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きみがわたしを××するまで  作者: 花乃衣 桃々
◆第3章 真実
3/4

第3話


 ふと目が覚めると、柔らかい布団の感覚があった。


 涙でぼやけた視界に、心配そうにこちらを覗き込む兄が映る。

 どうしてここにいるんだろう。


「円花……よかった」


 ほっとしたように表情を緩め、すとん、と椅子に落ちる。

 机の方からベッドのそばへ引っ張ってきて、ずっと付き添ってくれていたみたいだ。


 わたしの部屋に兄がいるのは何だか慣れなくて、くすぐったいような変な感じがした。


「わたし……」


 ────一瞬、すべて夢だったんじゃないかと思った。

 だけど、起こしてみた身体は相変わらず自分のものじゃなくて、つい落胆のため息がこぼれる。


「平気なのか? 帰ってきたらおまえがここにいるからびっくりしたよ。しかも“倒れた”なんて」


「……若槻に聞いたの?」


「ああ。俺と入れ違いで、どこか出かけていったけど。どうなってるんだ? 入れ替わりのこと、俺が知ってるって優翔くんにもバレてるのか?」


 警戒するべく眉を寄せる兄に、分からない、と首を横に振った。

 その拍子に、またふいにぶり返してきた涙が膨らみ、瞬くとこぼれ落ちていく。


「……どうした? やっぱり具合悪いのか。それか、どっか痛むとか────」


「ちがう、ちがうの」


 案ずるように身を乗り出す兄に、再びかぶりを振ってみせる。

 ぎゅう、と思わず手に力を込めると、握りしめた布団に寄ったしわが渦巻くようによれた。


「……ぜんぶ、思い出した」


 途切れそうになる声を、震えても無理やり押し出す。

 兄が息をのむ気配があった。

 うつむいたままでも何となくその表情に想像がつく。


「────じゃあ、聞かせてくれるか」


 ややあって返ってきた兄の声色は、(さと)すような優しいものだった。

 わたしは視線を落としたまま黙り込んでいた。頷く代わりに。


「…………」


 長い沈黙が落ちた。

 涙の気配が一旦遠のいても、口が重たくてなかなか言い出せない。


 兄もまた何も言わず、どこか緊張気味にこちらを見つめていた。

 決して急かすことなく、わたしがタイミングを掴むまで待ち続けている。


「わたし……ううん、わたし()()


 閉じ込めていた記憶にかかる霧が晴れていく。

 青ざめて震える“彼女”の横顔が、足元に広がる血溜まりが、現実を切り裂いた。


「人を、殺した」


 顔を上げて、兄を見返す。

 その告白はあっけなく虚空に吸い込まれた。


 兄の瞳が困惑したように揺れ、怪訝な面持ちになる。

 意味が分からない、というように。


「……なに、言ってるんだよ。冗談言ってる場合じゃない。俺が聞きたいのは、おまえが優翔くんの妹にしてたっていういじめの話で────」


「してない。いじめなんてしてない……! わたしは、結菜とは友だちだった」


「え? でも……じゃあ、あの箱の中身は? いじめの証拠じゃ……」


 もう一度、首を左右に振る。


 ちがう。

 いじめという事実がなかった以上、その証拠があるわけもない。


 真実は、もっと残酷なものだ────。




     ◇




 いまから3年前のこと。

 わたしと結菜は学年こそちがえど仲がよくて、放課後や休日はよく一緒に遊んでいた。


 “その日”の放課後も、わたしは彼女といた。


 いつもとちがったのは別の友だちも交えていたこと。

 その日は、その子の家で遊ぶことになった。

 両親が忙しく、その子のことは年の離れた姉が面倒をみているという話だった。


「遊んでもいいけど塾は行かないとだめ、ってお姉ちゃんに言われちゃって……」


「そっか。今日、塾の日なんだ」


「じゃあ遊べないかな……?」


 落胆気味に言うと、その子は「ううん」とかぶりを振る。


「先にうち来て、ふたりで遊んでて。塾終わったらすぐ帰るから」


 どうしても一緒に遊びたいみたいで、今日は諦める、という選択肢を消した。

 わたしと結菜は先にその子の家へ向かい、帰ってくるまで待っていることになった。


「こんにちは」


 家にいたその子の姉はにこやかに出迎えてくれたけれど、すぐさま申し訳なさそうに眉を下げる。


「ごめんね。あの子、何かと理由つけて塾休みがちだから今日は厳しくしちゃった。すぐ帰ってくると思うから、ちょっとだけ待っててね」


 ゆるく巻かれた濃い茶色の髪と白い肌が綺麗な、優しく大人っぽい人だった。恐らく10個くらいは年上だと思う。

 だけど、親しみやすい性格もあって、わたしたちはすぐに打ち解けた。


 一軒家の日本家屋は丁寧に掃除が行き届いていたものの、建物自体が古くて少し怖いような印象を覚えた。

 急な階段や軋む廊下にいちいち身を硬くしてしまう。


「わたし、洗濯とか家事してるけど、適当にくつろいでくれてていいからね。あの子の部屋は2階にあるから。あ、階段気をつけて」


 主がいないのに図々しいのではないかと恐縮したけれど、お姉さんとしてはその方が気楽なのかもしれない。

 その言葉に甘え、結菜とともに2階へ上がる。


 彼女はこの家に何度か来ていて勝手が分かっているらしく、手慣れた様子でその子の部屋へ入っていく。

 階段を上がってすぐ脇の一間(ひとま)だ。


 ────そこで適当に時間を潰して過ごすうち、わたしはお手洗いへ行きたくなった。

 結菜に場所を聞き、ほとんど部屋の向かいに位置するそこで済ませるとすぐに出ようとしたのだけれど、古くて建てつけが悪いのか、ドアが固くてなかなか開かない。


 ガタ、ガタ、と何度かドアノブを捻り、やっと手応えが消えた。

 力を込めていたせいか、勢いよくドアが開く。


「……あ」


 戸枠の向こうにお姉さんの姿を認めた。

 次の瞬間、彼女が消える。


 刹那(せつな)、スローモーションになって、また“一瞬”に戻った。

 ガシャン! とまず何かが落ちる。

 何が起こったのか、とっさには分からなかった。


 ドタン、バンッ……と段差に全身を打ちつけるような騒々しい音がしばらく響き、最後にドンッとひときわ大きな音がした。

 それきり、信じられないほどの静寂が訪れる。


「え……?」


 目の前で、お姉さんが階段から転落していった。


 わたしたちにと飲みものを運んできてくれていたのだろうけれど、タイミング悪くわたしがドアを開けたせいで、驚いて足を滑らせたのかもしれない。


 あるいは、想定以上に勢い余ってしまったから、避けようとした拍子に踏み外した。


 割れたコップや魔法瓶の破片がそこら中に散らばっていて、ぽた、ぽた、とこぼれたお茶の雫が段差から滴り落ちている。

 階下(かいか)にうつ伏せで倒れている彼女は、ぴくりとも動かない。


「うそ……」


 破片を避けながら恐る恐る階段を駆け下りていく。

 先ほどまでとは別の恐怖を覚えながら。


「円花ちゃん……? 何の音?」


 困惑したように顔を覗かせた結菜が、目の前の光景にはっと息をのんだ。

 わたしはお姉さんに駆け寄ったものの、その場に縫いつけられたように動けなくなってしまう。


 じわ、と頭の下から血が流れ出し、みるみる血溜まりが広がっていく。

 硬直するわたしの足元まで伸びてきて、白い靴下に染みる。

 真っ赤に侵食されていく。


「ど、どうしよう……。どうしよう、結菜……!」


 助けを呼ばなきゃ。誰か、救急車、とパニックに陥る中で考える。

 焦ってぐちゃぐちゃにかき乱された頭の中で、どこか冷静な、それでいて弱い自分がささやく。


(でも、これ……わたしが殺したことになる?)


 事故だった。

 まさかこんなことになるなんて、思いもしなかった。

 だけど、いったい誰が証明できるのだろう。


 ばくばくと破裂しそうなほど心臓が暴れ、浅い呼吸を繰り返した。

 あまりの恐怖に泣きそうになりながら震えて立ちすくむわたしの腕を、冷たい結菜の手が掴む。


「逃げよう……?」


 いつの間にか階段を降りてきていた彼女が、わたしの分まで荷物を抱えて蒼白な顔で言う。


「逃げようよ……!」


 もう一度言うと、今度はわたしの返答も反応も待たずして、ぐい、と腕を引っ張った。

 足が血溜まりを抜け出す。

 生ぬるい温度が一瞬にして冷えきった。


「……っ」


 深く考える余裕なんてなかった。

 正しい選択から目を背け、鈍感なふりをした。


 玄関で靴を掴み、靴下のまま家を飛び出す。

 お互いに言葉を忘れたまま、無我夢中で走った。


 心臓がうるさかった。ひどく喉が渇いている。

 一歩踏み出すごとに息が止まりそうになった。

 暑いのに寒いような、ちぐはぐな感覚がして悪寒と鳥肌が止まらない。


(人を……殺しちゃったかもしれない)


 がたがたと全身が震え、恐怖に飲み込まれていく。

 脳裏を鮮烈(せんれつ)に切り裂く赤色が、人間の身体が容赦なくぶつかって転がり落ちていく音が、片時も頭から離れない。




『秘密にしよう……。今日のことは、誰にも』


 そう言ったのはわたしだったか、結菜だったか。

 ────彼女と別れて帰路につき、猛烈な後ろめたさを抱えながら家へ帰り着く。


 この血まみれの靴下を見られたら終わりだ。

 慌てて脱ぐと裸足のまま靴を履く。


 そのとき、ちょうど帰ってきたらしい兄と玄関先で出くわした。


「おかえり、円花。早かったな」


「…………」


 ろくに顔も見られず、答えることもできないで、うつむいたまま足早に真横を通り過ぎる。


「……おい、円花? 何か顔色が────」


「話しかけないで」


 精一杯、毅然とした態度で言うと、逃げるように自室へ駆け込んだ。

 強く握りしめていた靴下を適当なビニール袋に突っ込み、ひとまずクローゼットの中のチェストの上に置いておく。


(どうにかして、こっそり捨てなきゃ……)


