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9.八王子の夜に覗く

 終電を逃した深夜の八王子駅北口。喧騒の名残だけが空気に残り、ロータリーのタクシー乗り場にぽつりと残った一台に、俺は乗り込んだ。


「恩方のほうまで」


「はいよ」


 運転手は五十代くらい。癖のない声で答え、エンジン音が低く震える。ヘッドライトが夜の舗道を淡く撫で、白線の消えかけた道路に幻想的な帯を描いた。

 放射線通りに入ると、さっきまでの明るさが嘘のように、街が静まり返っていく。夜の八王子は、光と影の境界線がやけにくっきりしていた。遠くで誰かの笑い声が風に掠れ、ビルの隙間から冷たい風が吹き抜ける。


「このへん、夜は人通り少ないんですね」


  とつぶやくと、運転手がミラー越しに目を細めて笑った。


「ええ。だからですかね……その手の話は多いんですよ、この街」


「その手の話?」


「怪談ですよ。八王子ってのは、地形も歴史も入り組んでてね、山もあれば古道もある。昔は処刑場も近かったって言います。八王子城跡なんか有名でしょ? わりと本気で、この街は夜中にひとりで歩くもんじゃない」


 車は横山町を抜け、暗い中野町方面へ差し掛かる。ビルの谷間にぽっかり空いた空地が見え、その向こうに、黒く焼け焦げた建物がぽつんと残っていた。夜露に濡れたコンクリートが、不気味に青白く浮かび上がる。


「たとえば、あのビル。見えました?」


「……はい。さっきの、黒い……?」


「あれはね、五年前に火事があった雑居ビルなんです。三階建てで、いまは立入禁止。まだ解体されずに残ってます。……だけどね、不思議な話があるんです。火事の前、その一階に“鏡だけを扱う”小さな店が入ってたっていうんです」


「……鏡?」


「ええ。骨董みたいな古鏡や、和風の三面鏡なんかを売ってたとか。店の名前は誰も覚えてない。ただ、あの火事の晩……若い男がひとり、あそこに入っていくのを見たという人がいる」


 運転手の語り口が淡々としているぶん、言葉が染みるように耳に入ってくる。窓の外、電灯に照らされた雑草が風に揺れ、不吉なざわめきにも似た音を立てた。


「その男、帰ってこなかったみたいですよ。数日後、あのビルの前でスマホだけが見つかったそうで。警察によると、スマホの動画データには、"鏡にうつる彼の姿"が、最新で最後だったそうです。妙なのは、鏡の反射が——"遅れてた"らしいんですよ。微妙に。首の角度とか、目線とか……」


  車は中野通りから秋川街道へと滑り込んでいく。夜が深まるにつれて、街の色がどんどん抜け落ちていく。ライトが水たまりに反射し、揺れる光がまるで生き物のように蠢いた。


「それからというもの、時々“鏡が見えた”という人が出るんです。あのビル、今はもちろん真っ暗なはずなのに、夜中になると一階の窓だけ、うっすら光って見える。何もないはずの窓に、並べられた鏡がずらりと映ってて……」


 運転手は続ける。


「けど、昼間に行っても、何もない。ただの焼け残った空っぽの空間です。でも、“見た”って言う人は、みんな、決まってこう言うんですよ。"こっちを覗いてた"って……」


 車は静かに停まった。目的地に着いたようだ。俺が財布を出そうとしたとき、運転手がこちらを一瞥して、ぽつりとつぶやいた。


「……こっちが覗いてるつもりでも、"あちらさん"も覗いてるってこと、あるんですよ」


 釣り銭を渡し、タクシーは去っていった。テールランプの赤い残像が、ゆっくりと夜に溶けていく。

 残された俺は、ぼんやりと立ち尽くす。街灯の光が遠ざかり、耳に残るのは自分の鼓動だけだった。

 背後の自動販売機のガラスに、何かが映った気がして振り返る。誰もいない。ただ、ほんの一瞬——反射の中の“俺の目線だけ"が、こちらを見返していたように思えた。その視線は、自分のではないような冷たい何かだった。

 夜風が頬を撫で、背筋に冷たい震えが走った。誰もいないはずの世界に、確かに“見つめられている”感覚だけが、じわりと残った。

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