5.吉祥寺ループステーション
井の頭公園のすぐ近く、雑居ビルの二階にある小さな事務所。鈍い蛍光灯の明かりの中、主人公は静かにノートPCを操作している。
医薬部外品を取り扱うECサービスの出荷所、その全業務を一人で担っていた。 「本日の出荷件数、十二件」 ブツブツと呟きながら、伝票を印刷し、商品を梱包する。
業務の終わりには日報をクラウドへと投げ込み、夕方五時、タイムカード代わりのアプリに退勤の打刻をする。
事務所を出ると、春の気配を感じさせる空気が鼻先をくすぐった。彼は駅とは反対方向、井の頭公園へと足を向ける。 途中のコンビニで缶チューハイを二本購入し、公園内のベンチに腰を下ろす。
桜は、あと数日で満開を迎えるところだった。 カップルが手を繋いで歩いている。大道芸人がディアボロを回している。学生の集団が笑いながら酒を飲んでいる。
彼はただ、それを眺めていた。 焼き鳥屋で串盛りを買い足し、缶酎ハイをもう一本開ける。
賑やかな風景のなか、自分だけが透明になったような気がした。 やがて空が赤く染まり始めると、彼は駅の方へ歩き出す。
改札の前でふと立ち止まり、考える素振りを見せたが、すぐにまた歩き出した。 北口から徒歩十五分のアパートに帰る途中、ヨドバシカメラの明るい看板が目に入る。 「ああ、そうだ」 キッチンの棚上の照明が明滅していたのを思い出し、LEDランプを買おうと決める。
だが、次の瞬間にはなぜかその足が止まっていた。
翌朝、七時三十分。スマホのアラームが鳴る。 もぞもぞと布団を抜け出し、コーヒーを淹れる。キッチンの照明が明滅している。昨日買ったはずのLEDランプはどこにもない。
「今日、帰りにヨドバシ寄るか……」
ぼんやりとそう考えながら、彼は支度を整える。 事務所に着くのはいつも八時五十五分。変わらない日課。ノートPCを起動し、カロリーメイトを頬張る。出荷件数は十二件。
梱包作業を淡々とこなし、夕方に日報をクラウドへアップ。
今日こそは、と事務所を出る。公園を抜けて焼き鳥屋に向かう。今夜はカウンターが空いていた。
「つくねと、ボンジリ。あとビールください」
三十分後、満足げに店を出る。なんとなく本屋に寄り、なんとなく棚を眺める。
タイトルの文字が霞んで見える。 ――ああ、照明。
急いでヨドバシに向かう。が、またしてもその足は途中で止まり、いつの間にかアパートへと戻っていた。
翌朝も、同じ。 照明は明滅している。昨日も一昨日も、買った記憶があるのに、ランプはない。
彼は思い出そうとするが、時間の感覚が曖昧になっているのに気づく。
何日目だ?
吉祥寺という街は、確かに便利だった。 なんでも揃う。駅前にはヨドバシもあれば、ユニクロもある。公園も、飲み屋も、すべてがちょうどいい距離にある。 まるで、出る必要がないように。 ……出られないように。
夜、彼はふとスマホのカレンダーを開く。そこには何の予定も入っていない。過去の日付も、未来も、すべてが今日だった。
気づけば、公園のベンチに座っている。 いつ買ったのか、手元には缶酎ハイがある。 目の前をカップルが通り過ぎ、大道芸人が拍手を浴び、学生の笑い声が響く。
「この光景……前にも……」
彼の呟きは、春の風にかき消された。 明日もきっと、同じ日が繰り返されるのだろう。 ――吉祥寺から、出られない。
そのことに、本当の意味で気づいたとき。 彼の周囲にあった人々の顔が、少しずつ、崩れていく。 笑っていたカップルの頬がただれ、大道芸人の腕が異常な角度に折れ、学生たちの目が黒く潰れていた。
それでも彼は、ただぼんやりと、それを眺めるしかできなかった。
何せ、ここは吉祥寺なのだから。 住むのに、なんの不自由もないのだから。