 でも、その前に見られたらおしまいだ。

 カモフラージュのために服やらバッグやらを上から乗っけておく。

 ぴしゃりとクローゼットを閉めると、深く息をついた。


 怖くて不安でたまらない。罪悪感で押し潰されそうになる。

 身体中にびっしりと張りつくその念を振りほどくべく、心の内で何度も何度も“ごめんなさい”と唱え続けた。


 兄にも両親にも合わせる顔なんてない。

 自分のためだけに、人を殺してもなかったことにできるような、こんなわたしが、優しく気にかけてもらえる資格なんてない。




 ────それからほどなくして、お姉さんが亡くなったことを改めて知らされた。


 日が経つほどに心苦しさと後悔は増して、それを餌に罪悪感が膨れ上がっていく。

 怖い。苦しい。

 何をしていても、あの日のことがちらついて。


 いつかバレるんじゃないか。

 そうしたら、日常が壊れてしまう。


 家族みんなに迷惑をかけて、失望させることになるだろう。

 受験どころじゃなく進路もだめになる。

 未来が何もかも閉ざされる。バレたら終わりだ。


 楽しいことや嬉しいことがあっても、気持ちの部分が冷めていった。

 わたしは人殺しだ。

 その事実がある限り、一生、後悔し続ける。


 逃げて、逃げて、逃げ続けているいま、どうしてこんなに苦しいんだろう。

 間違った選択を“間違っている”と気づいていながら押し通したのは、自分が楽になるためだったはずなのに。


 何があっても時間は止まらない。巻き戻ることもない。

 一度レールを外れたら、あとは傾いて倒れるだけ。二度とまっすぐには走れなくなる。

 やり直しの効かない人生を、間違ったまま進んでいくしかない。


 たとえ元のレールに戻れたとしても、その軌道はぐちゃぐちゃに歪んでいる。

 たったひとつの間違いが、一度の過ちが、何食わぬ顔で平穏を奪い去ってしまうんだ。


 数えられないほど後悔した。

 だけど、もう何もかもが手遅れだ。


 “秘密にしよう”────ずるくて弱い約束を、破る度胸すらなかったわたしは、あの日のことを忘れようと思った。


 早く忘れてしまいたかった。もう考えたくなかった。

 この苦しみから逃れるために、まず思い出すことをしなくなって、次第にあの日の出来事は頭の深いところへ埋もれていった。


 上澄みを足して、足して、濁して、見えないようにして、上辺だけの日々を送る。


『円花、おまえはもう少し人の気持ちってもんを……』


『くだらない。ばかじゃないの』


 自分の弱さを認めたくなくて、兄も友だちも、周囲の何もかもを突っぱねるように高圧的な態度で接した。


 ────無理やり覆い隠した記憶がようやく薄れ始めたある日のことだった。

 結菜が自殺を図ったのは。


 見捨てて、逃げた。

 あの日、同じ罪を背負った彼女が、ついに罪悪感に耐えきれなくなって限界を迎えたのだ。


 確かに結菜は日に日に痩せ細り、ずっと顔色が悪かった。

 あのことで葛藤しているのだとわたしだけは気づいていたのに、また見てみぬふりをした。


 ぜんぶ、自分のためだ。

 もう思い出したくなかったから。忘れたかったから。


 彼女はいじめを偽装して、それが原因で自ら命を絶ったように見せかけようとした。


 急に自殺するなんて不自然だし、かといって真実を明かせば兄を悲しませてしまう────きっと、そんなふうに考えていたのだろう。




     ◇




「いじめなんて、なかったの」


 再び繰り返した言葉が静かな部屋に落ちる。


 ただ、もっと根の深い罪があって、ひとりは忘れてしまうことで逃げ、ひとりは眠り続けることで逃げたのだ。


 彼女が死にきれないで病に(おか)されたことも、わたしが若槻と入れ替わって絶望に叩き落とされたことも、もしかすると相応の“罰”なのかもしれなかった。


(だから、階段を落ちたときに……?)


 いずれにしても、わたしは最低だ。

 こんな重罪を忘れて、逃げて、のうのうと生きて────。


 強く唇を噛み締めると、沈黙が落ちた。

 迂闊に口を開くこともままならないような重苦しさがある。


 兄はすっかり言葉を失って、揺れる瞳でこちらを見つめている。


 ────卑怯な小心者。

 いつか、若槻に言われたことを思い出した。


 彼は結菜の思惑通りに、彼女があんな状態になった原因をいじめによるものだと思い込んで、わたしに恨みを抱いたんだろう。


 当時のわたしが高飛車な“女王さま”だったことで、遺書にわたしの名前があったことで、誤解したんだ。

 それはきっと、結菜にとっても誤算だった。


 とはいえ、若槻の言葉は的を射ている。

 いまも昔も自分のことしか考えていない。

 それは確かで、わたしはただの卑怯者だから。


「謝りたい……」


 滲んできた涙がこぼれる前に小さく言った。


 謝らなきゃならない。たとえ、許されなくても。

 亡くなったお姉さんにもあの子にも、心から詫びたい。


「なのに、覚えてない。……顔も、名前も」


 結菜とちがってわたしが会ったのはあの日一度きりで、記憶に残っていなかった。

 過去を忘却(ぼうきゃく)していたのとは別だから、思い出す余地もない。

 それが悔しくて申し訳ない。


 ついうつむくと、はらはらと雫が散っていく。


「円花……」


「結菜のことも忘れてたなんて、自分でも信じられない。仲がよかったはずなのに、病院でひと目見ても……全然分からなかった」


 自分を守るための“殻”が想像以上に厚かったことを自覚する。


 最後に会った日とは変わり果てた姿になっていた。それもあるかもしれないけれど。


 結菜は結菜でも、もうわたしの知っている彼女はいないんだ。

 余命幾ばくもない上、自分の意識ごと内側へ閉じ込もってしまった彼女とは、二度と話すことも叶わないかもしれない。


 そのことが、辛くて辛くて涙が止まらなかった。

 この期に及んで、わたしはまだ自分本位な涙ばかり流している。


「……っ」


 遠慮がちに、兄の手が頭に乗った。

 泣きじゃくるわたしの頭を何も言わずに撫でてくれる。

 ……こんなの、何年ぶりだろう。


 とっくに忘れていた温もりにまた、涙があふれた。




 日が落ちて、あたりはもう暗くなっていた。

 これなら泣き腫らした顔で出歩いても、若槻に文句を言われることもないだろう。


 兄は“送る”と言ってくれたけれど、それを断ってひとりで帰路についていた。

 罪深い過去と、混沌(こんとん)とした現実と、まとまらない感情で入り乱れる頭の中を整理したくて。


 閑静な下道から車通りのある大きめの道へ出たとき、ポケットの中でスマホが震える。

 見ると、綾音からメッセージが来ていた。

 兄によると、彼女のことは既に家まで送り届けたあとらしい。


「……何これ?」


 送られてきたのは1枚の写真。

 小学校の卒業アルバムで、ひとりの男の子が写っている。

 その下に記されている名前は、菅原新汰。


(菅原くん……?)


 戸惑っているうちに、綾音から電話がかかってきた。

 “応答”をタップしてスマホを耳に当てる。


「もしもし、綾音? これって……」


『優翔くんの妹の卒アルに載ってたの。結菜ちゃんと菅原も幼なじみだったんだよ』


「え」


 驚きと怪訝の混ざった声がこぼれる。


 ─────先輩が若槻先輩と幼なじみなら、妹さんも同じ学校出身の可能性高いんじゃないですか。


 そのときの菅原くんの口ぶりはまるで他人行儀なものだった。

 彼もまた同じ学校出身だったのに、どうしてそのことを教えてくれなかったんだろう。


 単に、若槻の妹が結菜だと同定できていなかっただけだろうか。

 それとも、あえて情報を隠したり小出しにしたりすることで、わたしが失っていた記憶を取り戻せるようにヒントをくれていた?


 ────俺が守ります。茅野先輩のこと。


 もしかすると彼は彼なりに、その言葉を全うしようとしてくれていたのかもしれない。

 そういう守り方もあるんだ。


(だけど、もしそうじゃないなら……)


 わたしに近づいたのには、何か裏がある可能性が高い。


『……気をつけてね、円花』


 綾音もそれを危惧しているのか、電話口でも分かるくらいに硬い声で言う。

 思わず緊張してしまいながら「うん」と答えかけたとき、ふいに背後に気配を感じた。


「先輩」


 はっと息をのむ。

 聞き覚えのある声に身体が強張った。


 恐る恐る振り返ると、いままさに思考の中心にいた人物がそこに立っていた。


「菅原くん……」


 彼の色白の肌が、暗い夜の中でいっそう際立つ。

 表情に乏しいからこそ、何を考えているのか読めなくて不安をかき立てられる。


「ちょっと、話しませんか」




     ◆




 “3年前のことで先輩に大事な話があります。待ってるから来てね”。


 それは、茅野が意識を失ってから彼女のスマホに届いたダイレクトメッセージだった。

 渾身(こんしん)の力を振り絞ってベッドに寝かせておいた彼女にバレないよう、ロックを解除してSNSを開く。


 ダイレクトメッセージの一覧には、いわゆる“捨て垢”の数々から実に気味の悪いメッセージが届いていた。

 ずっと見ているだとか、逃げても無駄だとか、ストーカーじみた内容に嫌悪感を覚えつつも、ひとつ納得がいく。


(……ああ、これのことか)


 茅野は確かに、誰かにつけ回されていることや不審なダイレクトメッセージが届いていることを口走っていた。


 だが、僕と入れ替わってからはぱったりと止んでいる。

 僕は特別鈍感なわけでもないし、盗撮や尾行されていたら気づくはずだ。

 ダイレクトメッセージの日付を見ても、やっぱりストーカーの気配は遠ざかっていると言えた。


 とはいえ、そのストーカー云々(うんぬん)はともかくとして、ついさっき届いたメッセージの送り主は分かっていた。

 捨て垢ではなかったから。

 名前もアイコンもそのままで、素性を隠す気もない。


「乙川……?」


 僕に対して常に露骨な好意をアピールしてくる、あの厄介な後輩。

 学校付近にある小さな廃工場の位置情報が添付されている。

 ここで待ってるから来い、というわけだ。


(茅野を呼び出してるんだよな? 彼女は入れ替わってることを知らないはず……)


