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エピローグ


 あの夜の病室での出来事は、いまでも忘れられない。

 あと一歩が間に合わなくて、包丁は彼女の身体に沈んだ。


 刺した、いや、刺された彼女は膝から崩れ落ちて倒れ、一連の光景を目の当たりにしていた彼女もとい菅原もまた、糸の切れた人形のように倒れてしまった。


 ふたりともが気を失って、次に目を覚ましたときには、なぜか元に戻っていたようだ。


 疲弊(ひへい)した様子で意識を取り戻した菅原を、掴みかかるほどの勢いで涼介さんが責め立てた。

 なぜあんなことを、と。どうしてくれるんだ、と。


 涙ぐみながらも小谷さんが必死で押さえとどめる。

 そんな光景を、僕は半ば放心状態で目にしていた。


 意識不明の重体で助かるかどうか分からない彼女の処置を待つ時間は、永遠のように感じられた。


 取り乱す涼介さんに対して、菅原は至極(しごく)冷静だった。

 というより、彼もまた気抜けしていたんだと思う。

 いざ仕出かしたことの重大さを理解しきれていないのに、実感だけが手に残っていて。


 だけど、お陰でやっと耳を傾けてくれた。

 突っぱねて聞こうともしなかった“あの日”や結菜にまつわる真相を涼介さんから聞いた菅原は、色を失って愕然(がくぜん)としていた。


『そ、んな……』


 信じるか信じないか、という次元の話ではもはやなかった。

 紛うことなき事実でしかないのだから。

 そして、菅原のとった行動と結果もいまさら覆りはしない。


 とんでもないことをしてしまった、と自覚した彼は身を震わせて泣いた。

 取り返しのつかないことをした。

 そうして過ちの埋め合わせをするべく自殺を図ろうとした彼を、必死で止めて────。


 あれからもう、半年が経った。

 その間に病気が進行して、2か月前に結菜は亡くなっていた。




 透明度の高い澄んだ青い空に、わたあめを敷き詰めたようなひつじ雲が広がっている。

 晴れた秋空のもと、両親と妹の眠る墓に手を合わせた。


 隣で同じようにしていた彼女を窺うと、ふいにこぼれた涙を慌てて拭っている。


「また泣いてるの? きみって結構、泣き虫だよね」


「だって……!」


「兄の僕より泣いてる」


 お通夜と葬式で流した分を足したら、もう枯れていてもおかしくないだろうに。

 それより前、泣きながら謝ってきたときのものも合わせればなおさら。


 だけど、結菜を哀れんでいるわけじゃないんだろう。

 僕のほかには彼女だけがきっと、結菜の死を(いた)んでいる。


「もっと話したかった。謝りたかった。一方的に忘れたわたしを、結菜はどう思っただろう……」


「────お互いさまだって思ってるよ、たぶん」


 そう言うと、泣きそうだった表情から一転、彼女は眉を寄せる。


「え? そんな、あんたじゃないんだから……」


「まあね」


 自然と笑ってしまった。

 半年前、僕が彼女で彼女が僕だった頃のことを思い出す。


『分かってるの? お互いさまだよ』


『望むところ』


 お互いを人質に牽制(けんせい)し合う中、常にその認識がついて回っていた。

