第2話
【ぜんぶ思い出したから謝りたい】
【歩道橋で待ってる】
バイト終わり、立て続けに2件のメッセージを若槻に送信しておいた。
菅原くんとともに夜道を歩き、例の歩道橋近くで立ち止まる。
上からは死角になる物陰に潜み、若槻が来るのを待つことにした。
車通りはあるけれど、人通りはそれほどない。
そのときはほどなくして訪れた。
「……あ、来ましたよ」
建物の陰から顔を覗かせていた菅原くんが言う。
はっとしてわたしも歩道橋の方を見上げた。
スマホを片手にちょうど階段を上っていく“わたし”の姿を認める。
【着いたけど、どこにいるの?】
そんなメッセージを受け取るとともに若槻があたりを見回したのが分かって、さっと身体を引っ込めた。
「じゃあ、やるよ……?」
「はい。ちょっと待ってから俺も追いますね」
こく、と頷くと深呼吸をして鼓動を落ち着ける。
恐らく機会は一度きり。失敗したらおしまいだ。
だけど、やるならいましかない。
どうにか緊張をおさえ込み、わたしは心を決める。
地面を蹴って飛び出すと、急いで階段を駆け上がっていく。
あの日、得体の知れない誰かに追われていた恐怖が自然と蘇り、わざわざ“ふり”なんてするまでもなく必死になった。
「……茅野?」
「若槻……っ」
訝しむような戸惑うような表情でこちらを向いた彼に駆け寄り、目いっぱい手を伸ばす。
突き飛ばすほどの勢いで迫った。
てのひらが“わたし”の身体を捉える────。
あれ、と困惑した。
動かない。わたしも若槻も。
あのときのように一緒に転がり落ちるはずだったのに、いつまで経ってもその気配はない。
「え……!?」
顔を上げて心底驚いた。
そこにいたのは“わたし”ではなく、お兄ちゃんだった。
「おに────」
「おまえ……。いま、円花に何しようとしたんだよ」
若槻に触れる寸前に割って入ったようで、手すりを握ったまま庇うように立ちはだかっている。
どこに潜んでいたんだろう。
まったく気づかなかった。
「突き落とそうとしたのか?」
「ち、ちが……っ。いま追われてて!」
非難や怒りのような感情を宿した眼差しに怯んで慌てた。
これほど厳しい表情を向けられたのは初めてで、動揺に体温を奪われていく。
兄の過保護も優しさも、妹であるわたしに対してのものなのだと思い知る。
いまのわたしは彼の妹じゃなくて、赤の他人。
それどころか、大事な妹に危害を加えようとした不審人物でしかない。
(どうしよう。助けて、菅原くん……)
縋るような思いで振り返った。
だけど、そこには誰の姿もなかった。
(菅原くん?)
思わず身を乗り出して見下ろすものの、先ほどわたしたちがいたところにも彼はいない。
陰にいるのなら見えないだけだろうけれど、この状況を傍観して隠れているとは考えづらかった。
“守る”と言ってくれたのだから。
「円花をつけ狙ってるなら、これを機に諦めることだ。今日はこれで済ませてやるけど、また近づいたらそのときは容赦しないから」
「……はい」
どう考えても分が悪く、大人しく引き下がるほかない。
鋭い兄の言葉に気圧され、答えた声は細くなった。
だけど、顔を上げられなくなったのは、兄よりもその背後にいる若槻を恐れたせいだった。
(……絶対、やばい)
未然に防がれたとはいえ、ここまできたらわたしのしようとしていたことに察しがついたはず。
彼の怒りを買っていることは容易に想像できた。
きびすを返したふたりを窺うと、去り際に“わたし”から射るような眼差しを寄越される。
絶望的な気持ちで、逃げるように顔を背けた。
◆
彼女の思惑を悟り、腹が立っていた。
僕との約束も過去も投げ出して、我が身かわいさに姑息な手段に出たことに怒りを覚える。
今回は涼介さんのお陰で助かった。
僕だって元に戻りたくないわけではないが、こんな中途半端な状態で無に帰すのは不本意でしかない。
「……何で居場所が分かった、の?」
彼のあとを歩きながら尋ねた。
とても偶然とは思えなくて。
「ああ、綾音ちゃんから聞いたんだ。円花が変な男につきまとわれてる、って」
小谷さんの言う“変な男”とは、恐らくストーカーだという菅原を指しているのだろう。
ただ、先ほどの状況では“僕”の方がそうだと、涼介さんには誤解されたかもしれない。
ともかく、今回は毒が薬になったような感じだ。
毒というのは小谷さんと涼介さんのことで、ふたりは茅野と近しく、なかなかに邪魔な存在だった。
そのうち茅野に復讐を果たすとしても、迂闊に手出しすることを阻む厄介な要因になり得る。
(それにしても、しつこいな……)
さすがは茅野の親友といったところか、と小谷さんに思いを馳せる。
付き合ってる、と言っておいたのにまだ菅原を警戒しているとは。
(……この分だと、入れ替わってることがバレててもおかしくないかも)
ざわ、と胸騒ぎのような危機感を覚える。
まだ心配そうな涼介さんを適当にあしらい、帰宅早々に自室へ込もった。
「確か、ここに……」
机の引き出しから小さな機械を取り出す。
いかにも盗聴器らしい無骨な黒いそれに、イヤホンを挿して耳につけた。
最初にこれを見つけたときには引いてしまったくらいなのに、まさか僕が使うときが来るとは。
良心や倫理観がせめぎ合っても、背に腹はかえられなかった。
単純そうに見えて飄々としている小谷さんの真意を探るべく、耳からの情報に集中する。
ノイズ混じりの騒音が聞こえてきた。
重低音や音楽、話し声に笑い声が響いている。
(カラオケ?)