 ちら、と目を閉じている茅野を一瞥(いちべつ)する。

 “僕”は僕以上に乙川に友好的に接していたように見受けられたが、その核心部分については明かしていないだろう。


 もう一度、警戒しながらメッセージを読んだ。

 3年前というと、結菜が自殺を図った時期だ。

 彼女の“大事な話”とは、まさかそれについてなんだろうか。


 何かの罠かもしれない、とも思った。


 僕が茅野と親しくしていたのは、復讐のために陥落(かんらく)しようという思惑があったからだったが、乙川の目から見ればたまったものじゃなかったはず。

 茅野をよく思っていない、というのは盗聴した結果からしても間違いないのだ。


 それでも、もし結菜に関することなら無視はできない。

 僕は「分かった」とだけ返しておくと、トークルームごと削除してから彼女の呼び出しに応じることにした。




 ひとけのない廃工場は、道端の街灯の明かりひとつが射し込んでいるだけの不穏な場所だった。

 下りたシャッターの前に立っていた乙川が、僕に気づいて身を起こす。


「……わ、本当に来てくれた」


 ほくそ笑む彼女に眉を寄せる。

 嫌な予感を覚えずにはいられない。


「大事な話って?」


「さすがに単刀直入ですね。秘密が多いと、不安になるのも無理ないですよねー」


「……茶化してないで早く教えて」


「うわ、茅野先輩でも不機嫌になることってあるんだ。それとも感じ悪いのが本性なのかなぁ」


 気色(けしき)ばんでしまいかけて、感情を落ち着けるように息をつく。

 乙川のペースに乗せられるところだった。

 口をつぐむと、彼女が勝ち誇ったように笑う。


「ねぇ、先輩。あたし、知ってるんですよ。昔の先輩のこととか、3年前の出来事とか」


 この場にいて、これを聞かされたのが茅野本人だったなら、きっと心底動揺していたことだろう。

 だが、それなら僕も知っているし、訪れたのはなぜ乙川が知っているのかという疑問程度の戸惑いだけだった。


「先輩はいわゆる女子のリーダーみたいな感じで、わがまま放題な冷たい女王さまだったんですよね。それで何が気に入らなかったのか、結菜ちゃんをいじめて自殺に追い込んだ。……まあ、未遂だけど」


 結菜ちゃん、と彼女の口から自然に出てきたことに驚いてしまう。

 乙川は何をどこまで知っているというんだろう。


「でも、ぜんぶなかったことにして、いまものうのうと幸せに生きてる。綺麗に過去を清算して、うまくやり直せたと思ってました?」


 嘲るように笑い、小首を傾げる。


「そんな性悪女の分際で、よく若槻先輩に近づいたもんですよね。彼を好きになる資格なんてないのに」


「何で、きみが知って……」


 さすがに困惑して口を挟むと、彼女はおもむろに背に隠していた右手を突き出してきた。

 そこには包丁が握られている。

 微かな明かりを鈍く宿していた。


「そんなことどうだっていい!」


 突然の金切り声と鋭い刃先に怯み、絶句する。

 憎しみの込もった眼差しで()めつけてきた。


「目障りなんですよ。これ以上、若槻先輩を騙して惑わすなんて許さない……。消してやる」




     ◇




 菅原くんとふたりで入ったファミレスの店内には、時間帯もあってそれなりに人の姿があった。

 彼と向かい合って座り、ドリンクバーで取ってきたアイスティーをひとくち含む。


「……それで、話って?」


 平静を保とうとしても、どうしても態度の端々に警戒心と不信感が滲み出てしまう。


 彼は無条件に、善意でわたしに協力してくれている味方だったはずなのに、数日のうちにその印象ががらりと塗り替えられた。

 いまは、信じていいものか分からない。


「いや、そういうんじゃなくて。ここのところどんな感じなのか気になっただけです。何か進展ありました? 元に戻りそうな兆しとか」


 なんだ、とわずかばかり肩の力が抜ける。


「ううん、だめ。昔のことは思い出したけど、やっぱそれだけじゃ戻れないみたい」


「思い出したんですか」


 珍しく菅原くんの表情が変わった。

 驚いたように目を見張っている。


「あ、うん。でも、肝心な部分は忘れてて……。とりあえず、若槻とまた話さなきゃ」


 結菜にまつわる諸々(もろもろ)の真相も、わたしたちの罪も。

 どんなにショッキングな内容だろうと、わたしには伝える義務があるし彼には聞く権利があると思う。

 ひとまず誤解を解いて、話を聞いてもらわないと。


 菅原くんは口をつぐんでしまい、それ以上は何も言わなかった。

 結菜の幼なじみだということは、あくまで隠し通すつもりのようだ。

 本当に気づいていないだけの可能性も捨てきれないけれど。


「────先輩って」


 ややあって、ふと彼が口を開く。

 身構えてしまうほど険しい顔をしていた。


「乙川乃愛と面識ありましたっけ?」


「えっ?」


「若槻先輩じゃなくて、茅野先輩の方が」


 突然、転換された話題に困惑する。

 頭の中に乃愛のことが浮かんだ。


 存在感があって、色々な意味で濃い人物だから印象深い感じがするけれど、彼女と関わったのは、いまのこの若槻の姿になってからのこと。

 入れ替わる前のわたしは、まともに話したこともなかったはずだ。


「どうして?」


「気づいてると思うけど、あいつ、若槻先輩のこと好きなんですよ」


 確かにその予感はあったから驚かない。

 きっと、若槻自身もそうだろう。


「でもって、俺と茅野先輩が付き合ってること知らないから、茅野先輩を逆恨みしてて……。ほら、先輩たちって何かとふたりでいること多かったでしょ」


 思わず苦い気持ちになる。

 何も知らずに若槻に騙され、あろうことか惹かれつつあったときの話だ。


「でも、わたしたちは別に……」


「分かってますよ。けど、あいつは入れ替わりのことも先輩の本心も知らないから、勘違いしてる」


 “逆恨み”という言葉と相まって、ぞく、と背筋が冷える。

 その勘違いが引き金になって、わたしの身が(おびや)かされるかもしれない。

 動機はちがえど、若槻がそうだったみたいに。


「先輩って……今日、若槻先輩と一緒でした?」


「え……。あ、うん。途中までそうだったけど」


 記憶を取り戻した反動で意識を失うまでは。

 目が覚めたあとには姿がなかった。

 兄の言葉を思い出す。


「そういえば、どこか行ったまま連絡ないかも」


「それ、もしかしたらあいつが────」


「痛っ!」


 突如として左の上腕(じょうわん)に衝撃が走った。熱く焼けるような激痛。

 思わず確かめるけれど、そこには何の異変もない。


 顔を歪めて悶えるわたしの様子に、菅原くんが怪訝そうに眉を寄せた。


「どうしたんですか?」


「……あの、ね。わたしと若槻、痛覚が共有されてるの。共有っていうか、痛覚だけは本人の方に引っ張られてる」


 そう言っている間も、上腕がずきずきと痛み続けていた。

 菅原くんが衝撃を受けたように目を見張る。


「ということは……まさか、いまのって」


 その声が緊張気味に引きつった。


 まさか────乃愛が“わたし”に何かしているんじゃないだろうか。

 少なくとも“わたし”の身体に何かあったのは間違いない。


「行かなきゃ……っ」


 こうしてはいられない。

 痛み続ける腕が危機感を訴えかけてくる。

 焦燥(しょうそう)に飲まれて勢いよく立ち上がった。


「待って。居場所、分かるんですか? 闇雲に動いても無駄ですよ」


「でも、じゃあ……どうすれば!」


 あくまで冷静な菅原くんは少しの間黙り込み、考えるように視線を彷徨わせる。

 躊躇しているようにも見えた。


 ややあって、静かに言う。


「……廃工場。学校近くのあの(さび)れたとこにいるはずです」


「えっ」


 予想だにしない言葉に驚いてしまう。


「何で分かるの?」


「いまはそれどころじゃない。先に行ってください。俺もすぐ追います」




     ◆




「……っ」


 唐突に切りつけられた左腕を押さえる。

 じわ、と服に染み込んであふれた血が指の隙間から滴った。


 その感覚はあるが、やっぱり痛みは感じない。

 今頃、茅野は異変に気づいていてもおかしくなかった。


(避けきれなかった)


 ぎりぎりで躱したつもりが、間に合わなかったみたいだ。

 とにもかくにもこのままじゃまずい。


(通報────)


 ポケットから取り出したスマホは、即座に察して詰め寄ってきた彼女に弾かれてしまった。

 地面に落ちたそれを、僕の手の届かないところまで蹴って遠ざける。


「余計な真似しないでくださいよ……。警察のお世話になったら、先輩だって困るでしょ? なんてったって“人殺し”なんですから」


 そのまま受け取りかけて、結局飲み込めずに困惑した。

 人殺し……?


 一瞬、結菜のことかとも思ったが、妹は生きている。

 乃愛自身も“未遂”と口にしていたし、そのことは分かっているはずだ。


「……何の話?」


「あたしが捕まるようなことがあれば、先輩のことも洗いざらい話しますから。殺人犯だって突き出します。それが嫌なら、大人しく消えてください」


「ちょっと待って……。本当に何のことか分かんないんだけど」


「とぼけないでよ、白々しい! そういうの、本当にうざい」


 その声がひときわ冷ややかに低められたかと思うと、乙川が握りしめた包丁を振り上げる。

 とっさに身を縮め、自分を庇うように両手を掲げた。

 顔を背けて強く目を瞑る。


「何してんの!?」


 ふいに飛んできた声が空気を割った。

 ふと目を開ける。

 ()()の声だと気づくまでに数秒要した。


「先輩……!?」


 乙川が慌てて包丁を背に隠す。

 ここまで大急ぎで飛んできたらしい僕もとい茅野は、肩で息をしながら、彼女から庇うように目の前に立った。


「……何してんの」


「それは、その……」


 強い調子で繰り返した茅野に、乙川は怯んだ様子で言い淀んだ。

 何を思ったか、隠していた包丁を差し出す。


「正当防衛なんです! 茅野先輩に襲われそうになったから、身を守ろうとしただけで」


 滅茶苦茶な言い分に一瞬、呆気に取られた。

 訝しむように振り向いた“僕”と目が合うと、我に返って慌てる。


「ちが────」


「茅野がきみを襲う理由がどこにあるの?」


 毅然と言い返したその後ろ姿を、つい驚きながら見つめる。

 意外だった。何も聞かずに僕を信じるなんて。


 自分に向けられた復讐心を知っているなら、茅野を社会的に殺すため、というのが理由になる。

 僕が茅野の姿で罪を犯せば、それはそれで復讐になるから。

 それなのに────。


「悪いけど、きみに入り込む余地なんてないから」


 言葉を探す乙川に、彼女は言ってのけた。


「そんな……」


「信じられないならそこで見ててよ」


 そう言うなり再びこちらを向いた茅野は、もったいつけるような足取りで歩み寄ってくる。


(何だ……?)


