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10.武蔵小金井に甘く溶ける

 武蔵小金井駅の南口を出て、真由は細い日差しの下を歩き出した。午前十時過ぎ。駅前の喧騒も、商店街を抜けたあたりから緩やかにほどけてゆく。何かに導かれるように、彼女はバス通りを左に折れ、雑木の影をかすめる小径へと足を向けた。


 石段は浅く、歩くたびにさくりさくりと小さな音がした。

 左手には墓地、少し先には年月の擦れた木造アパート。布団が干されていて、その影が窓ガラスにゆらゆらと映っている。アパートの裏手には柿の木があり、梢にいくつか、冬を越した硬い実がぶら下がっていた。


 真由の目的地は、もう少し先——府中の免許センターに向かう途中、かつて偶然見かけた野川沿いの風景だった。柳の枝が垂れ、川面を渡る風が光を刻む場所。スケッチしたいと、ずっと思っていた。そのための休日であり、そのための靴、鞄、軽微な服装だった。

 ——けれど、ふと気づけば、目の前には見知らぬカフェがあった。

 それは、あまりにも自然に、あまりにも美しく、そこに在った。

 白い壁、艶を失った濃紺の木枠、錆びた金具の看板。看板の文字はほとんど消えかけていて、わずかに「le」と読めるような気がした。軒先にはアンティークの植木鉢がいくつも置かれており、そのなかには枯れたアジサイやラベンダーが、不思議な静けさで並んでいた。


 ——この景色を、描きたい。


 それは、彼女にとっても予想外の衝動だった。

 胸の底がふいに焼けつくような、何かがこみあげてくる感覚。空気に紛れる埃や光の粒子さえも絵にしたいと思うほどに、この店は完璧だった。

 扉を押すと、小さな鈴の音がひとつ、ふるえた。

 その瞬間、外気が切り取られ、異なる時間が流れ始めた。

 カフェの内部は、まるで夢のなかの舞台のようだった。

 天井は高く、格子の梁に古いランプがぶら下がっていた。壁一面に鏡が掛けられていて、その一つひとつが微妙に異なる角度で光を跳ね返していた。

 窓際には陶器の天使、棚には古書と小さな地球儀、レコードプレイヤーからは静かなシャンソンが流れていた。


 「すいません……」


 思わずそう口にすると、店の奥から白いエプロンの男が現れた。


 「いらっしゃいませ」


 年齢は、三十代の前半くらいか。長身で、よく通る声をしていた。どこか既視感があるのに、どこで会ったかは思い出せない。


 「あの、"本日のケーキ"と紅茶のセットを。……あと、それと、お店の中を、スケッチしてもいいですか?」


 真由はスケッチブックを取り出し見せる。


 「もちろん。構いませんよ。紅茶は先にお持ちしてもよろしいですか?」


 男は絹のような柔らかさで微笑む。


「はい」


「かしこまりました。少々お待ち下さい」


 スケッチブックを開き、真由はペンを握った。

 描きたくて仕方がない。

 視界に入るものすべてが、自分の手を通じて紙に写し取られるべきものに思えた。

 天井の節目、鏡の映り込み、アンティークの椅子の装飾。彼女は我を忘れ、線を重ねていった。


 やがて、紅茶が運ばれてきた。


 香りは重たく甘く、しかしどこか錆びた金属のような後味が喉奥に残った。


 ケーキは白いクリームの上に、菫色の花びらが飾られていた。口に含むと一瞬、甘味が広がるのに、直後には紙のようにざらついた何かが舌の上に残った。


 不意に、描いていた絵を見直す。


 そこには、見知らぬ風景が広がっていた。


 塔のような構造物、溶けかけた街路、空に浮かぶ魚、仰ぎ見る人々の顔がくねっていた。線は自分の手癖に似ているのに、確かに知らないものだった。


 ページをめくっても、どこにもあのカフェは描かれていなかった。


 どれほどの時間、ここにいたのだろう?


 真由は、自分が今どこにいるのかも、時間の前後関係にも、記憶に齟齬が生じているのにも、いつからか気がついていた。

 気がついていたはずなのに、

 なんだかおかしい、


 「気に入りましたか?」


 いつの間にか、店主が隣に立っていた。


 その顔は、思い出そうとすると、形が歪んだ。目の色が違っていたような、声が二重に聞こえたような、しかしどれも確かではなかった。


 真由は立ち上がった。千円札を乱暴にテーブルに置いた。帰らなければ、というよりも、これ以上ここにいてはいけない、という感覚があった。


 しかし、どちらの壁に扉があったのか、まるで思い出せなかった。


 ——それでも、気がつけば、外にいた。


 春の陽光のなか、野川が静かに流れていた。


 風に乗って、どこかの保育園から子どもの声が聞こえてくる。川沿いのベンチに腰を下ろして、真由はスケッチブックを開いた。


 最後のページには、確かに野川沿いの風景が描かれていた。


 柳の枝、石垣、川面を渡る光の影。構図も筆致も整っていた。だが、それが自分の手によるものかどうか、どこか確信が持てなかった。


 描いた覚えがある。けれど、そのとき何を考えていたのか、何を見ていたのか、記憶はまるで白い霧に包まれていた。


 ふと、ページの隅に書き込みがあるのに気づいた。


 自分の字なのかどうかも、はっきりしない。


 "記憶は、味よりも甘く溶ける"

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