第三話『色欲の呪印』
さっきまでの賑わいが嘘だったかのように、部屋を静寂が支配する。
誰も彼もが呆然と、みのりの白く柔らかな二の腕に浮かび上がった、禍々しい紋様に釘付けにされていた。当然、私も。
心臓の音が、やけに大きく耳の奥に響く。鼓動に合わせて、紋様も微かに脈打っているように見えた。
「う、うそでしょ……?」
最初に声を絞り出したのは、雷の魔法少女・雷電アキラだった。
彼女は椅子を蹴るように立ち上がり、みのりの隣まで一気に駆け寄る。伸ばしかけた指先は、紋様の数センチ手前でぴたりと止まった。
まるで毒蛇に睨まれ、触れた瞬間に牙を立てられると知っているかのように――その指先が震える。
「みのりん、これいつから!? 痛みは!?」
「わ、わからない……さっきまで、なんともなかったのに。ただ、ちょっと痒くて…」
みのりの瞳が不安に潤み始める。
それを見たリーダー、ひかりがハッと息を吸い込み、かろうじて笑顔を作った。
「だ、大丈夫! きっと大したことないよ! すぐに協会のメディカルチェックを受けよう! ね!」
明るく響かせようとした声は、誰の耳にも空回りして聞こえた。
テーブルの端では、炎の魔法少女・紅蓮寺ほむらが唇を噛み、拳で木の天板を叩きつける。ガタン、と音を立ててプリンが揺れた。
「クソッ……! やっぱりあの時の触手か……! あの野郎、ただじゃおかねぇ……!」
周囲がざわめく中、唯一、水の魔法少女・水無月しずくだけが、静かな視線を紋様に向けていた。
彼女は歩み寄ると、熱を孕んだその紋様を凝視する。
「瘴気の反応。ですが、今まで確認されたどの呪詛ともパターンが異なります。まるで、生きているみたい……」
その言葉に、みのりの肩がびくりと震えた。
(あーあーあー、最悪のパターンじゃん)
私は高級フルーツタルトを口に運びながら、内心で舌打ちしていた。
もちろん、表面上は「えー、マジ? なんかエロいタトゥーみたいじゃん?」なんて軽口を叩くのを忘れない。ほむらに「不謹慎だぞ、そよぎ!」と睨まれたが、知ったことか。
パニックは思考を鈍らせる。こういう時こそ、冷静に、現実的に状況を分析しないと。
これは、十中八九、あの最上級幹部『色欲の醜鬼ディスト』の仕業だ。今日の上級淫魔との戦闘は、これを私たちに仕掛けるための罠だったに違いない。
そして、この紋様がただの嫌がらせであるはずがない。
思い出すのは、さっき目にしたアングラ記事。
目的は、おそらく――『改造』。
魔法少女を、奴らの子を孕むための『苗床』に作り変えるための、呪われた刻印。
先輩の、あの虚ろな瞳が脳裏をよぎる。
まずい。非常にまずい。
このままでは、みのりは手遅れになる。そして、次は私たちかもしれない。
「とにかく医務室へ!」
ひかりの号令で、私たちはすぐさまみのりを連れて支部内のメディカルルームへ向かった。
結果は、絶望的だった。
「『色欲の呪印』。便宜上、そう呼ぶことにしたポム……」
モニターに映し出されたみのりの腕の解析データを見ながら、担当の妖精――ただ丸っこいだけの役立たず、ポム――が重々しく告げる。普段の気の抜けた声とはまるで違う。
「この呪印は、宿主の魔力と負の感情を糧に強くなって、身体を内側から『淫魔』の瘴気に最適な状態へと作り変えていくポム。具体的には、肉体の感覚を鋭敏化させ、精神の抵抗力を少しずつ奪い、最終的には……術者であるディストへの絶対的な忠誠と、交配への強い欲求を植え付けることを目的としているみたいポム」
部屋の照明がやけに白く感じる。冷たく硬い空気が肺に刺さり、呼吸すら重い。
「……苗床に、なるってことか」
ほむらが絞り出すような声で言った。ポムは、無言で頷いた。
「治療法は?」
しずくの問いに、ポムはかぶりを振る。
「わからないポム……。協会の最高技術でも、この呪印の進行を完全に止めるのは……難しいポム。進行をわずかに遅らせる抑制剤を投与するのが、僕たちにできる精一杯ポム……」
時間稼ぎにしかならない――その現実が、全員の胸に重く沈んだ。
沈黙の中、みのりはベッドの上で膝を抱え、唇を噛んで俯いている。その肩が小刻みに揺れているのを、誰も口にはしなかった。
つまり、みのりは体内に時限爆弾を抱えてしまったようなものだ。時を稼ぐことはできても、いつかは爆発する。
「そんな……じゃあ、みのりんはどうなるの!?」
アキラが声を荒げる。ひかりは唇を固く噛み、そして一歩前に出た。
「一つだけ……方法があるはずだよ」