 意図が分からず、思わずあとずさる。


 だけど、それを阻むかのように伸びてきた手が肩に添えられた。

 驚いているうちに足が止まり、触れた手が背中の方へ滑る。


「な、なに……」


 戸惑う僕に構わず、わずかに身を屈めた茅野が空いた手で顎をすくってきた。

 ゆっくりと、顔が近づく。

 そこまでされてようやく彼女の意図に気がついた。


 相手は僕自身なのに、中身はあの憎たらしい茅野なのに、動揺して心臓が騒ぎ出す。

 どうしたっておさえられないほど。


 至近距離に迫った唇が触れる────寸前、茅野が身を引いた。


「……なんて」


 小さく笑いつつあっさり僕から離れると、乙川に向き直る。


「冗談。茅野とはただの友だちだよ」


「……うそ」


「本当。そもそも僕、女の子には興味ないんだ。ごめんね?」


 苦笑を浮かべながら小首を傾げた。

 乙川ともども呆然としたままその言葉を受け止める。

 開いた口が塞がらない。


「何それ……ひどい。あたし、そんなの信じませんから!」


 乙川は蒼白の顔で捨て台詞を残し、逃げるように駆けていった。

 そうは言ったものの、茅野の残酷な言葉にはしっかりとダメージを受けたらしい。

 絶望か失望か、感情の整理が追いつかないことだろう。


 その足音が聞こえなくなった頃、何だか身体から力が抜けた。

 その場に屈み込み、茅野を見上げる。


「……まさか、助けにきてくれたの?」


「そんなわけないでしょ。自分の身を守りにきただけ。それ、あとでちゃんと病院行ってよ」


 左の上腕を指して彼女が言う。

 傷はそれほど深くないらしく、もう血は止まっている。

 それでも茅野は継続的な痛みを感じていることだろう。


 分かってる、と一見興味なさそうに答えておいた。

 だけど、僕以外の手でこの身体に傷がついたことは、間違いなく僕の責任だ。


 乙川の好意に気づいていながら、受け入れることも突き放すこともしないで、一線を(かく)して接してきた。


 どうでもよかったんだ。僕と妹と、復讐以外の何事も。

 ひとりでいたかった。

 そのくせ、彼女に限らず、誰かを好きになることも嫌いになることもしたくなかった。


 どうせ、そのうちこの世界から消えるんだ。

 ほかの誰も必要ない。


 だから表面だけの笑顔と愛想を振りまいて、これまでやり過ごしてきた。

 でも、その中途半端さが今回のことを招いた。


 知らなかったんだ。

 悪意ばかりを肥やして、好意に疎かった僕は、それもまた刃になりかねないということを。


「とりあえず……間に合ってよかった」


 茅野がほっとしたように呟く。

 その横顔を眺めていたら、とめどない涙と心からの言葉と結菜のことが蘇って、どう接するべきか分からなくなった。


「……さっきはよくも僕を貶めてくれたよね」


 自分のためだと言ったのが本心でも、彼女に助けられたのは事実。

 だけど、素直に礼も言えなくて、つい悪態をついた。


 キスを迫るふりをしてみたり、女の子に興味がないなんて言ってみたり、僕に対するささやかな仕返しに思えてならない。

 確かに、ちょっと僕っぽかったかもしれないけれど。


「他人なんてどうでもいいんでしょ。だったら、あの子を追い払えたことにむしろ感謝して欲しいくらい」


「……はは。きみって本当にいい性格してるよね」


「あんたに言われたくないけど」


 何だかおかしくなって、不思議と笑いがこぼれる。

 声を上げて笑ったのは久しぶりのことだ。


 誰より憎くて嫌いだった彼女と、いまでは互いに一番の理解者になってしまったんだから、笑わずにはいられない。


「……助かったよ」


「え」


「ありがとう、茅野」


 いつの間にか毒気(どくけ)を抜かれ、素直にそんなことを口走っていた。

 自分でも信じられないことだが、不思議と悪い気はしない。


「……だから、自分のためにしたことだってば。お礼なんて言わないでよ」


 そう言いながら、茅野も茅野で戸惑っているようだった。

 “ごめん”で調子を狂わされた僕からの仕返し、ということにしておく。


「────あのさ」


 茅野が適当なブロックの上に腰を下ろしたのを見計らい、慎重に切り出した。


「“人殺し”って、何の話?」


 茅野がはっと息をのむ。

 街灯の薄明かりでも分かるくらい、その表情が強張っていた。


「乙川が言ってた。きみは人殺しだって」


「どうして、あの子が……」


「あの血まみれの靴下と関係あったりするの?」


 間髪入れずに核心に迫った。

 もしや、という予感がいつの間にか湧いて居座り、考えるほど確信に近づいていった。


 あんな異常な代物でも、この異常な響きとなら結びつく。

 血まみれの靴下と、人殺しという言葉。


 僕はそれ以上何も言わず、茅野の返事を待った。

 片時も視線を逸らすことなく一挙一動を目で追う。


 茅野は目を伏せたまましばらく口をつぐんでいた。

 時が止まったかのような静寂は、だけど遠くから聞こえる車の走行音や虫の声によって、現実感に埋め尽くされている。


「……近いうち、話さなきゃって思ってた」


 やがて、何の前触れもなく茅野が口を開いた。


「結菜にも関係のある話だから」


 ふいに飛び出してきた妹の名前に、すべての意識がかっ攫われる。


 思わず息が止まった瞬間、コツ、と硬い靴音が響いてきた。

 続いて靴裏が砂粒を弾くような音が耳につく。


「先輩────」


 振り向いた先にいたのは菅原だった。

 いつもは無一色のその顔に、わざとらしいとすら思えるほど不安そうな表情が浮かんでいる。




     ◇




(菅原くん……?)


 声に出そうになったのをどうにか押しとどめる。

 絶妙なタイミングで現れた彼は、案ずるように“わたし”に駆け寄った。


「大丈夫ですか? その怪我……」


 そう声をかけるのを聞き、忘れていた痛みが腕に戻ってきた。


「……ああ、うん。大したことないよ」


 やわく笑い返す“わたし”の表情は、いつも困ったときにわたしが浮かべるそれと随分似たものだった。


「急いで病院行きましょ。痕残ったら大変だから」


「あの────」


「……すみません。若槻先輩はもう帰ってもらえますか」


 わたしの身体に傷跡が残ろうと、菅原くんとの繋がりがバレようと、この際もう構わないと思って意を決したのに出鼻(でばな)をくじかれた。

 彼が“若槻先輩”と呼んだのは、間違いなくわたしの方だ。


「ちょっと待って。話が……」


「すみません。今日はもう勘弁してください」


 菅原くんの冷たいもの言いは敵対心むき出しで、わたしではなく若槻を相手にしているものだと理解するのに余りある。

 あくまで“わたし”の彼氏という(てい)を貫いていて、取り合ってもくれない。


 言葉を失って立ち尽くすと、遠ざかっていくふたりの背を眺めた。

 甲斐甲斐しく“わたし”を支えて歩く菅原くんと、彼に委ねている“わたし”。


(……どういうつもりなの?)


 菅原くんはいったい、何を考えているんだろう……。

 また、その人物像が霞んで逃げていく。

     ◇




「ねぇ、優翔くん! 優翔くん!」


 登校して昇降口で靴を履き替えていると、綾音が青い顔で飛んできた。

 人目を(はばか)ってそう呼んだのだろう。

 わたしの腕を掴み、ぐい、と強く引っ張ると、声を落として言う。


「円花、来て。やばいよ。いま、教室で────」




 “茅野円花は人殺し”。


 教室を覗くと、黒板に大きくそう書かれていた。

 その文字を大量の写真が取り囲んでいる。


 痣だらけの腕や脚の写真、遺書の写真、昏睡状態にある現在の結菜の写真、それから生徒手帳のコピー写真────。


「あの痣の写真、結菜ちゃんのスマホから見つかったものと同じなんだよ……」


 綾音が小声で教えてくれた。


 どうやらダンボールの中には結菜のスマホも入っていたらしく、いま貼り出されている痣の写真はその中に保存されていたもののようだ。


 顔こそ写っていないけれど、あの手足の主は結菜で、彼女がいじめを偽装するために自作自演で残しておいた写真の数々だろうと分かる。


 ざわめきと好奇の目に満ちた教室の中央で“わたし”が、若槻が呆然と立ち尽くしている。

 まるで、さらし者みたい。


 再び黒板を見やったとき、生徒手帳の写真が目に留まった。

 中学2年当時のもので、そこに記されているのはわたしの名前だ。


 一瞬、すべての音が消えた。

 気がついたら手から鞄が滑り落ちていた。


(あれ、は……)


 あの生徒手帳は“あの日”になくしたものだった。

 結菜と逃げる途中、どこかへ落としたのかいつの間にかなくなっていたのだ。


 心臓が早鐘(はやがね)を打ち、呼吸が速くなる。

 黒板のありさまは一見、わたしが結菜をいじめて自殺に追い込んだことを暴露し、責めているように見えるけれど、そうじゃない。


 これをやった犯人は知っているのだ。

 “あの日”のことを。


 瞬間的に平衡感覚を失い、たたらを踏む。

 踏みとどまった足がどうにか地面を捉えると、ふらりと踏み出していた。

 一歩、二歩、進んだあとは迷いのない足取りで、若槻の元へ進んでいく。


「あんたがやったの……?」


 声は弱々しく掠れたものの、ちゃんとその耳に届いたようだ。

 どこか慌てたように目を見張る。


「ちがう……。僕じゃ────」


「うそ。あんたしかいない。こんな写真持ってるのも、結菜の状態を知ってるのも……!」


 その襟を掴んでまくし立てる。

 手が震え、呼吸が震え、声が詰まった。


 ここにあるほとんどが彼女のスマホの中にあった写真で、現にそれは若槻の家にあったのだ。遺書だってそう。

 結菜が昏睡状態だということも、ほかに誰が知っていると言うんだろう。


「本当は知ってたんだ。あの日のことも、ぜんぶ……っ」


 すっかり錯乱(さくらん)状態に陥ってしまったわたしは、涙混じりに力なく若槻を突き飛ばした。

 少しよろめいたものの、何も言わない。


 わたしたちが悪目立ちしていることは承知していた。

 だけど、なりふり構っていられない。


 “わたし”に向けられる懐疑(かいぎ)の視線やささやかれる陰口の数々が、若槻を通して直接突き刺さる。


 もう、おしまいだ。

 いままで丁寧に築き上げてきた、完璧な茅野円花の人物像が、音を立てて崩れ落ちていくのが分かる。


(これが、復讐なの……?)