友人たちと盛り上がっている場面が想像できた。
声を聞く限り、厄介な後輩である乙川乃愛も同席しているらしい。
『円花先輩のこと誘わなくてよかったんですかー?』
彼女が言う。実際には大して気にもとめていないように。
『いいのいいの、白けるし。あの子に合わせるのだって楽じゃないんだから』
『ちょっと持ち上げたらいい気になっちゃって。褒めても、当たり前でしょ、みたいに思ってるの透けてるし、絶対うちらのこと見下してるよね』
『こっちだってばかじゃないし、ステータスのために友だちのふりしてるだけなのにね』
無意識のうちに強張ったような表情をしていて、我に返ると力を抜いた。
これは自分に向けられたものではなく、あくまで茅野に対する悪口だ。
とうに化けの皮は剥がれているらしい。
同情しつつも、ざまあみろ、と思ってしまう。
『綾音もそう思うでしょ?』
思わずイヤホンに手を添えた。
彼女の本音が聞けるかも、とまた無意識のうちに前のめりになる。
『……まあね』
ひときわ冷たい声が響く。
『あたしも涼介さんに近づくために仲良くしてるだけだし。あ、そうそう、今夜も株上げといたんだ。ストーカーくん様様だなぁ』
『うわ、こわーい!』
なぜか息が詰まって、心臓が沈んだように重たくなった。
深く息を吐き出し、止まりかけた呼吸を再開する。
身体に残っていた茅野自身の感情の機微や心の痛みが自ずと反応したせいか、僕が擬似的に傷つけられたせいかは分からなかった。
ただ、小谷さんが涼介さんを動かしたのは、茅野の身を案じたわけじゃない。
自分のため。自分の想いのために利用しただけ。
それは分かった。
『あ、ちょっとお手洗い行ってくるねー』
小谷さんが席を立った気配があった。
さすがにまずいか、とイヤホンを外そうとした瞬間、がさがさと走ったノイズに耳の内側をかき回される。
『……ねぇ、聞いてるんでしょ』
はっとした。
誰に話しかけているのかと戸惑う。
ひとりで部屋を出たはずで、誰かに電話をかけたような素振りも受けたような感じもなかった。
────だとしたら、可能性はひとつしかない。
(僕、か……?)
図らずも動揺してしまいながら、視線を宙に彷徨わせる。
それすら見透かしたように彼女は笑った。
『さっきの幻滅した? それともムカついてるかな?』
いつから気づいていたのだろう。盗聴器の存在と、盗聴されているという事実に。
その態度を見る限り、気づいた上で茅野を泳がせていたとしか思えない。
彼女を探るつもりが、腹の底がますます読めなくなった。
『どっちでもいいけど、言いたいことあるなら直接言いにきてよ。あたし、逃げも隠れもしないから』
そう言われた直後、バキッと硬いものが砕けるような音がした。
それきり、うんともすんとも言わなくなる。
踏み潰したか握り潰したか、いずれにしても破壊したんだろう。
(行くしかないか……?)