全員の視線が、ひかりに集まる。彼女は視線を逸らさず、一人一人の目を見据えた。
「術者を倒せば、呪いは解ける。『色欲の醜鬼ディスト』を、私たちが倒すんだよ!」
(出たよ、脳筋理論……)
空気が震える。だがその震えは、決意よりも無謀の匂いが濃い。
私は心の中で深くため息を吐いた。上級一体に六人がかりでやっとの私たちが、その親玉をどう倒すというのか。
だが、みのりはその言葉に縋るように顔を上げた。
「ひかりちゃん……」
「大丈夫だよ、みのり。私たちがついてる。絶対に助けるから!」
ああ、もうダメだ。この雰囲気。希望に満ち溢れた、あの目。
こうなったらもう、誰もひかりを止められない。ほむらもアキラも、その気になっている。しずくですら、静かに覚悟を決めた顔をしている。
「そよぎも、協力してくれるよね?」
きた。ひかりの真っ直ぐな瞳が、私を射抜く。
私はとぼけた笑みを浮かべて首を傾げ、軽く唇に指を添えた。
「んー。でもさぁ、そもそもディストが何処にいるかもわかんなくない? どうやって探すの?」
ひかりの瞳が揺れる。だが、すぐにテーブルの上のポムが跳ねた。
「呪印と術者の間には、魔力の糸みたいな繋がりがあるポム。糸はすごい細いけど、ちゃんと辿れるポムよ。こっちで解析したら、糸の向こう側……つまりディストの居場所もわかっちゃうポムよ!」
この毛玉。大人しく無能しとけばいいのに、こんな時に限って。
瞬間、全員の顔が希望に照らされ、決戦の熱が一気に高まる。
ここで「やだ。死にたくないし」と言えるほどの勇気は、残念ながら私にはない。そんなことを言えば、このチームでの居場所はなくなる。それはそれで、面倒だ。
「……しょーがないなー。ま、ディストを倒せば、特別ボーナスもがっぽりだろうし? いっちょ、やりますか」
私はいつも通り、飄々と笑って見せた。
ひかりが「ありがとう、そよぎ!」と花が咲くように笑う。その笑顔が、なぜか胸にチクリと刺さった。
その夜、私は自室のベッドで、一人スマホの光に顔を照らしていた。
『ディスト 弱点』『呪印 解除 他の方法』『天原市 地下空洞 マップ』
あらゆるキーワードで、裏情報を漁る。
仲間と心中する気はない。でも、目の前でみのりがああなっていくのを見過ごすのも、寝覚めが悪い。なにより、次は自分がそうなるかもしれないという恐怖が、冷たい触手のように私の心を締め付けていた。
不意に、自分の二の腕に、むず痒いような感覚が走った。
まさか、と思って服の袖をまくり上げる。
そこには、何もない。滑らかな肌があるだけだ。
……なのに。
肌の奥深くで、何かが疼くような気がしてならなかった。あの戦闘で浴びた、淫魔のぬめった体液。あれが、まだ私の身体のどこかに残っているんじゃないか。
「……はぁ」
甘く、熱い吐息が漏れた。
心臓が少しだけ速く脈打つ。
気のせいだ、と自分に言い聞かせる。疲れているだけ。ストレスだ。
私はスマホの画面に、新たな検索ワードを打ち込んだ。
『魔法少女協会 亡命 手続き』
最後の手段は、常に用意しておくべきだ。
たとえ、仲間を見捨てることになったとしても。
その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音。
「……そよぎちゃん? 起きてる……?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、みのりの声だった。
私は舌打ちしそうになるのを堪え、スマホの画面を消してベッドから起き上がった。
「どしたの、みのり? こんな夜中に」
ドアを開けると、そこにはネグリジェ姿のみのりが、不安そうな顔で立っていた。
「ごめんなさい……。あのね、なんだか、身体が熱くて、眠れなくて……。呪印のところが、すごく……疼くの……」
そう言う彼女の頬は上気し、瞳は潤み、どこか焦点が合っていない。吐息は甘く、熱っぽい。
抑制剤は、もう効いていないのか?
みのりは、ふらり、と一歩踏み出し、私の身体に寄りかかってきた。
華奢な身体から伝わる熱と、微かな甘い匂い。
それは、あの『淫魔』の匂いによく似ていた。
「ねぇ、そよぎちゃん……なんだか、変な気分なの。身体の奥が、きゅーってして……もっと、熱いのが、ほしい、みたいな……」
耳元に落ちる囁きは、柔らかな棘のように鼓膜を刺す。
吐息が耳朶をかすめ、首筋をなぞる熱が背筋を這い上がる。
恐怖と、説明できない高揚が、心臓を同じ速さで叩きつけた。
呪いは、もう始まっている。
その熱は、すぐ隣まで、迫っていた。