 こんな暴露をしてのけることで、わたしを社会的に殺すことにしたのかもしれない。


 昨晩の態度に騙された。

 負い目があることで弱気になっていた。

 彼の本性を忘れ、油断していた────。


 あまりの事態に耳鳴りがして、目の前が真っ暗になる。

 そのとき、すっと誰かが横切った。


 菅原くんだ。

 何とも言えない空気が立ち込める中、陰口も好奇の眼差しもものともしないで、素早く黒板の写真を剥がすと無言で文字を消す。

 どさ、と躊躇なくすべてゴミ箱に突っ込んだ。


 見かけ上は元通り、何事もなかったかのように黒板は綺麗になっている。

 いつの間にかざわめきは止み、誰ひとり身じろぎできないで、教室内は水を打ったように静まり返っていた。


 振り向いた菅原くんは“わたし”を一瞥(いちべつ)し、それからこちらに向き直る。


「……来てください。話があります」




 ばたん、と背後で屋上のドアが閉まる。

 フェンスの巡らされた縁の方へ向かう彼について歩きながら、思わず深いため息をついた。


「終わりだよ、もう……。若槻のせいで、元に戻ってもわたしは終わり」


 “わたし”を取り囲んでいた周りの人たちの冷ややかな目を思い出す。

 面白がって何かをささやき合う面々の中には、もともとわたしを好いてくれて、一緒に過ごしていた友人も含まれていた。


 もう、元に戻ったって居場所なんかない。


 あれほど追い求めていた“完璧”って、何だったんだろう。こんなに(あら)だらけだったのに。

 そもそもわたしが思い描いていた理想って何だったんだろう。

 わたしって、何だったんだろう。


 過去の自分から乖離(かいり)した存在を目指したのは結局、罪からの逃避でしかない。


 わたし自身を騙して、周囲を騙して、そうまでして必死に守ってきた心が折れて粉々に砕けた。


「ばかみたい」


 痛みを分かち合って、理解したつもりになっていた。

 自分のことも彼のことも。


 吐き出した挙句に残るのが虚しさだけだなんて、と空っぽの身体に反響するような乾いた笑みがこぼれる。


「落ち着いてください。まだ若槻先輩がやったって決まったわけじゃないですし」


「決まってる。若槻はずっと待ってたんだよ。わたしを一番、絶望させられるタイミングを」


「でも……ほかにもいますよね。先輩の過去(秘密)を知ってた人」


 意識が自然と枝を伸ばして探り当てたのは、昨晩のことだった。


『乙川が言ってた。きみは人殺しだって』


 彼をどこまで信じるべきかは微妙なところだけど、もしそれが本当なら────。


「まさか、乃愛が……?」


「動機は十分じゃないですか」


 思わず窺うように菅原くんを見やると、迷いのない眼差しが返ってくる。


 あれ、とふいに違和感を覚えた。

 乃愛が知っていることを、どうして彼も知っているんだろう。


「菅原くんってさ……どうして昨日、若槻が廃工場にいるって分かったの?」


 帰り際も、どうして強引に連れていってしまったのか。

 彼に対するこれまでの不信感をこらえて、適当に折り合いをつけ続けるのは限界だった。


 弱くて不器用なわたしには、完全に信じることもできない反面、完全に疑うこともできない。


 彼は一度黙り込んだものの、再び口を開くまでにそう時間はかからなかった。

 きっと、予想していたか、とっくに観念していたのだ。


「この際だから、本当のこと言いますね」


 俯いていた顔を上げた彼は、どこか吹っ切れた様子だった。


「俺、乙川と組んでたんです」


「え?」


「俺は茅野先輩のことが好きで、あいつは若槻先輩のことが好きで……利害が一致してたから、協力関係にあった。もちろん、入れ替わりの件とは関係ないところで」


 もともと菅原くんと乃愛には接点があって、お互いの恋心を優先させることが、それぞれにとって都合がよかったわけだ。


 入れ替わりの件とは関係ない、という言葉通り、乃愛はわたしと若槻が入れ替わっていることを知らない。

 それは昨晩の様子を見ても間違いないだろう。


 菅原くんはどうやら、その秘密を守り続けてくれているみたいだ。


「でも、俺としては茅野先輩が傷つくのは本意じゃなかった。先輩を守りたいっていうのが一番にあったから……。だから、乙川を裏切ることにしたんです」


 そういうことか、と腑に落ちた。

 だから乃愛が“わたし”を誘い出したことも、その場所も知っていた。


 だけど、裏切ることへ踏ん切りをつける決定的な判断材料を見つけるには至っていなくて、曖昧な立場でできる限りの手助けをしてくれようとしていたんだろう。


 そういう背景のせいで、何を考えているのか分からない、という心象(しんしょう)に繋がってしまった可能性はある。


「最初、小谷先輩に話しにいったのは、茅野先輩を孤立させるための乙川の作戦で……俺はただ従っただけだった」


 その言葉に、綾音と交わした会話を思い出す。


『そんなときにね、あいつがあたしに接触してきたの』


『あいつ?』


『菅原』


 確かそのとき彼は、綾音に兄との仲を取り持つようなことをうそぶいていたという話だった。


「歩道橋で鉢合わせさせて、入れ替わった状況を再現する計画をぶち壊したのは、乙川や小谷先輩の信用を得るためでした」


 彼に対して不信感を抱き始めたきっかけであるその出来事には、そんな裏事情があったようだ。


 それに関してはやっぱり、わたしは利用されたということになる。

 若槻が、と言うべきかもしれないけれど。


 いずれにしても、昨日で決心がついたわけだ。

 実際に乃愛の手によって“わたし”に危機が迫ったことで、それ以上、彼女と結託し続ける意味がなくなった。

 目指すべき方向は同じでも、菅原くんと乃愛の目的には齟齬(そご)があって。


「昨日の夜も……邪魔してすみませんでした」


 彼はしおらしく謝った。

 若槻に洗いざらい打ち明けようとしたのを、強引に遮ったことだ。


「でも、あのままぜんぶ話したとして、信じてくれたと思いますか」


「それは……」


 分からないけれど、結菜の“あの日”の選択と、それを隠し通すためにしたことを、簡単に受け入れられるわけがないのは確実だった。


 特に妹を可哀想な被害者だと思い込んでいる彼が、憎い加害者だと信じて疑わないわたしに何を言われたところで、素直に聞いてくれる保証なんてどこにもない。


「下手に誤解されたら茅野先輩の身体が、命が危険に晒されることになる……。慎重になるべきだって言ったのは先輩なんですよ」


 菅原くんの気迫に()される。

 心から案じてくれていると分かるからこそ、真摯(しんし)に受け止めるほかない。


「……俺はいつでも、先輩を守ることを第一に考えて動いてきたつもりです」


 ふいに彼の声色が和らぎ、はっと顔をもたげる。

 ばらばらに砕け散った心の欠片を、もう一度集めてみる気になった。


「……信じていいの? 菅原くんのこと」


「新汰でいいです。円花先輩」


 初めて、かもしれない。彼が自然に笑うところを見たのは。

 優しい笑みは控えめながら、あたたかく響くものがあった。


「信じるよ、わたし」


 わざわざ伝える必要はなかったかもしれないけれど、無意識のうちに口をついていた。

 少し驚いたような表情をした彼は、それから頷き返してくれる。


 ────過去のことをどうして乃愛が知っているのか、という疑問は残るものの、菅原くん自身は彼女に聞いたに過ぎないのだろう。

 とにもかくにも、これではっきりした。

 誰が味方なのか、ということが。


 そんなことを考えていると、彼が(うれ)うように眉根を寄せる。


「ただ……さっきので、俺たちが繋がってることは若槻先輩にもバレたと思います。だから、今後は何かあったら迷わず俺を頼ってください」


「うん。ありがとう……新汰、くん」


 遠慮がちに呼んでみると、一瞬、戸惑うようにその瞳が揺れた。

 うつむくようにわずかに顔を背け、彼は言う。


「……早く元に戻ってくださいね。それ、円花先輩の口から聞きたいんで」




     ◆




 優翔は“彼”のバイトが終わる時間に合わせて歩道橋上へ来ていた。

 大して待つこともなく、新汰が現れる。


「きみの差し金?」


 そう尋ねると、彼は不思議そうに首を傾げた。


「何のことですか」


「乙川乃愛のことだよ。どうせ、きみが()きつけたんでしょ」


 手すりに置いていた腕を下ろし、彼に向き直る。

 円花の身長だと見上げなければならないが、この目線にも大概慣れてきた頃だ。


 新汰は素知らぬ態度を貫いて、あっけらかんと答える。


「知りませんよ。あいつが勝手に暴走したんです」


「僕を騙せると本気で思ってるの?」


 優翔は厳しい表情を崩さないまま問い詰める。

 はじめは尋ねる口調で出方を窺いはしたものの、既に確信があった。


「確かに彼女は面倒な子だったけど、あそこまでのことを独断でしてのけるとは思えない」


 いくら嫉妬が高じたからといっても、刃物で円花に襲いかかるなんて発想も度胸もないはずだ。

 それこそ、新汰のような狡猾(こうかつ)な人物が裏で手を引いていない限りは。


「……さすがですね、若槻先輩」


 ややあって、彼が静かに頷いた。


「確かに俺が言ったんですよ。茅野先輩さえいなくなれば、若槻先輩はおまえを見てくれるだろう、って。邪魔者はその手で消しちゃえばいい、って」


 そう言ったとき、乃愛は戸惑いをあらわにしていた。


『でも、菅原くんは茅野のことが好きなんじゃ……』


『俺を見てくれないならどうでもいいよ。むしろ、いらない』


 そうねじ伏せると、彼女は当初怯んだ素振りを見せたものの、すぐに受け入れてほくそ笑んだ。


 優翔と円花の仲に嫉妬して、円花さえいなくなれば彼の心を得られると本気で信じている乃愛を操るのは、これほど容易なことだった。