彼女なりに宣戦布告をしてみせた以上、もうのらりくらりと躱す気はないはずだ。
小谷さんとの関係性は、僕自身の目的からするとどうでもいいかもしれないが、茅野である僕が無視するわけにはいかなかった。
果たしてこの胸騒ぎは茅野のものだろうか。
それとも、僕のものだろうか。
◆
翌日、昇降口に入る前に小谷さんの姿を見つけた。
つい緊張が高まるのを自覚しながら「ねぇ」と声をかける。
人の少ない渡り廊下側へ回ると、足を止めて対峙した。
「やっぱりね。盗聴してたのは円花だったんだ」
こぼされたひとことに、いまさらながらはたと気がつく。
そういえば彼女は昨晩、あくまで茅野の名前を呼んではいなかった。
“逃げも隠れもしない”と誘い出せば、相手が自分から接触してくると踏んで罠を仕掛けていたのだろうか。
僕は墓穴を掘って、自ら名乗りを上げたことになる?
(……いや、そんなことないか。“やっぱり”ってことは)
大なり小なり見当はついていて、それが確信に変わったというところだろう。
「さすがに気持ち悪いよ。そこまでして嫌われたくないの? ていうか、好かれていたい?」
蔑むような眼差しと言葉を向けられるが、僕としても同感だ。
あるいは暴走した承認欲求なのだとしても、必死にもほどがある。
どれほど他人の目を恐れているのだろう。
「……友だちじゃなかったの?」
口をついて出たのは僕の本音だった。
小谷さんは心底おかしそうに声を上げて笑う。
「昨日聞いてたでしょ? あれがあたしの本心だよ。友だちだと思ったことなんか一度もない」
「…………」
「あんたが涼介さんの妹じゃなかったら、きっと話もしなかっただろうね」
開き直った態度はいっそ清々しいほどだ。
けれど、その明瞭さとは裏腹に、彼女という人物像が霞んで逃げていく。
「だからって、何で急に……? このこと、兄に告げ口してもいいんだよ」
「無駄だよ」
半ば感情的に返した言葉は、ただの負け惜しみに近かった。
その豹変ぶりが不気味で、主導権を握られているのが不本意で、戸惑うばかりだ。
小谷さんがせせら笑う。
「あたしも、あんたと同じ。涼介さんの前では完璧に振る舞ってきた。昨日のこともあって完全にあたしのこと信じてるから」
今度こそ言葉を失った。
いや、わざわざむきになって反論する必要なんて、最初からなかったかもしれないが。
「そういうことで、くだらない友だちごっこはもう終わりね。ストーカーくんとお幸せに」
◇
足がすくんで動けなくなった。
綾音の声が、言葉が、濁流のように思考を飲み込んでいく。
連れ立ってどこかへ向かうふたりを見かけて、気になったからといってあとを追ったのが間違いだったのかもしれない。
こんなことを聞かされるくらいなら。
だけど、ただならぬ気配を感じて無視できなかった。
(どうしてこんなことになってるの……)
分かりやすく嫌味な捨て台詞を残し、歩いていく綾音から身を隠す。
そのまま若槻からも校舎の陰に隠れてやり過ごそうとしたのに、不運なことに気づかれた。
「……聞いてたんだ。その顔からして」
血の気を失って顔面蒼白にちがいない。
動揺を隠せないわたしにはあれこれ考える余裕もなく、若槻に腕を引かれるがままに踏み出した。
────立ち止まったのは校舎裏の小庭になっている部分で、先ほど以上にひとけがない。
「……綾音とは、入学してすぐの頃からの友だちだったの」
気がついたらそんな言葉が口をついていた。
みんなが褒めてくれると、何かと水を差すような言動をする彼女を、近頃は確かに疎ましく思っていたかもしれない。
だけど、頭を鈍器で殴られたような衝撃が落ちてきてから尾を引いたまま、一向に立ち直れなくて自覚する。
わたしの中で綾音は、確かに“友だち”だった。
言われた内容そのものよりも、綾音に言われたということがショックだった。
「でも、そう思ってたのはわたしだけだったんだ」
彼女はお兄ちゃんのことが好きで、わたしはそのためだけに利用されていたのだ。
────友だちだと思ったことなんか一度もない。
────みんな自分のために一緒にいるのに、気づいてなくて可哀想。
綾音や乃愛の残酷な言葉が、いまになって深々と胸に突き刺さる。
(何だったんだろう、わたしって)
何事も“完璧”な人気者。
そんな現実はまやかしで、理想は幻想でしかなかったのだろうか。
「……傍若無人な女王さまの冠は脱げても、嫌われ者なのは相変わらずだったね」
若槻が皮肉じみたことを言う。
“わたし”の顔が歪んで見えた。
