律の回らない口調で、みのりは自分の症状を告白する。
その言葉の一つ一つが、私の肌に直接書きつけられるように生々しい。
(ディスト……クソ野郎、なんて悪趣味な呪いを……)
これは精神攻撃だ。魔法少女の誇りや羞恥心を内側から破壊し、快楽で屈服させるための、実に陰湿な兵器。
隣で聞こえる、みのりの荒い吐息。時折漏れる「ん……」とか「ぁ……」とかいう小さな声が、私の理性をじわじわと削っていく。
気のせいか、私の身体の奥まで、じわりと熱が伝染してくるようだ。
――結局、その夜は一睡もできなかった。
翌朝、談話室に集まった私たちの顔には、疲労の色が濃く浮かんでいた。
特にみのりは目の下に隈ができており、どこかぼんやりとしている。
「作戦を立てよう。一刻も早く、ディストを叩くために」
ひかりがテーブルに天原町の立体マップをホログラムで投影し、強い口調で言った。
彼女が指し示したのは、町の外れにある旧工業地帯。ポムの解析によると、そこにディストの拠点がある可能性が高いという。
「……敵の本拠地は厳重な結界で守られているみたい。正面からの突入は、難しいかもしれない。でも、やるしかない!」
「待った」
私が口を挟むと、全員の視線が私に集まった。
「そんな根性論で突っ込んで、返り討ちに遭うのがオチじゃない? この前みたいな上級淫魔がうじゃうじゃいたらどうするのさ」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ! みのりの呪いは、待ってはくれないんだぞ!」
ほむらが食って掛かってくる。その通りだ。時間がないのは分かっている。
「だから、もっと情報を集めるべきだって言ってんの。ディストの弱点、結界の抜け道……何かあるはずでしょ。私、ちょっと心当たりがあるから、探ってくるよ」
「そよぎ……」
ひかりが不安そうな顔で私を見る。
「大丈夫だって。金の匂いがするところには、私の鼻が利くんだからさ」
私はウィンクして見せ、一人支部を抜け出した。
もちろん、心当たりなんてない。金で情報を買うだけだ。私の虎の子の財産がまた減ってしまうが、今は必要経費と割り切るしかない。
薄暗い路地裏、怪しげなネオンが灯る雑居ビルの地下。
そこで私は、情報屋の男と会っていた。痩せた狐のような顔の男は、私の差し出した光の結晶(淫魔討伐報酬の一部だ)をいやらしい目つきで眺め、口を開いた。
「『色欲の呪印』ねぇ……。嬢ちゃんも、お仲間がやられちまったクチかい」
「いいから、知ってることを全部話してよ。ケチったら、あんたのこの汚い店ごと風で吹き飛ばすから」
「ひぃ、こわいこわい……」
男は大げさに肩をすくめてみせる。
言葉に反して、余裕ぶった訳知り顔は少しも崩れることはない。
……こいつは多分、人間じゃない。
確証はないけど、魔法少女の直感がそう告げている。
恐らく淫魔か、それに準ずるナニか。
しゃべるたび、舌の奥から甘ったるい腐臭が滲む。
目つきも、たまに獲物を値踏みする猛禽みたいに光る。
だけど、そんなことは私にとって些細なことだ。
重要なのは彼の存在が私にとって有用かどうか。情報を渡してくれるなら、それが天使だろうが悪魔だろうが構わない。
「ディストのやり口はいつも同じだ。まず、手下に獲物を選ばせる。狙うのは、魔力が高く、精神が脆そうな娘だ。そして、呪印を刻み込む」
「……それから?」
「あとは待つだけさ。呪印は宿主の魔力を吸って成長し、心と身体を甘く熟成させる。恐怖、羞恥、怒り……そういった感情が、呪印にとっては極上のスパイスになるらしい。そして、獲物が完全に熟れきって、自分から交配を望むようになった頃に、美味しくいただくのさ」