「……どういうつもり?」


 優翔が気色ばむ。

 ひそめる眉と低めた声からして、苛立っていることは明白だ。


「いまの茅野は僕だって知ってるくせに、勝手な真似してくれたよね。僕が殺されるところだった……!」


「先輩こそどういうつもりなんですか」


 怯みも悪びれもせず、新汰が言葉を返す。

 食ってかかる勢いで()めつけた。


「俺たちの目的はひとつ。茅野先輩への復讐ですよね」


 だからこそ、彼らは手を組んだ協力関係にある。

 共闘と呼ぶ方が正しいかもしれないが。


「彼女を殺すまたとないチャンスが巡ってきたってのに、いつまで待たせるんですか」


「それは……自殺じゃどうなるか分からないでしょ。中身に引っ張られるんだったら、僕が死ぬかもしれない」


「そんな言い訳……。本気で言ってます?」


 新汰の気迫に気圧され、しどろもどろな調子になる。

 呆れたように言った彼は、強く拳を握りしめると悔しそうに唇を噛んだ。


「結菜は……あいつのせいであんなことになったんですよ」


 透き通るような彼女の笑顔を思い出す。

 あんなに優しかったのに。あんなに────好きだったのに。


 何もかも円花のせいでめちゃくちゃだ。

 彼女がいじめなんて低俗(ていぞく)なことをしていたせいで。

 結菜の笑顔を奪って、日常を壊した円花が、こうも憎くてたまらない。


「だから、ものも言えずに動けなくなった結菜の代わりに復讐しよう、って……。そのために協力してるんですよね、俺たち」


 まくし立てる新汰の剣幕に言葉を失った優翔は、口をつぐんでいた。

 普段おさえ込んでいるあらゆる激情の片鱗があふれ、“同志”であるはずの優翔の胸まで抉っていく。


「……その女と入れ替わって、情でも湧いたんですか?」


 新汰が吐き捨てるように笑う。


「いまは味方のふりして油断させてるけど、あいつと恋愛ごっこなんて反吐(へど)が出る。俺にも限界があります」


 その言葉通り、嫌悪感を隠そうともせずに表情を歪めた。

 もうそろそろ、我慢の限度を超えかねない。


「できないなら俺がやる。さっさと(かた)つけましょ、先輩」


 隙のない眼差しに捉えられ、優翔でさえもつい怖気(おじけ)づいてしまう。

 しかし、それを表に出さないよう平静を装った。


「……分かってる。僕がやる」


 毅然と言ってみせると、一拍置いて新汰が辟易(へきえき)したようにため息をついた。


「その顔見るだけで殺したくなる。早く元に戻ってくださいね」




     ◆




 家へ戻るなり、無心でカッターナイフを取り出した。

 細い手首にあてがう。


 いつ元に戻ってもおかしくない。

 その前提を忘れかけていた。

 この奇妙な日々は、何の前触れもなく終わるかもしれない。


 元に戻る方法そのものには、何となく直感的に見当がついているが、そうすればもう、復讐を果たすチャンスは巡ってこないだろう。


 僕の恨みや魂胆(こんたん)を知っている茅野が警戒しないはずもないし、恐らくはあのダンボールに隠していた物騒な武器やら何やらも見られたはずだから。


 さっさと(かた)をつけるべきだという、菅原の言葉は正しい。

 いまなら、憎い彼女の身体も命も思うがまま。


「……っ」


 どうしても、刃を肌に押し当てられない。

 力を込めようとすると、震えて息が止まりそうになる。

 かた、と諦めて机の上に置いた。両手を握り締める。


(いましかないって、分かってるのに)


 分かっているのにできないのは、菅原が言っていたように情が湧いたせいかもしれない。


『ごめん……なさい』


 結菜のことを思い出すなり、いの一番に謝罪にきた彼女に。


『茅野がきみを襲う理由がどこにあるの?』


 乙川に危うく殺されそうになったとき、助けに現れた彼女に。


 どれもこれも、自分の身を守るための演技には見えなかったし、あの涙が嘘だとはどうしても思えない。

 それに、昨晩聞き損ねた話とやらも聞かなければならない。


 また、菅原の底知れない感情の熱量に圧倒されている部分もあった。


『だから、ものも言えずに動けなくなった結菜の代わりに復讐しよう、って……。そのために協力してるんですよね、俺たち』


 僕と彼は、結菜のため、という大義名分を正義と信じて疑わなかったけれど。

 それが正しいのかどうかも、結菜が望んでいることなのかどうかも、正直分からなくなっていた。


 ────まどかちゃん、ごめんなさい。


 ────あのことは秘密にしてください。


 結菜が眠ることで(ほうむ)った真相を、僕たちは知らない。

 空白部分は都合のいい想像で補っただけ。


 少なくとも僕は、自分の責任から逃れたくて、茅野ひとりに原因を押しつけた。


 彼女を悪者にすることで楽になろうとしたんだ。

 そんな彼女に復讐することで、自分の不甲斐なさを許してもらおうと。


(……こんなふうに迷ってる時点で、茅野に(ほだ)されてるのかもしれないけど)


 かちかち、と刃を押し戻した。

 猶予(ゆうよ)はあってないようなもの。

 でも、結論を出すのはいまじゃない。


 そのとき、ふいにスマホが震える。

 病院からの電話だった。


 はっとして慌てて耳に当てると、看護師はまず“僕”じゃないことに戸惑っているようだった。

 そんなこと、いまはどうでもいい。

 はやる気持ちで適当な言い訳をして先を促す。


 それを聞き、手足の先が急激に冷えるのを感じながら息をのんだ。


「結菜が……!?」




     ◇




 黒板に写真を貼り出して“人殺し”だと暴露した犯人が乃愛だとしても、彼女は廃工場での一件以降、一度もわたしの前に姿を見せていない。

 教室でのことは手切れとしての仕返しだったのかも。


 バイトを終えて帰路についた頃には、すっかり夜の(とばり)が下りていた。


 今日は新汰くんがわたしより1時間くらい早めに上がったけれど、もうひとりでも不安にならない程度には慣れたものだ。


(どうやって伝えようかな……)


 過去や結菜に関する真相を、どうすれば若槻にうまく説明できるだろう。

 一度、新汰くんに相談してみようか、なんてことを考えながら歩道橋の階段を上っていく。


 街灯の光が伸びるそれを渡りきったとき、ふと何か気配を感じた。


「────茅野」


 背後から呼ばれて振り返ると、そこには“わたし”が立っていた。


 逆光になって表情がよく見えない。

 いつからいたのか分からないけれど、張りつくほどの距離にいる。


「びっくりした。驚かさないでよ」


 そんな文句を垂れてみても若槻は何も言わず、一度うつむいた。

 その様子を訝しんでいるうちに彼が顔をもたげ、ひと息で告げる。


「……終わりにしよう」


 え、と呟いた声は音にならないまま虚空に溶けた。

 気づかないうちに伸びてきた手が、一瞬のうちにわたしの肩を突く。


「……っ」


 思わず吸い込んだ息が喉元で詰まる。

 振り向いた視界に()れた段差が迫ってきていた。


 とっさに若槻の腕を掴むけれど、後ろに傾く方が早かった。

 若槻もまたわたしの肩を離さなくて、ふたり一緒に宙へ投げ出される。デジャヴだ。


 落下への恐怖から必死にしがみついた。

 それでも容赦なく全身をぶつけるうち、怖いという気持ちより“痛い”の方が増す。


 目が回って前後左右が分からなくなると、いつの間にかわたしは意識を手放していた。




 ────身体中を滑るような肌寒さを覚え、うっすらと目を開ける。


 あたりはぼんやりと暗くてはっきりしないけれど、真上に広がる墨色の夜空と、真下に敷かれたアスファルトの硬さから外にいると分かった。

 歩道橋の階段下に横たわっているんだ。


 徐々に全身が感覚を取り戻すと、あちこちが鈍く痛み出した。


(()た……)


 特に強く痛む左の上腕を押さえる。

 乃愛に切りつけられた傷を上から打ちつけたせいだろう。

 何気なく触れたてのひらに、湿った感触があった。


「ん……?」


 訝しみながら見やると、滲んだ血がついている。

 おかしい。

 痛覚はともかく、ここに傷があるのは“わたし”の身体の方なのに。


(あれ?)


 手が、小さい。

 慌てて両手を眺め、手の甲側も確かめた。

 筋張ってもいないし、線の細いしなやかなものだ。


 はっとして勢いよく起き上がると、自分の姿を眺めた。

 胸元のリボンにカーディガンにスカート。間違いなく、いつものわたしの格好だった。


「戻、った……? 戻った……!」


 噛み締めるように呟いた。

 発せられた声も、もはや懐かしくすらある自分のもの。


 本当に、元に戻ったんだ。

 にわかには信じられずに涙まで込み上げてくる中、ふと彼の存在を思い出して我に返る。


(若槻は……)


 きょろきょろとあたりを見回すけれど、その姿はない。

 後ろを向いた瞬間、何を捉えたかも分からないうちに、わたしは仰向けに倒れていた。


「え……?」


 困惑が突き抜けて感情が追いついてこない。

 いつの間にか、若槻がわたしの上に馬乗りになっている。


 先に意識を取り戻したか、もともと気絶していなかったのか、いずれにしてもわたしは追い込まれていた。


 夜空を背景にこちらを見下ろす彼の顔は険しくて、完全に余裕を失っている。

 街灯に照らされて余計に青白く見えた。


「……時間がないんだ」


 そう言った彼は、わたしの首に手をかける。

 低い体温が溶かし込まれた直後、ぐっと思いきり絞められる。


「なに……? や、め……っ」


 苦痛に顔を歪めると、滲んだ涙で視界がぼやけた。

 呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに、息を吸おうとしてもうまく酸素を取り込めない。


 痛い。苦しい。苦しい……!