「ざまあみろ、って言いたいところだけど」
「……慰めとか、いらない」
「するわけないでしょ。そうじゃなくて、おかしいと思わない? 小谷さんの本性がああだったとしても、急にあんな態度」
解せない、と言いたげに怪訝そうな面持ちで腕を組む。
「きみが涼介さんの妹なのは不変の事実なんだから、本心を明かすメリットがない。別にふたりの仲が進展したわけでもないしさ」
「……確かに」
突然、強気に出た理由は何なのだろう。
綾音の意図がまるで読めなくて眉をひそめる。
「まあ、それはともかくとして」
若槻が腕をほどき、歩み寄ってくるなりこちらを見上げた。
「約束の期限は今日だけど、ちゃんと思い出してくれた?」
「それ、は……」
気を抜いていた、というか気が抜けていたわたしの首根っこを唐突に掴まれた気がして心臓が跳ねた。
答えに窮してうつむいてしまう。
その瞬間、ふっと呼吸が詰まった。
「……っ」
吸い込もうとしても酸素を取り込めない。
首に圧迫するような鈍い痛みを感じ、思わず手で押さえる。
混乱しながら顔をもたげると、冷ややかにこちらを眺める“わたし”と目が合う。
あろうことか、自身の首を両手で絞めていた。
「な……」
「出し抜こうとした罰、受けとく?」
その口元が不敵に緩む。
背中を恐怖が滑り落ちていき、さっと青ざめた。
「ま、待って……! 謝るから。ごめん、昨日のことは本当に────」
言い終わらないうちに力が抜けて、がくりと膝から崩れ落ちた。
したたかに打ちつけたはずの膝の痛みは感じない。
ガッ、と前髪を掴まれて無理やり上向かされる。
怒りと呆れと侮蔑、ことごとく非難するような眼差しを突き刺された。
「そうじゃないだろ……?」
ぞく、と寒気を帯びた肌が粟立つ。
「最初から言ってるよね。僕の目的はただひとつ、きみに復讐することだ。ひと思いに殺してあげる」
「嫌だ……!」
「反省も何もない。覚えてもいない。……ふざけてるにもほどがある。結局、猶予を与えたのに思い出す努力もしないで、騙し討ちなんてしようとして。いまも昔も、きみは自分のことしか考えてない」
ようやく現実感がリアルに追いついてきた。
ずっと、わたしの首には死神の鎌があてがわれていたのに、その危うさを見落とし続けていた。
そもそも真剣に向き合おうとしなかった時点で、危ういことに気づいてもいなかった。
泣きつけばどうにかなる、だなんて全然そんなことはなかったのだ。
若槻は本気だ。
その度合いを甘く見ていたばっかりに、こうなるまで分からなかった。
乱暴に彼の手から解放され、力なくその場にへたり込む。
じわ、と視界が滲んだ。
彼が怖いのか、自分が不甲斐ないのか、いずれにしても感情に押し負ける。
「このまま、きみの身体で自殺しようか。それとも、僕を殺そうか」
興がるような笑みをたたえつつ、背を向けて滔々と語り出す。
「どっちにしても僕は目的を果たせる。……もともと自分の身体にも人生にも執着なんてないし、茅野円花としてこの先生きることになったって構わないんだ」
ぎゅう、とたまらず地面ごと拳を握りしめたとき、手に乾いた何かが触れた。
折れた木の小枝。
瞬間的に“わたし”の後ろ姿と見比べる。
「せっかくだから、きみに選ばせてあげようか?」
そう言った振り向きざま、若槻が身を折った。
余裕の笑みが消え、その顔を苦痛に歪めながら腿のあたりを押さえている。
「痛……っ!」
驚いたように確かめても、当然ながらそこに傷はない。
逆にわたしの、若槻自身の脚には枝が突き刺さって鮮血が滲み出し、灰色のスラックスに濃い染みを作っていた。
「……思い通りになんてさせない」
突き立てた枝を抜き、その場に放り捨てる。
少しおぼつかないながらも、立ち上がって“わたし”を見下ろした。
「確かにわたしは覚えてない。過去にあんたと何があったのか」
「…………」
「でも、だからこそ大人しくやられるわけにはいかない。そもそも、あんたの記憶が正しいって言いきれるの?」
「は……。何をいまさら」
一笑に付したにしては言葉尻が弱く、やや面食らったようだった。
彼も彼で、そんなふうにはこれまで考えもしなかったのだろう。
「とにかく、わたしは簡単に殺されたりしないから。そのときはあんたも道連れにしてやる」
「……生意気言っちゃって」
若槻がせせら笑う。
「分かってるの? お互いさまだよ」
「望むところ」
「じゃあ、せいぜい足掻いてみれば? 元に戻れる保証はないけど」
昼休みになると、相変わらず離れようとしない乃愛を振り切って、逃げるように屋上へ出た。