胃の腑が冷たくなるのを感じた。
熟成? いただく? まるで果実か何かのように……。
「何か……何か、対抗策はないの?」
「一つだけ、噂を聞いたことがある。呪印は、強い魔力に共鳴する性質があるらしい。もし、宿主の近くに、宿主以上の強い魔力を持つ者がいれば……呪印は、より美味そうな餌に乗り換えようとするかもしれない」
「……どういうこと?」
「つまり、呪いそのものを、別の誰かに『肩代わり』させるってことさ。もちろん、肩代わりした方がどうなるかは……分からねぇがな」
情報屋の言葉が、頭の中で反響する。
呪いの肩代わり。そんな、自己犠牲の塊みたいなことを誰が……いや、進んで立候補しそうなお人よしに何人か心当たりがある。私は、ごめんだけど。
その時だった。
私の右腕に、また、あのむず痒い感覚が走った。
昨日よりも、もっとはっきりと。
肌のすぐ下で、小さな虫が這い回るような、ぞわりとした悪寒。
(まさか……『共鳴』って……)
私は情報屋に礼も言わず、ビルを飛び出した。
胸騒ぎがする。嫌な予感が、心臓を鷲掴みにする。
昨晩、みのりは何故、私の部屋に訪れた?
他の誰でもなく、私を選んだ理由はなんだ?
私の魔力総量は、六華の中でも1、2を争うほど多い。
呪印の『強い魔力に共鳴する性質』。仮にそれが、みのりの行動を操っていたのだとしたら……。
支部に駆け足で戻り、みのりの部屋へと向かう。
ドアは、僅かに開いていた。
中から聞こえてくるのは、押し殺したような、甘い声。
「んっ……ぁ……ディスト、さま……はやく……わたしの、なかに……」
恐る恐る、隙間から中を覗き込む。
そして、私は見た。
カーテンの隙間からこぼれる月明かりの下で、みのりの身体がシーツの上でかすかに揺れている。
抑えきれない吐息と、どこか熱を帯びた湿った空気。
その視線は虚空を彷徨い、潤んだ瞳には理性の光など欠片も残っていない。
ネグリジェの肩紐が片方だけ落ちていて、細い指が、自分の腕をぎゅっと抱きしめている。
その二の腕――
黒い呪印が、今にも肌を食い破るように蠢いている。
「……あ、ぁんっ……もっと……もっと、つよいのが……ほしい……」
みのりが、喘ぐ。
その瞬間。
「……っ!?」
私の右腕に、焼印を押し付けられたような激痛が走った。
思わず袖をまくり上げる。
そこには――信じがたいことに、みのりの腕にあるものと全く同じ、黒い紋様が、うっすらと浮かび上がり始めていた。
共鳴している。
みのりの呪印が、私の魔力に反応して、私の中にまで根を伸ばし始めているのだ。
(くそ、やられた……!)
みのりの部屋から漏れ聞こえる、恥も外聞もない嬌声。
そして、それに呼応するかのように疼く、私の腕の呪印。
情報屋の言葉が脳内でリフレインする。『呪印は、より美味そうな餌に乗り換えようとする』。
昨晩、呪印は私に『共鳴』した。
みのりを苗床として熟成させながら、同時に、より上質な餌である私にも触手を伸ばしてきたのだ。
なんて効率的で、悪趣味なシステム。
ディストの歪んだ顔が目に浮かぶようだ。高みの見物をしながら、二人の魔法少女が堕ちていく様を愉しんでいるに違いない。
絶望が、全身を駆け巡った。
仲間を救う? ディストを倒す?
そんなものは、もうおとぎ話だ。
選択肢は、二つしかない。
このまま、みのりと一緒に甘い毒に沈むか。
それとも――
全てを捨てて、この呪われた街から、一人で逃げ出すか。
私の唇から、乾いた笑いが漏れた。
ああ、なんてことだ。
私が一番恐れていたことが、現実になろうとしている。
私もまた、あの醜悪な鬼の獲物になってしまったのだ。