 利にリスクが伴う点では、対等じゃなくても平等だった。


「でもさ、そうじゃない? きみは忘れたけど、結菜はこの世界ごと捨てたんだから」


 僕のことも彼女のことも、自分のことも捨てたんだ。

 結菜の選択はそういうものだった。


 ごめんなさい、と泣きながら(つづ)って、それでも意思は覆らずに。

 だから、お互いさまだ。


 さぁ、と涼やかな風が吹き抜ける。


 彼女はまたひと粒、涙をこぼした。

 僕はたまらず口を開く。


「……だから、きみだけが負い目を感じる必要なんてないんだよ」




     ◆




 そのあと、バスを乗り継いでふたりで菅原の家を訪ねた。

 彼女はそこで、長いこと仏壇に向かって手を合わせていた。


 きっと、この家へ来ることすら怖かったはずだ。

 特に階段の下やキッチンの前を通るとき、強張った表情で身を縮めていた。


 仏壇に飾られた写真の中で、彼の姉が笑顔を浮かべているのを見ても、彼女は逆に泣きそうな顔になった。




 線香からたなびく細い煙が(くう)に溶けていく。

 たおやかな香りの広がる仏間(ぶつま)から居間の方へ移ると、座卓(ざたく)を囲んで座布団に座った。


「……どんなに謝ったところで、足りないよね」


 彼女の声が重たげに落ちる。

 コップにお茶を注ぎながら、菅原は「そんなことないですよ」と答えた。


「姉さんが階段から落ちたのも薬を詰まらせたのも事故ですから。誰も責めるべきじゃない」


 神妙(しんみょう)な面持ちでうつむいた彼は、おもむろにポケットから何かを取り出す。

 生徒手帳だった。

 天板の上に置き、彼女に差し出す。


「……それなのに、すみません。すみませんでした」


 菅原は床に手をつき、深く頭を下げた。

 慌てた様子で彼女が「新汰くん」と呼んで身を起こさせようとするが、彼はそのまま言葉を繋ぐ。


「俺は“あの日”からずっと、茅野先輩への復讐のためだけに生きてました。姉さんのために、結菜のために……それが使命だと信じて」


 おずおずと頭をもたげたものの、視線を落としたまま唇を噛みしめる。


「でも、実際にはそんなの自分本位な思い込みだった。姉さんの意思も結菜の気持ちも、これまで考えてこなかったし、想像もしてこなかった」


 ちくりと胸に刺さる。

 それは僕にもあてはまる部分があった。


「自分がどうしたいのかが軸になって、周りの何事も決めつけて動いてました。復讐は……ただの自己満足だった」


 ぎゅ、と両手を握りしめる。

 目の前の彼からは、冷めきって盲目的に自分の世界に閉じ込もっていた以前の面影は窺えない。


 あのときは見たいように見ていただけだった。

 感情に囚われて、本質を見失っていた。


「自分だけが可哀想なわけでも正しいわけでもなかった。少し顔を上げれば、気づけたかもしれないのに……」


 菅原はもう一度、手をついて深く腰を折った。


「本当にすみませんでした」


 重傷を負った彼女が意識を取り戻した時点でも、菅原は同じようにこうして謝罪した。


 ダイレクトメッセージや無言電話、盗撮、つきまとっていたこと、そんないわゆるストーカー行為と、黒板に写真を貼り出して暴露したこと、それらすべて自分の仕業だったと認めて。