 彼の手を剥がそうと掴んでも、まったく歯が立たなかった。

 力の差は歴然で、抗う余地もない。


(助けて、誰か────)


 苦しみ喘ぎながら、ぎゅ、と目を瞑る。


「円花!」


 くぐもって耳鳴りのする中、わたしを呼ぶ声がはっきりと聞こえた。


 弱々しく目を開けると、ちかっと視界に白い光が飛び込んでくる。

 反対側に停めた車から降りて車道を横切り、駆け寄ってくるふたつの人影をぼんやりと捉えた。

 兄と綾音だ。


 ふっとふいに首を絞めていた力が緩んだ。

 その瞬間、激しく咳き込んで酸素を(むさぼ)る。


「大丈夫?」


 傍らに屈んだ綾音がそっと背をさすってくれる。

 必死で呼吸を整えながらどうにか頷いた。


 兄に突き飛ばされた若槻は、そのまま地面に倒れ込んだ。

 早々に降参したのか抵抗もしない。


「おまえら、何を────」


「……きみは幸せ者だね」


 混乱の最中で激昂(げきこう)しかけた兄の言葉を遮り、若槻が呟く。

 力を抜いた彼はそのまま仰向けになり、ゆっくりと身体を起こして座った。


 同じようにそうしているわたしを眺め、それから向けられたのは意外なことに穏やかな微笑だった。

 嫌味でも偽物でもなく、彼の本心を表しているような澄んだ表情。


「過去や秘密を知っても、こんなに想ってくれる人がいる……。きみには“完璧”なんて仮面、いらなかったんだ。とっくに愛されてた。誰かの大切だった」


 兄たちが戸惑ったように顔を見合わせ、わたしと若槻を見比べた。

 元に戻ったということに、きっと気がついたのだと思う。


 微笑みを崩さないながら、彼の瞳には涙が滲んでいた。

 なぜかそれが、わたしの心にひどく染みる。


 ────“完璧”じゃなくても、兄や綾音はわたしを見限ったりしなかった。

 愛されていた、なんて全然知らなくて、ふたりを突き放そうとしていたのに。


(やめて、よかったんだ……)


 こうして駆けつけてきてくれたふたりを見たら、周囲の期待に合わせて、自分を演じる無意味さを思い知った。


 わたしはあまりにも弱くて、自分のために罪から逃げた。

 そんな過去からかけ離れたものになりたくて、殻に閉じこもって、そこから出られなくなっていたんだ。


 自分の存在価値を無理やりにでも作り出していないと、生きていることさえ許されない気がして。


 だけど、こうして入れ替わって、追い詰められて、嫌でも逃げられなくなった。


 そうやってどん底に落とされても、手から離れなかったものが確かにある。

 こうなってみないと見えなかった“大切”に、わたし自身も気づかされた。


「……僕にとっては、それが結菜だった。結菜のために僕はずっと────」


 目を伏せてうつむいた彼が言う。

 口をつぐんでいた綾音が遠慮がちに尋ねた。


「何かあったの……?」


 つられるように若槻を見やる。

 怒涛(どとう)の展開続きで考える隙もなかったけれど、彼は自らの意思で元に戻ることを選んだんだ。


 その選択は、そしていまの様子は、どう考えてもこれまでの若槻らしくない。


「……病院から連絡があった。結菜の容態が急変して危篤(きとく)だって」


 彼は絞り出すように答えた。胸の奥がざわめく。

 危篤という言葉の意味自体はぼんやりと理解しているけれど、まったく想像がつかない。実感も湧かない。


「復讐は、結菜がこの世にいる間に果たさなきゃ意味がない。……でも、もう無理そうだ」


 時間がない、とはそういう意味だったんだろう。

 だから急いで一か八かの賭けに出た。


 力なく諦めたような笑みを浮かべる彼を見て、わたしは思わず言葉を返す。


「……殺す気なんてなかったでしょ」


 若槻が弾かれたように顔を上げる。

 驚いたような表情をしていた。


 わたしの首にはまだきっと赤い痕が残っている。

 ひりひり、ずきずきと痛みも尾を引いている。

 息のできない苦しさと恐怖は、簡単には忘れられないだろう。


 だけど、分かる。

 彼は本気じゃなかった。


「本気で殺そうと思ったら、最初に言ってたみたいに、元に戻らないで“わたし”の身体で自殺すればよかっただけ。なのに、わざわざ元に戻ってこんなの……」


 彼の目を見つめ返す。


「こうやって、誰かが止めてくれることを望んでたんじゃないの? 本当は、失敗することを願ってたんじゃないの」


 若槻は答えなかった。

 視線を彷徨わせながら顔を背け、沈黙を貫いている。


 それが肯定を意味するのか、あるいは彼自身も分かっていないゆえなのか、傍目(はため)には読み取れない。


「────わたしね、結菜とは仲がよかったの。ぜんぶ思い出した。いじめてたなんてありえない」


 気づけば口走っていた。

 彼は訝しむような眼差しで眉をひそめる。


「うそだ。きみが追い詰めたから、結菜は……」


「ちがう……! ちがう……」


 どう伝えるべきか、まだまとまっていないまま、それでも言葉がこぼれ落ちていく。


 いまさら下手な言い訳も遠回りも必要ない。

 あるがままの過去を、真相を、ありのままに伝えなくちゃならない。


 眉根に力が込もった。

 あぶれた感情の一部分が涙になって散る。


 既に居場所を失って、許されなくて当然だと思っていたのに、それを覆すような“大切”な存在がいると分かって逆に臆病になった。


 軽蔑されて、やっぱり存在価値や生きる資格なんてないと否定されたら……。

 恐怖と恥と情けなさと自己嫌悪と、果てしない後悔が這い上がって絡みつく。


 それでも、わたしにはそもそも選択肢なんてない。

 もうこれ以上、逃げる場所もない。


「わたしたちは、逃げたの」


 “あの日”のこと、結菜のこと────ずるくて卑怯で弱いわたしたちが逃げ続けている罪のすべてを、包み隠さず打ち明ける。


「そんな、こと……。まさか……」


 案の定というべきか、若槻は動揺を隠しきれない様子だ。掠れた声で呟く。

 けれど、意外と冷静さを欠いてはいなくて、思っていたよりも早く衝撃から立ち直った。


「……でも、確かにあの頃の結菜は様子がおかしかった。やけに階段を怖がるようになったりとか、それはそういうことだったわけか」


 一度言葉を切った彼は、眉を下げたままわたしを捉える。


「いじめじゃなかったんだ。きみのせいじゃなかった……」


 確かめるように言う。

 その事実はないのだから当たり前と言えば当たり前なのだろうけれど、結菜の持ちものの中には、わたしが彼女をいじめていた証拠はひとつも残っていなかった。


 遺書を読んだ彼が誤解したのだ。もしくは、そう願ったのかもしれない。

 わたしという悪者をつくり上げれば、とめどない後悔のはけ口にできるから。


「……ごめん、茅野。ずっと思い違いして、きみを恨んでた」


 若槻の声は震えていた。

 手で目元を覆い、泣き笑いのような状態で深く息をつく。


「よかった。さっき、止めてもらえて」


 雪解けは思いのほか静穏(せいおん)に訪れた。


 わたしは唇を噛む。

 誤解は解けたけれど、罪が消えるわけじゃない。


 若槻は内心で妹の選択をどう受け止めるべきか決めかねているだろうし、わたしも正しく償わなければならないと思っている。


 この場で懺悔(ざんげ)しただけで大団円(だいだんえん)だなんて、そんな虫のいい話があるはずないのだから。


「────おまえたちは、人殺しなんかじゃない」


 一拍置いて、兄が静かに言った。

 真剣な面持ちでわたしと若槻を見やる。

 彼を通して結菜のことを言っているんだろう。


「円花からその話を聞いて、綾音ちゃんと一緒に当時の記事を探したんだ」


 こくりと綾音が頷く。

 聞くと、20代女性の死亡記事を何件か見つけ、地域から特定、同定したという。

 死因は階段からの転落や失血死などではなく、錠剤を詰まらせたことによる窒息死だったそうだ。


「窒息……?」


「つまり、ふたりが彼女を殺してしまったと思ったあのタイミングでは、実際には生きてたんだよ」


「そう。そのときはたぶん、気を失ってただけだった」


 それから意識を取り戻した彼女はそのあとのタイミングで、常用薬か何かを服用しようとしたのだろう。

 警察や病院に通報するよりも先に。もしくは、呼んでもいなかったかもしれないけれど。


 ともかくその際に誤嚥(ごえん)し、窒息してしまったことが直接の死因。


「見捨てて逃げたって事実に変わりはないけど、人殺しじゃない」


 無意識のうちに止まっていた呼吸が、兄の言葉で再開する。


 結果としてひとりが亡くなっている以上、喜ぶことはできないけれど、衝撃の中には安堵の気持ちが確かに存在していた。


 過去に後悔があるのはわたしも若槻と同じだった。

 その呪縛(じゅばく)から、少しだけ解放された気がする。

 罪を忘れたわけでも、そうしていいわけでもないけれど。


 目を背けても過去は変わらない。でも、その見方は変えられる。


 すべてを否定してなかったことにするんじゃなく、恐れず真正面から向き合うことが、わたしがいまを生きていくための第一歩だった。

 わたしにできる、唯一の償いだったんだ。


 そうしなかった罰は、十分すぎるほど受けた。

 過去を封じ込めた代償で手に入れた、偽りの名声もすべて失った。

 罪から逃げた結果残ったのは、皮肉にも罪の意識だけだ。


 だけど、もう逃げたくない。

 この非現実的な出来事が、間違いを知るための機会だったなら、わたしはもう弱いままなんて嫌だ。


 頬を伝った涙を拭ったとき、綾音が口を開く。


「ただね、その女の人なんだけど────」


 そのとき、ポケットでスマホが着信音を響かせながら震えた。

 取り出してみると、画面には例の病院の名前が表示されている。


「あ……そっか。僕が出るよ」


 差し出されたてのひらに彼のスマホを乗せた。

 “応答”をタップした若槻が耳に当てる。


「……はい」


 結菜に何かあったのかもしれない。いや、彼に連絡が来たということはあったにちがいない。

 つい最悪の想像をしてしまいながら、緊張気味に彼を窺う。


「え?」


 慎重に話を聞いていた若槻が、ふと困惑したように怪訝な表情を浮かべた。


「いなくなった……? 結菜が?」


 ────わたしたちは階段を駆け上がった。

 反対側に停めてある兄の車で、急いで病院へ向かわなければ。


 いなくなった、ってどういうことなんだろう。

 彼女が目を覚ました?