(何とかなった……のかな、これは)
痛い思いも苦しい思いもしたけれど、何となくタイムリミットのことはうやむやになった気がする。
だけど、それはいいことでも悪いことでもあった。
今後はもう、わたしの命は保証されていない。
“わたし”もわたしも、いつ若槻に手をかけられてもおかしくなかった。
ただ、入れ替わっている以上はどうしたってお互いの命運を握り合うことになる。
“お互いさま”というのはそういう意味で、迂闊に手を出せば自身も無事ではいられない、という牽制だ。
「早く戻らなきゃ……」
いや、不本意だけれどそれについては彼の言う通りなんだ。
昔のことを思い出して、過去を清算することで身の安全を確保する方が先決かもしれない。
そのとき、背後でドアノブの回る音がした。
キィ、と軋んでドアが開き、菅原くんが姿を現す。
示し合わせたわけではないものの、もう彼がいつわたしの前に現れても驚かない。
「……裏切り者」
露骨に悪態をつき、手すりに背を預ける。
菅原くんは「え?」と戸惑うように目を瞬かせた。
「“守る”とか言ったくせに、昨日真っ先に逃げたでしょ」
「ああ……それはすみません」
そばで足を止め、しおらしく謝る。
「でも、あの場に俺が現れたら、若槻先輩に繋がりがバレかねなかったから」
「まあ、それもそうかもしれないけど。……でもこれで同じ手は使えなくなったよね」
わたしの思惑を知った彼を歩道橋にもう一度呼び出しても、警戒して応じてくれないだろう。
まさか、兄に邪魔されるなんて。
過干渉でうっとうしい面倒な存在だと感じることはあっても、脅威になるとは思わなかった。
「じゃあ今度は俺が呼び出しますよ」
「えっ?」
「いま付き合ってることになってるし、こっちの繋がりもバレてないし、俺だったら若槻先輩も来てくれるんじゃないですかね」
確かに、と納得した。
それなら逆に応じない理由がない。
昨晩、菅原くんが姿を現さなかったのはかえってよかったと言えた。
元に戻れるかもしれない。
その可能性の実現へ近づくと、いつの間にかまたそちらを優先してしまっていた。
だけど、それで構わない。
元に戻ってさえしまえば、いま頭を悩ませてきている若槻の脅威からはほとんど脱せるのだから。
「……でも、いいの? もしうまくいかなかったら、菅原くんが────」
「いいんですよ。そうなったらそうなったで、堂々と茅野先輩側につきますから」
心強い上に優しい言葉に少し力が抜けた。
彼がいてくれてよかった、と何度目か分からない実感を経て頬を綻ばせる。
「ありがとう」
「……じゃあ、今夜。バイト終わりにまた歩道橋で」
【着きました。若槻先輩もいます】
【了解、いまから行くね】
菅原くんに返信すると、例の歩道橋へ向かって夜道を歩き出す。
連絡先は昼休みの段階であらかじめ交換しておいた。
(なるべく早く合流しないと)
善意(と好意)で協力してくれている菅原くんが、若槻に怪しまれるような事態は避けたい。
そう思って歩速を上げたとき、最近は無縁となっていたはずの音を聞いた。
──カシャ
無機質なカメラのシャッター音。
驚いて反射的に振り向くけれど、誰もいない。
「菅原くん……?」
せり上がってくる不安と恐怖から、口をついたのは彼の名前だった。
ちがうはずだ。
つきまとっていたことは認めたけれど、盗撮まではしていなかったはず。
本人がはっきりと否定していた。
それでも根本の部分では疑惑が晴れていなかった。信じきれていなかった。
彼の仕業なのではないか、と真っ先に思ってしまったのはそのせい。
(……もうやだ。考えたくないし、早く行こう)
姿の見えないストーカーも、入れ替わりなんて非現実的な現実も、見たくない自分の側面を容赦なく突きつけてくる。
目を背けることも逃げることも許されないけれど、それでもいまは逃げるように先を急いだ。
その途中で、はたと気がつく。
(あれ……?)
先ほどのシャッター音が例の盗撮犯だとしても、いまのわたしは若槻の見た目をしている。
どういうことだろう。
狙いは若槻なのか、そうじゃないとしたら入れ替わっていることを知っているのか、あるいは────。
背後から、細かな砂利混じりの靴音が聞こえた。
ぞっとした。
もう振り返れない。
遠目にもようやく歩道橋が見えてくると、その上には街灯に照らされたふたつの人影がぼんやりと浮かび上がっているのが分かった。
きっと、若槻と菅原くんだ。
(じゃあ……)
後ろにいるのは、誰?