「…………」


 痛切(つうせつ)な表情を浮かべる彼女は、いつの間にか胸に手を当てていた。


 ────あの夜の傷が、わずかに残ったと聞いた。

 それぞれの過ちの結果が具現化(ぐげんか)し、(いまし)めのようにそこにある。


 彼女はややあって口を開いた。


「……もう十分、何度も謝ってもらったよ。謝らなきゃいけないのはわたしの方」


 沈痛ながら真剣な面持ちになる。


「ごめんなさい。お姉さんのこと、本当に申し訳なかったと思ってる。ごめんなさい……」


 階段からの転落と錠剤の誤嚥に因果関係があるのかどうかは分からないが、血を流して倒れた菅原の姉を、彼女と結菜は見捨てて逃げた。

 それが罪じゃないとは、言えない。


 “あの日”、そこに結菜がいたことは、彼の姉の件に結菜が関わっていたことは、菅原も知っていたはずだ。

 それでも、結菜への恋心が認識を歪ませた。


 その後のいじめの疑惑も相まって、結菜を“哀れな被害者”だと信じきって、茅野だけを加害者に仕立て上げたんだ。

 彼女を恨み続けることは、擦り切れた心を守る防衛本能だったのかもしれない。


「……姉は、そそっかしいところがあったんです。階段で転んだり、薬詰まらせてむせたりなんて実はしょっちゅうで」


「え……」


「だから、あの日のことは“特別”でも何でもなかったのかもしれない。いつかそのうち起こるはずだったことが、あの日たまたま起きただけで」


 菅原は静かに言った。

 それは、彼女への憎しみを募らせていた頃には考えようともしなかったことだろう。


「……もうそれ以上、自分を責めないでください」


 彼女の睫毛が驚いたように揺れる。

 口を結び、つぐんだ。


 それを見て、僕は彼女に身体ごと向き直る。


「僕も、ごめん」


 そう告げてしまうと、心の底に沈んでいた思いがかき回され、上澄みの部分と混ざって濁る。


「ずっと、きみを誤解してた。結菜のために真実をねじ曲げて」


 結菜に対する罪悪感のせいで、彼女を悪者だと決めつけていた。

 その前提を覆したら、どこに感情をぶつければいいのか分からなくなりそうで。


 だから、やるせなさのはけ口にした。

 負い目から目を逸らし続けていたのは、僕も同じだった。


 思い知る。

 結菜のためじゃない。自分のため、でしかない。


「……分かろうともしなかった」


 ────僕が他人に興味を持てないのは“諦め”だったんだ。

 復讐を果たしたらどうせいなくなるつもりだったから、自分自身と結菜以外はどうだってよくて。

 理解されなくていい、ひとりでいい、と復讐に囚われて正当化し続けていた。


 あのとき入れ替わって、僕たちは見たくないものと嫌でも向き合わなくちゃならなくなった。


 取り繕った表面部分を()ぎ落とし、ひた隠しにしていた内側をむき出しに、本心でぶつからざるを得なくなった。


 これまで曖昧に笑ってやり過ごし、他人を遠ざけていた僕はそうなって初めて、誰かと関わることで見えてくるものもあるんだと気がついた。


 必要以上に馴れ合う必要はないけれど、自分ではない誰かの視点がくれる気づきもあるのだと、あの非日常的な体験を通して知った。


 気づきを得たのはきっと僕だけじゃない。

 彼女も彼も、自分ひとりでは知りえなかった現実の側面を見たはずだ。


 自身を偽って、傷つけて、そうまでして僕たちは何を守りたかったんだろう。


 ぽん、とふいに肩のあたりに手が触れた。

 自分の一部分みたいに妙に馴染んだ体温が不思議と心地よくて、はっと顔を上げる。


「お互いさま。そうでしょ?」


 彼女は小さく笑った。

 いつの間にか心の濁りが澄んで、清々しい風が通り抜けていくようだった。




「何か食べます? 林檎ならすぐ出せますけど」


 ひと通りの雨風が去ると、菅原が穏やかな調子で口を開く。


「いいね、ちょうど時期だし」


「わたし、果物は食べられないんだってば」


「あ、そういえばそうでしたね」


「へぇ……そうなんだ」


 それは初耳だった。

 そんな大事なことを、彼女としての日々を過ごしたことのある僕にも黙っていたなんて。

 それなのに、菅原は知っていたなんて。


「まあいいじゃん、それなら林檎は僕たちだけ楽しもうよ」


「えぇー。ひどいな、もう」


 彼女はすねたように言いながらも、屈託なく笑う。

 菅原も頬を緩め、僕もまた知らないうちに顔を綻ばせていた。


 ────茅野円花はもういない。


 “完璧”な化けの皮は剥がれ落ちた。

 過去を忘れ、罪から逃げ、自分のためだけに生きていた彼女はもう、どこにもいない。


 完璧な善人なんて幻想だった。

 そもそもそんなもの、目指す必要もなかった。


 飾らない等身大の、ありのままの彼女がここにはいた。




【完】

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