7.阿佐ヶ谷にはやさしい雨が降る
私は雨女だ。
だから、私は嫌われる。
雨が好きな人間は少ない。いや、そんな人間、いるのだろうか?
阿佐ヶ谷パールセンター。土曜日の午後、アーケードの下は湿気に濡れた人波で溢れている。
レインコートに身を包んだ子どもたちが、母親の手を引いて走り抜ける。傘の水滴を払う音、濡れた靴底がアスファルトを叩く音、立ち止まる観光客たちのざわめき。
濃密な音の層が、耳を塞ぐように重なる。 私は、そわそわと彼を待っていた。
黄色い提灯の灯りが、しっとりと空気を染めている。
頭上のアーケードを叩く雨音が、ざらりと胸を撫でた。
ふと、傘を畳みながら歩く彼を見つけた。 湿った人並みの中、なぜかすぐに分かる。 癖のある黒髪、黒一色のパーカーに黒いジーンズ。ただ、足元だけが異様に白い。真新しいスタンスミスのスニーカーが、商店街の水たまりを鮮やかに弾いていた。 彼は、私を見つけると、ニカッと笑った。 奥歯まで見えそうな無防備な笑顔。 胸が、キュッと締めつけられる。 雨音が一層強くなった。
「ごめんね! 待った?」
「ううん、今来たとこ」
嘘だ。二時間も前からここにいた。 アーケードを何度も行き来して、ポケットの中で指を組み変えながら、心臓の音をごまかしていた。
「すごい雨だね」
「うん、ごめんね」
「違う違う! そういうことじゃなくて! ……とりあえず、どっかで座ろうか」
彼の明るさが、アーケードの天井に反響する。 私は、黙って頷いた。
パールセンターには、どこまでも屋根が続いている。 和菓子屋、古着屋、雑貨店、居酒屋。 軒先に並ぶビニールテントの下、店員たちが水滴を払う。
商店街を行き交う人々は、それぞれに違うリズムで歩いていた。ベビーカーを押す若い夫婦、折りたたみ傘を小脇に抱えた老人、デート帰りらしい高校生たち。 雨はやむ気配もなかった。
私たちは、まだ入ったことのないカフェを新規開拓するのに最近ハマっている。そして、ふと見つけた古い喫茶店に入る。
扉を開けると、コーヒーと濡れたアスファルトの匂いが混ざった空気が、鼻をくすぐった。
カウンターに座った老夫婦が、小さな声で話している。
私たちは窓際のテーブルに腰掛けた。 外のアーケードを行き交う人々が、ぼんやりと滲んで見えた。 彼は、メニューを開いたかと思うと、急に笑い出した。
「見て、クリームソーダあるよ。懐かしい」
「飲むの?」
「うん、たまにはね」
彼は緑色のクリームソーダを頼み、私はブレンドコーヒーを頼んだ。 彼が嬉しそうにストローをくるくる回すのを見ながら、私はふっと力を抜いた。 店の隅には、古びた映画雑誌が積まれていた。 彼はそれを手に取り、パラパラとめくる。 名前も知らないモノクロ映画の話を楽しそうに語る彼を、私はただ見ていた。
アーケードを叩く雨音は、少しだけ弱まった。 そのあと、TSUTAYAに立ち寄る。DVDコーナーは人もまばらで、蛍光灯の明かりが濡れた床を鈍く照らしている。 彼は、ジャケットの裏を眺めながら、監督の名前をぽつぽつと呟いた。 私は、隣でただ相槌を打つ。彼の解説や俳優達のトリビア、映画のあらすじなんてほとんど頭に入ってこない。
彼の横顔だけを、心に焼きつけるみたいに見つめた。
帰り道。 彼がポケットから、小さな紙袋を取り出した。
「今日、君に渡そうと思って」
袋の中には、小さなキーホルダーが入っていた。傘を差しくるくる踊るジーン・ケリー。『雨に唄えば』。
映画の中の、あの有名なシーン。
「雨も、悪くないよ」
彼は、躊躇いもせずに言った。 私は、うまく答えられなかった。 雨音が、また強くなった。
アーケードの屋根を打つ水音が、心のどこかを叩く。
「俺さ、阿佐ヶ谷に引っ越そうと思ってるんだ」
「……そうなんだ」
喉の奥が、ひりついた。でも、次の言葉が、すべてを変えた。
「よかったら、一緒に住まない?」
冗談みたいに、軽く、真剣な顔で。
「無理だよ」
私は笑った。
「どうして?」
「だって、私……」
私は、妖怪だ。
妖怪・雨女。
人に疎まれ、遠ざけられる存在。だけど。
「……一緒に、映画見たいなあ、なんてさ」
彼が冗談のように言う。 アーケードの天井から、わずかに漏れる雨粒が、彼の髪に落ちる。
彼は無邪気に笑った。それだけだ、ただそれだけなのに、私は、その笑顔をずっと見ていたいと思った。
私は雨女。
映画みたいな恋をした。
人間に恋をしてしまった、バカな妖怪だ。
そっと、彼の手に触れた。 それだけで、胸の奥が溢れそうだった。
アーケードを叩く雨音は、まだ、止まなかった。