縮み上がった心臓が早鐘を打つ。
恐怖ですくむ足を懸命に動かしながら、一秒でも早く歩道橋へ着きたいと願った。
「……っ」
靴音が近づく。迫る。
「た────」
助けて、と叫ぼうとした声が詰まる。
背中に何か硬いものを押し当てられたのが分かった。
その瞬間、力が抜けて足から崩れ落ちる。
目の前が真っ白になって、直後に意識ごと暗転した。
◇
無色透明な空気が肌を撫で、うっすらと目を開ける。
がたがた、ばたん、という、騒々しいとまではいかないまでも遠慮のない物音を耳が拾った。
ぼんやりと霞む視界一面には白い壁。
戸惑いながら首だけ仰向くと、最近ようやく見慣れてきた天井が広がっていた。
(家だ……。若槻の)
どうやって帰ってきたんだっけ。何で床に寝ているんだっけ。
硬い感触を全身に感じながら、暢気にもそんなことを考えたとき、ようやく手足の先の方に感覚が戻った。
「な……っ」
何これ、という言葉は喉が引きつって出てこなかった。
突っ張るような違和感があって確かめると、手首と手足のそれぞれがガムテープでぐるぐる巻きにされている。
間に合わせの拘束といった具合の雑さがある。
そばには実際に使ったものと思しきガムテープの本体が転がっていた。
だけど、十分すぎるほど役目を果たしていて、少しひねった程度ではびくともしない。
「────あ、目が覚めた?」
ふいにどこからか飛んできた声に心臓が縮み上がった。
気づけば先ほどまでの物音は止んでいる。
寝転んだ体勢のまま恐る恐る振り向くと、肩越しに目が合ったのはお兄ちゃんだった。
「え……!?」
「いやー、人を攫うってのも楽じゃないな。ここはおまえの家だから、誘拐とは言わないのかもしれないけど」
キッチンから持ち出したのだろう包丁を片手に、散らかった床を悠々と突き進んでくる。
シーリングライトの白い光を弾く刃を見た瞬間、息をのむと同時に身体を起こした。
拘束のせいで苦戦しながらも、どうにか座った姿勢をとる。
先ほどの物音は、ものが散乱しているのは、兄が物色したせいだろうと気がついた。
「どうして」
掠れた声がひとりでにこぼれ落ちる。
あとをつけていたのはお兄ちゃんだった?
何のためにこんなことを……?
「本気で分からなくて聞いてるのか? どういうつもりか聞きたいのは俺の方だよ」
低められた声からは確かな怒りを感じる。
正面に屈んだ兄は、喉元に包丁の切っ先を突きつけてきた。
ひゅ、と冷たい風が身体の内側を通り抜ける。……怖い。
身を震わせて硬直したまま動けなくなった。
幼い頃から一緒だった兄が、まったく知らない誰かになってしまったようだ。それも、敵に。
包丁を握る手に不慣れな不安定さがあって、逆に危うさを孕んでいた。
「円花に近づくな、って言ったのに、またあんなところで何しようとしてたんだ」
「そ、それ……は────」
「実害がなくちゃどうせ警察はあてにならない。でも、それじゃ手遅れだろ。おまえみたいなストーカーが妹に手を出せないように、その手足、使えなくしてやろうか?」
あまりの気迫に怯んでしまいながらも、慌てて首を横に振る。
「ち、ちがう。本当にちがう! ストーカーとか、そんな!」
「だったら“あれ”はどう説明するんだよ!」
兄が叩きつけるように指し示した先には、開かれた状態で床に横たわる卒業アルバムがあった。
黒く塗り潰されたわたしの名前と写真。悪意の証。
「同級生だったんだろ? ずっと何かを根に持ってつけ狙ってたなら、動機は十分じゃないか」
言葉を失った。
その真意は若槻しか知らない。
けれど、兄の言葉を裏づけるだけの根拠があるのも事実で。
「それに、これは」
おもむろに立ち上がった兄は、クローゼットからダンボールをひとつ引きずり出した。
蓋を閉じていたガムテープは乱暴に引き裂かれている。
それを蹴って倒すと、がらがらと中身が流れ出てきた。
手錠、鞘におさまったナイフ、工具の数々やノコギリ、ブルーシート……嫌な予感を抱かずにはいられない、不穏な代物ばかりだ。
またしても絶句する。
見るだけでぞっとして、座っているのに足がすくんだ。
「なあ、どういうことなんだ」
ゆらりと兄が動き、わたしの前に再び屈んだ。
「これで円花を殺すつもりだったんじゃないのか!?」
