第一話『仮面の下で舌を出す』
――淫魔。
それが初めて観測されたのは、今から十年以上前のこと。
異世界から突如現れた彼らは、残念ながら分かり合える隣人ではなく、無慈悲な侵略者だった。
彼らは、魔法と呼ばれる超常の力を操り、人々を襲った。
殺し、虐げ、弄び、そして尊厳すらも踏みにじる。
必死の抵抗もむなしく、淫魔の魔法と驚異的な再生力の前では、銃火器は歯が立たず、人類は次第に押し込まれていった。
いくつもの都市が放棄され、街路は草に呑まれ、文明はひと世代ぶん後退した。
その絶望の淵で、彼女たちは現れた。
闇を裂く閃光のように、地平から昇る朝日のように。
光の妖精と契約し、同じ魔法の力を手にした少女たち――魔法少女。
彼女たちと淫魔の戦いは、今もなお続いている。
これは、天原町を舞台としたお話。六華のひとひら、風の魔法少女の物語。
◇◇◇
夜の空気に、鉄錆と、そして嗅ぎ慣れてしまった異形のモノが放つ甘ったるい腐臭が混じり合っている。
かつては子供たちの笑い声が響いたであろう公園は、えぐれた地面と砕けたコンクリートの瓦礫の山だ。その中心で、六人の少女たちが荒い息を繰り返していた。
光の粒子を纏い変身した魔法少女の衣装は、そのほとんどが無惨に引き裂かれ、泥と得体の知れない体液に汚れ、普段は隠されているはずの柔らかな肌が痛々しく覗いている。
「はぁ……っ、はぁ……」
誰かの吐息が、やけに艶めかしく鼓膜を震わせる。
私、翡翠そよぎも例外じゃない。風を操る身軽さが売りの私が、地面に膝をつきそうになるなんて。それほどの、強敵だった。
額から流れ落ちる汗を指先で払うと、乱れた髪がはらりと肩に落ちる。眠たげだとよく言われる目元も、今は血の気の引いた頬の上でぎりぎりの集中を保っていた。
裂けたチェニックの裾と泥にまみれた外套は、風を孕む軽やかさをすっかり失い、手にした魔法の箒の柄には焦げ跡とひびが走っている。
……いつもの「風のそよぎ」は、もう少し小綺麗なはずなんだけどな。
目の前には、数分前まで私たちを蹂躙しようとしていたモノの亡骸が転がっている。
黄ばんだ濁った目、不揃いな牙が覗く裂けた口、肥え太った体躯を覆う鋼のような皮膚。そして何よりおぞましいのは、下腹部から蠢くように伸びる無数の触手……その一本一本が、獲物の胎内に卵を注ぎ込むための産卵管だというのだから、反吐が出る。
そいつを倒すために、私たちは文字通りすべてを出し尽くした。
魔力はすっからかん。身体はどこもかしこも傷だらけ。おまけに秘蔵の回復ポーションまで吐かされて、お財布の中身まで痛いときたもんだ。満身創痍。まさにボロ雑巾といったところ。
(上級淫魔の討伐報酬は一体につき500万。でも6人で山分け。今回の持ち出しを差し引くと……黒字。かろうじて。うん、笑うところ)
脳内算盤が弾き出した可愛らしい数字に、乾いた笑いが零れる。
年頃の少女が手にするには十分な金額。だけど、命がけで戦った対価としては……。
ぼんやりと考えに耽っていると、不意に瓦礫を明るい声が跳ねてきた。
この場に集まった六人の魔法少女、通称『六華』。そのリーダー格、天野ひかりだ。
「やった……やったね、みんな!」
破れたスカートから覗く太腿の傷も厭わず、彼女は希望に満ちた光をその瞳に灯して微笑む。
「これからも……きっと勝てるよ。私たちが力を合わせれば、必ず!」
ああ、出た。光属性特有のキラキラポジティブシンキング。眩しすぎて目が潰れそうだ。
ひかりの言葉に、炎を操る紅蓮寺ほむらが「当然だ!」と拳を握り、水の魔法少女、水無月しずくが「ええ、信じています」と静かに頷く。大地と雷の二人も、それぞれに同意を示している。美しい友情。素晴らしい団結力。