 混乱したまま上りきると、歩道橋の上には人影があった。

 フードを目深(まぶか)に被っていて顔が見えない。

 その人物は片手に包丁を(たずさ)えていた。


「誰……!?」


 図らずも足止めを食らう中、警戒したように綾音が尋ねる。


 包丁を目にして昨晩のことが思い出された。

 乃愛が懲りずに待ち構えていたんだろうか。

 もしくは、まさか……結菜?


「ずっと待ってたんですよ、このときを」


 そう言ってフードを外したのは、あろうことか新汰くんだった。

 あまりに驚いて開いた口が塞がらない。


「ねぇ、茅野先輩。これでおまえに復讐できる」


「復讐って、何で……。どういうこと?」


 わたしを見据えて不敵な笑みを浮かべる彼に、ただただ混乱してしまう。

 向けられた包丁の切っ先もまるで現実味がなくて、危機感は息を潜めたまま。


 恐怖よりも困惑で立ち尽くしてしまうと、若槻が庇ってくれるようにわたしの前へ歩み出た。


「菅原……。また勝手なこと────」


「勝手なこと? なに言ってるんですか、若槻先輩。俺があんたの指示だけで動いてたわけないでしょ」


 それこそ、何を言っているんだろう。

 理解が追いつかない以前に、意味が分からない。


 若槻と入れ替わってから、新汰くんはわたしの味方だったはずだ。


 確かに曖昧な立場と行動のせいで信じられなくなったりもしたけれど、それでも乃愛を裏切って、わたしを守るために動いてくれていたのだと知って、信じることに決めた。


 だけど、彼の口ぶりでは、若槻と繋がっていたという解釈しかできない。

 新汰くんは最初から若槻側の“駒”で、ずっとわたしを騙していた……?


「復讐っていう目的が一致してたから、都合に応じて従ってただけですよ」


 せせら笑った彼は続ける。


「それなのに若槻先輩は腰抜けで結局、茅野先輩を殺せずじまい。それだけじゃなく、絆される始末……」


 少しちがう、と思った。駒じゃない。

 若槻は彼を利用しているつもりだったのかもしれないけれど、実際には若槻もわたしも綾音も乃愛もみんな盤上(ばんじょう)にいたんだ。


 それを操っていたのが、新汰くんだった。


 彼は結菜の幼なじみだという話だった。

 “復讐”というのはそういうことかもしれない。


 どうして一度も考えなかったんだろう。若槻と新汰くんが結託している可能性を。


 入れ替わってすぐに付き合い始めたことになっていたり、もともとバイト先が同じで面識があったり、いま思えば不審なことばかりだ。

 糸口はいくらでもあったのに。


 若槻が「待って」と制する。


「僕たちの茅野への恨みは誤解だったんだよ」


「もういいです。……俺ひとりでもやるから」


 状況は既に変わっていた。

 彼らももう味方同士とは言えない。

 根の深い新汰くんの恨みが、わたしに向けられる。


「菅原!」


 若槻の声も無視して、新汰くんが包丁を構えてこちらへ一歩踏み出す。

 とどめようと手を伸ばした若槻を易々と躱し、その後ろにいたわたし目がけて振りかぶる。


 ぎりぎりで避けたものの、すぐさま立て直した彼に左の上腕を掴まれた。

 傷のある部分を締め上げられ、思わず悲鳴を上げる。


 繰り出された包丁を避けるには間に合わなくて、身を屈めると彼の腕ごと払い除けた。

 その反動でよろめいたわたしの靴裏が段差を滑る。


「あ……っ」


 息をのんだ。

 そのときには足元から地面が消えて、浮遊感に飲み込まれていた。

 揉み合いになった新汰くんを巻き込んだまま、否応なしに再び虚空へと飛び出す。


「円花!」


 兄の声が聞こえた気がした。

 次の瞬間にはまた、全身に鈍い衝撃を浴びる。


 どさ、と地面に落ちたあと、一拍遅れて包丁が降ってくる。

 真横に落ちた音がくぐもって微かに聞こえた。


 視界が回り続けているような感覚を覚え、身体に力が入らない。

 わたしはそのまま眠るように意識を失った。




     ◇ ◆ ◇




「円花……」


「ああ、もう……よかった」


 病室で目を覚ました円花は、まず目に飛び込んできた斑模様の天井を見て、病院に運ばれたことを悟った。


 霞んだ視界に涼介と綾音、優翔の姿を捉える。


 特に心配そうな面持ちの涼介には強く手を握られていたようだ。

 感覚を取り戻した指先から温もりが染みてくる。


 空いた反対の手を眺め、それから枕に流れる自身の長い髪を見た。


「……新汰くんは?」


「隣の病室。一緒に運ばれたんだけど、ふたりとも命に別状はないって」


 涼介が答えながら手を離し、そっと布団の上に置く。


「結菜、は……?」


「見つかったよ。病院の屋上にいたって。自力では動けないはずだから、誰かが運んだんじゃないかって……。とりあえず容態も安定して、危険な状況は抜け出した」


 これには優翔が答えた。

 結菜は依然として昏睡状態にあるため、自ら動くことはできない。

 万にひとつ目を覚ましていたとしても、筋力低下により歩行は不可能だろう。


 移動していたということは、誰かが運んだ以外にありえない。


 そっか、と円花は小さく頷いた。


「……それがきみの意思なんだね」


 ほとんど音にならないような呟きをこぼし、鈍い痛みの響く身体を起こす。


「ちょっと、大丈夫? 横になってた方がいいんじゃない?」


「……なあ、さっきは守りきれなくてごめんな」


「僕もごめん。菅原がきみを憎んでることは分かってたけど、まさかあそこまでするとは思わなくて」


 それぞれの言葉を聞きながら、円花は布団を剥いだ。

 床に足をつき、ベッドから下りると悠々と窓際へ歩み寄る。


「────“あの人”は身体が弱かったけど、親代わりとして、家でひとりぼっちだった自分の面倒をずっと見てくれてた」


 カーテンの隙間から外を眺める。

 墨汁をぶちまけたような夜空には月も星も見えない。


「あの日……塾から帰ってきたときにはもう、姉さんは冷たくなってた」


 玄関を開けてすぐに、階段の下に広がる小さな血溜まりに気がついた。

 その傍らに落ちていた生徒手帳を拾い上げ、嫌な胸騒ぎを覚えながら姉を呼ぶ。


 姉はキッチンで倒れていた。

 そばには水がこぼれていて、コップが転がっている。

 普段から飲んでいた薬の包装シートも一緒に。


 生徒手帳は円花のものだった。

 彼女が姉に何かしたんだと、それを見て分かった。


「何の話……?」


「家族も好きな人も、あいつに奪われたんだよ。ずっとあいつが憎かった……!」


 円花が感情を(たかぶ)らせると、掴んでいたカーテンにしわが寄る。

 わななく背中を見つめ、それぞれが困惑していた。


「ま、円花……?」


「ちがう。もしかして、菅原……?」


「じゃあ、きみが……あの、亡くなった女の人の────」


 円花はゆっくりと振り返る。

 先ほどまでの苛烈(かれつ)な激情は嘘みたいに凪いでいた。


 わざわざ肯定するまでもなく、何も答えずに彼らの後方へ向かう。


「待った……。落ち着け、菅原。さっきも言ったけど、茅野に対しては本当に誤解で────」


「俺は、何があっても成し遂げるって決めてるから」


 そう言うと、備えつけの台の上に置いてあった優翔の鞄を漁った。

 目当ての代物、包丁は刀身(とうしん)にハンカチを巻きつけた状態でそこに入っていた。


(……やっぱり)


 こんなことだろうと思っていた。

 優翔は甘いのだ。

 だから円花にも絆されるし、自分にも(あざむ)かれる。


 今晩の出来事ひとつ取ってもそう。

 大事にせずおさめようと、ひとまず包丁を隠していたのだろう。


 お陰で助かった。

 円花は(さや)代わりのハンカチをめくると、逆手(さかて)に持ち直した。

     ◇




 はっと目を開けると、見覚えのある天井が広がっていた。

 このシチュエーションは、いや、このシチュエーションもデジャヴだ。


 全身の痛みも忘れて、布団を跳ね除ける勢いで起き上がると、自分の手元を見下ろした。


「うそ、でしょ……!?」


 若槻よりわずかに小さい気がするけれど、この手は確かに男の子のそれだった。

 格好もそうだし、低めの声も突起した喉元も短い髪も、どれもこれもわたしのものじゃない。


 ずき、と頭に痛みが走って、ここへ運ばれてくる直前の出来事が蘇ってくる。


 歩道橋で待ち構えていた新汰くんに殺されかけて、揉み合いになって、彼ともども階段から転落した。

 きっと、今度は新汰くんと入れ替わってしまったんだ。


(どうしよう)


 とりあえず、彼に会わなきゃ。

 以前と同じならきっと隣の病室にいるはずだ。


 慌ててベッドから下りたとき、とさ、と何かが床に落ちた。

 てのひらにおさまるくらいの小さな紺色の手帳。

 裏返すと、表紙の部分に“茅野円花”と記されている。


「これ……って」


 中学2年当時の、わたしの生徒手帳だ。

 “あの日”になくしたもので間違いない。


 きっと、ポケットに入っていたのが寝転んでいる間に出てきてしまったんだろう。

 だけど、どうしてこれを新汰くんが持っているの?


(まさか────)


 さほど考えるまでもなく、答えは自ずと導き出される。


 彼だったのだ。

 “あの日”に約束をしていた、わたしが顔も名前も忘れてしまった結菜の友だちは。

 彼は、亡くなったあのお姉さんの弟だったんだ。


 心臓がばくばくと騒いだ。

 “あの日”の記憶がノイズ混じりにフラッシュバックしてくる。

 ()せていても、赤色だけは鮮明だ。


「……っ」


 ぎゅう、と生徒手帳を握り締め、病室を飛び出していく。

 隣の扉を開けた瞬間、若槻の叫び声が聞こえた。


「やめろ!」


 “わたし”が逆手に持った包丁を振り上げている。

 すべての音が遠のいて、目の前の光景がスローモーションのように感じられる。


 次の瞬間、光を弾く鈍色(にびいろ)の刃が“わたし”の心臓目がけて振り下ろされた────。


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