突きつけられた刃は先ほどよりも近い。
目のふちが熱いのに冷たくて、涙が滲んでいることに気づいた。
もう無理だ、と思った。
兄も若槻もとうに本気だ。
若槻をストーカーだと疑って止まない兄の言葉は、度を越しているけれどきっと脅しなんかじゃない。
親代わりとして妹を守らなければ、という使命感が暴走しているだけだとしても。
本当のことを話せないのが歯がゆくても、やり過ごせるならそれが最善だと思っていた。
でも、もう無理だ。
わたしだと気づかれないまま、お兄ちゃんに殺されたのではたまらない。
「ちがうの、わたしは────」
言いかけた瞬間、インターホンが鳴った。
訝しむように兄が立ち上がり、包丁が遠ざかる。
止めていた息を深く吐き出した。
「……何で」
モニターを確認した兄が困惑気味に呟く。
────その数分後、わたしたちは信じられない状況に置かれることになった。
訪れたのは、綾音。インターホンを鳴らしたのは彼女だった。
戸惑う兄をモニター越しに「いいから開けて!」と押し切って、青ざめた顔で息を切らせながら部屋に現れた。
「よかった……」
靴を脱ぎ捨ててわたしの前に転がり込むと、無事を確かめてほっとしたようだった。
散らかった中からはさみを見つけ出すと、すぐにガムテープを断ち切ってくれる。
呆気にとられてされるがままのわたしは、信じられない気持ちで綾音を見つめた。
兄もまた突っ立ったまま動けないようだ。
「どうして……」
思わず呟いた声が自分のものではなくて、そういえばいまの自分は若槻だったことを遅れて思い出す。
綾音はどこからか若槻の危機を悟って、彼を助けにきた? どうして助けに?
様々な“どうして”が頭の中を駆け巡るけれど、何から尋ねればいいのか分からなくて言葉にならない。
「親友だからに決まってんでしょ」
朗々と彼女は答える。
手足が自由になっても、まだ力は入らない。
「無事でよかった。円花」
瞬きも呼吸も忘れて、向けられた優しい微笑を見つめ返すことしかできない。
(いま……“円花”って?)
耳を疑った。
だけど、聞き馴染んだその響きを聞き間違うはずもなければ、綾音が訂正する気配もない。
「円花……? どういうことだ?」
意味を理解する前に、兄が怪訝そうに口を挟んだ。
綾音はため息をつくと、呆れたような表情を浮かべる。
「まったく……。妹を溺愛してるくせに気づかないなんてね」
「え?」
「優翔くんが円花で、円花が優翔くんになってるんだよ。ふたりは入れ替わってる」
優翔くん、の部分でわたしの肩に手を添えた。
兄の驚いたような、不可解そうな眼差しがこちらに向く。
だけど、混乱しているのはわたしも同じだった。
兄とは別のところで。
「綾音、何でそのこと……」
「あたしが気づかないと思った?」
無邪気で得意気な笑顔をたたえる彼女は、わたしのよく知っている綾音そのものだった。
だからこそ、今朝の冷たい笑みと言葉が記憶の中で浮き彫りになって困惑が拭えない。
「でも、綾音はわたしのこと嫌いなんじゃ……?」
わたしと仲良くしていたのは兄に近づくため、それだけだったはずだ。
もしかするといまも、わたしを助けるふりをして兄の好感度を上げようとしているのではないか。
そんな猜疑心に苛まれるけれど、それは綾音の次の言葉で霧散した。
「あんなの嘘に決まってるって。そもそも、あたしが涼介さんのことが好きだなんていつ言ったの?」
「えっ!?」
前提をひっくり返すような事実だった。
あまりに驚いて二の句が出てこない。
色々な意味で混乱するわたしと兄をそれぞれ見やると、綾音は姿勢を崩して座り直した。
「順を追って話すよ。涼介さんも聞いて」
────異質なものが散らばる部屋で、異質な取り合わせのわたしたちが顔を突き合わせていた。
何だかおかしな状況だけれど、不思議なことにこれが現実。
「まずね、ここ1週間くらい、円花の様子が前とちがうって感じてたんだよね」
綾音が口火を切る。
「髪型とか癖とかそういう些細なこともそうだけど、なんて言うのかな。確信はないけど、違和感がずっとあって。別人みたいだな、って率直に思ったの」
別人、という言葉になぜかどきりとした。
知ってか知らずか、綾音は少し慌てる。
