1.高円寺には紙風船が浮いている
高円寺の街を歩くのが好きだった。
アーケードの商店街は昭和の匂いを残していて、どこか懐かしく、歩いているだけで映画の中に迷い込んだような錯覚を覚える。喫茶店、古本屋、カレー屋、路地裏のライブハウス。
どれもがちぐはぐで、それでいて高円寺という街の個性を形作っていた。
人生初のアルバイト探しも、結局は時給の高さではなく、高円寺界隈で、という条件で見つけたのが、趣味で個人がやっている古着屋の店番だった。
その日も、授業を終え、バイト前ににふらふらと商店街を歩いていた。アーケードの上にはカラフルな紙飾りが風に揺れていて、その中に、ふわりと浮かぶ紙風船があった。
「……ん?」
赤と白の模様がついた、それは明らかに他の飾りとは違っていた。誰かが遊びで浮かべたのかとも思ったが、妙に浮遊している位置が安定していた。風の影響をまるで受けていないように見えたのだ。
立ち止まって見上げていると、周囲の人々は誰一人としてその風船に気づく様子がなかった。小学生の子どもたちも、お年寄りも、視線を全く上げない。
自分だけが、それを見ている。
そんな感覚が胸をざわつかせた。
紙風船は、あれから何度も俺の前に現れた。大学の中庭。図書館の入口。夜のコンビニの前。
最初は戸惑ったが、見慣れるうちに少しずつ、恐怖よりも興味が勝ってきた。紙風船はまるで生きているかのように、俺の視界の端をふらふらと漂っていた。
バイト先の古着屋でもそれは起こった。閉店作業中、ドアの外を何かが転がっていく気配がした。開けてみると、例の紙風船がアスファルトの上でゆらゆらと揺れていた。
拾い上げると、軽く、でもどこかひんやりとした感触があった。
「……なんなんだよ、これ」
無意識に手のひらからそっと浮かせてみる。すると、紙風船はふわりと宙に舞い上がった。
その日以来、俺は気づくようになった。自分以外にも、紙風船を「見ている」ような人間が、まれにいることに。だが彼らは、それを見るや否や顔を背ける。ある者は立ち止まり、そして逃げるように歩き出す。
まるで、それが“恐ろしいもの”にでも見えているかのようだった。
ある日、マッチングアプリで知り合った女性、ミオと会うことになった。
カフェでの会話は弾み、彼女は文学部の学生で、小説を書くのが趣味だという。趣味の話から映画、音楽、高円寺のおすすめのカレー屋まで、話は尽きなかった。
食事のあと、駅までの帰り道。
商店街の路地を抜けたところで、俺はふと立ち止まった。
──あった。あの、紙風船。
朱色と青の縞模様。まるで誰かの目のように、空中でじっとこちらを見ている。
「見える?」と、彼女に訊いてみた。
彼女は一瞬、ぎょっとした表情になった。
「……ダメ! それは、はダメ!」
叫ぶような声だった。俺が紙風船に手を伸ばすと、彼女は「ヒッ」と短く悲鳴を上げ、数歩後ずさった。
「ごめん、ごめん! 大丈夫だって、なんかさぁ、君にも見えるんだね? 面白くない? これ?」
言い訳のように笑って見せたが、ミオの顔は青ざめていた。
「あ……、あなたには、それが"何"に見えてるの……?」
何とは? 紙風船じゃないのか?
ちょっと不思議な。
彼女はそれ以上は語らず、別れ際もどこかよそよそしかった。そしてその日を境に、連絡は一切取れなくなった。
あれから一月が経った。
いくつかの偶然と、実用的な理由を積み重ねて、俺は高円寺に引っ越してきた。大学からは少し遠くなったが、バイト先の古着屋に近い。街の雰囲気も嫌いではない。
今、俺の部屋には紙風船が浮かんでいる。
一つや二つではない。十も二十も、色とりどりの紙風船が天井近くをふわふわと漂い、棚の上に、ベッドの脇に、カーテンの隙間にまで入り込んで、気ままに踊っている。
手を伸ばせば、簡単に掴める。
俺には、これが何か悪いものだとは思えなかった。むしろ、どこか心を落ち着かせる存在だった。
しかし、
──彼女には、これがどんなふうに見えていたんだろう。
答えはもうわからない。彼女にはもう会えないだろう。
俺は静かにベッドに腰掛ける。掌の上で紙風船がゆらりと揺れる。少しだけ、脈打っている気もした。
高円寺の夜は静かだった。風もないのに、紙風船たちは楽しげに踊っていた。