(いやぁ……。無理じゃないかなぁ……みんな頭お花畑すぎぃ……)
私、翡翠そよぎは、もちろんそんな内心をおくびにも出さない。
疲労感を滲ませつつも、普段通りの飄々とした、どこか余裕のある笑みを唇に貼り付けたまま、みんなのやり取りを眺めている。掴み所のない風の魔法少女。それが私のパブリックイメージであり、処世術だ。
心の内では、苦労に釣り合わない報酬の少なさに溜息をつきたい気分だ。
そもそも私が命懸けでこんなことをしているのは、崇高な使命感からじゃない。光の世界の妖精――うちの担当の、丸っこいだけの役立たず――が「淫魔を倒すと魔法少女協会から報酬が出るポム! レアな個体ほど高額ポム!」なんて甘い言葉で囁いたからだ。
そう、全てはお金のため。
将来は世界中を旅して、美味しいものを食べて、可愛い服を着て、のんびり暮らすのが私の夢。
そのための資金稼ぎ。それだけだったはずなのに、気づけば『六華』なんて大層な名前で呼ばれるトップ魔法少女の一人になっていた。まったく、世の中ままならない。
「でも、最近のあいつら、手強くないか?」
ほむらが吐き捨てるように言った。その通りだ。
この天原町に、奴らの最上級幹部――『色欲の醜鬼ディスト』が現れてから、全てが変わった。今まで烏合の衆だった下級の『淫魔』どもが、まるで軍隊みたいに統制の取れた動きを見せるようになった。一体一体は弱くても、数と連携で来られると厄介極まりない。
そして、今日みたいな上級個体の出現。トップクラスの私たちが六人がかりで、死ぬ気で戦って、ようやく相打ち寸前のギリギリ勝利。
その背後には、まだディスト本人が控えているのだ。
噂によれば、ディストの手に掛かった魔法少女は、どれも悲惨な末路を辿るという。泣いて、喚いて、嬌声をあげさせられ、飽きるまで弄ばれた挙句、その身体は『淫魔』を孕むための苗床へと変えられる。
今日の戦いですら、あるいはディストが私たちの実力を測るために用意した、ただの余興だったのかもしれない。そう考えると、「力を合わせれば勝てる」なんて、集団自殺の合言葉にしか聞こえなかった。
「……先輩」
不意に、脳裏を過る。
私より少しだけ先に魔法少女になり、憧れだった先輩。任務中に行方不明になり、数週間後に保護されたと聞いて、協会の医務室に見舞いに行った日のこと。
そこにいたのは、もう彼女ではなかった。
虚ろな瞳は何も映さず、ただ天井の一点を見つめているだけ。かつて溌剌としていた面影はなく、痩せた頬、生気のない肌。そして、不自然に膨れ上がった腹部。
シーツの上まで染み出していた、甘く腐ったような匂い。
あれは、未来の私、私たちの姿なんじゃないか。思い出すだけで、下腹の奥がきゅう、と冷たく疼く。
あんな風になるくらいなら、私は――。
「そよぎ? どうかした?」
「んー? ううん、なんでもないよー。ちょっと疲れちゃっただけ」
心配そうにこちらを覗き込むひかりに、私はひらひらと手を振って見せる。いつもの、軽いノリで。
「さーて、反省会もいいけど、さっさとシャワー浴びて美味しいものでも食べ行こ! 報酬、前借りで奢ってよ、リーダー!」
「も、もう! そよぎはいつもそればっかり!」
頬を膨らませるひかり。笑い合う仲間たち。
この日常が、いつまで続くんだろう。
私は笑顔の仮面の下で、冷静に思考を巡らせる。
どうすれば、この地獄から抜け出せる?
どうすれば、あんな末路を辿らずに済む?
仲間たちと、そして私が生き延びるために、打てる手は何か。
最後の最後の手段として――自分だけでも逃げる算段も、頭の片隅に用意しながら。
風の魔法少女、翡翠そよぎ。
私の本当の戦いは、どうやらここから始まるらしい。
とりあえず、今日のところは飄々と笑っておこう。明日を生きるために。