「そんな言い方すると大げさかもしれないけど。だって表面上は円花なんだし、言うこととか行動がありえないほど変わったってほどじゃないし。ほかのみんなは全然気づいてないみたいだし」
「それで?」
どうしてか言い訳じみて早口になった彼女に、兄が続きを促した。
「一番の違和感は、あれ。ストーカーの菅原と付き合い出したこと。あんなに怖がってたのに何で、って。普通、おかしいって思うよ」
それはそうだろう。わたしだって意味が分からない。
若槻に一応ああ説明されたけれど、何だか飛躍しすぎている気がしていた。
「それでいて優翔くんともこそこそ話してたりするから、何か変だなぁって本格的に思い始めてさ」
そう言った綾音がふとまじめな顔つきになる。
つられて少し緊張した。
「そんなときにね、あいつがあたしに接触してきたの」
「あいつ?」
「菅原」
「え……っ」
思いもよらない展開に、声に全面的な戸惑いが乗った。
菅原くんが綾音と話をしにいっていたなんて初耳だ。
「それで、言われたんだよね。円花と優翔くんが入れ替わってる、って」
「うそ……?」
「ほんと。非現実的な話だけど、何か“やっぱりな”って不思議と納得しちゃって」
どういうことなのだろう。
菅原くんはどうして、わたしに無断でそのことを綾音に伝えたんだろう。
「それでね、そのとき言われたんだ。円花を守るふりをすれば、間違いなく涼介さんからの株が上がるだろうって」
「それって……」
「そう、菅原はひとつ勘違いしてた。それが、あたしが涼介さんを好きだってこと。だからあたしはそれに乗っかったの」
「何のために?」
反射的に聞き返すと、綾音は当然のように言う。
「暴くためだよ、菅原の狙いを」
言われてみれば確かに妥当な理由に思えた。
そのために一度、わたしを裏切ってみせたんだ。
「昨日の夜、歩道橋に涼介さんを呼んだのはあたしだけど、菅原に言われたからだったんだ。“円花が変な男につきまとわれてて危ない”って言って呼び出せばいい、点数稼ぎのチャンスだ、って。半信半疑だったけど……」
「……そっか、それで俺は誤解したのか。“変な男”がその優翔くんとやらだって」
聞けば聞くほど、胸の内にもやもやとしたものが巣食う。
違和感が膨らむ。
「待って……。でも、おかしいよ。そもそも歩道橋に若槻を呼び出そうって言い出したの菅原くんなんだよ。それじゃ自作自演っていうか、何がしたいのか意味分かんない」
「ん? 円花、菅原と接点あるの?」
「……その前に、何で円花はそんなことを?」
静かに兄が尋ねてきた。
先ほどまで散々目を見て話していたはずなのに、何だかまともに顔を見るのさえ久しぶりなような、妙な気まずさを覚える。
「えっと……入れ替わったときの状況を再現すれば元に戻れるんじゃないか、って話になって。わたしと若槻、あの歩道橋の階段から落ちて入れ替わったから」
だけど、昨晩は結局、兄が現れたことで失敗した。
それが菅原くんの指図だったなら、提案した張本人である彼に阻まれたということになる。
「何が目的なの……?」
「分かんないけど、あんまり信用しない方がいいんじゃないかな。円花の味方みたいなふりして、裏切ったんだったら」
結局、綾音も彼の意図を掴むことはできなかったみたいだ。
裏切った、という言葉がやけに重々しく心に落ちてきた。
裏切り者、と投げかけた自分の言葉と混ざり合う。
彼は正真正銘の裏切り者だった?
本当の狙いは何なのだろう。
こうして今日のように、兄が明らかな敵意をもって“若槻”を襲うことまで見越していたとしたら、背筋が凍りそうになる。
「ねぇ、ところで優翔くんとはどういう話になってるの? もうずっとこのままなの?」
そう尋ねた綾音の表情は不安気だった。
わたしは一度うつむき、顔を上げる。
この際、すべて話してしまおうと思った。
入れ替わっている、というネックの部分を隠す必要がなくなったお陰で、頼ることへのハードルが取っ払われたから。
かくして若槻の本性や、過去の出来事をきっかけに恨まれていることを、包み隠さずふたりに伝える。
肝心の昔の記憶は曖昧で、わたしには身に覚えがないということも。
「お兄ちゃんは何か知らない?」
ごく自然にそう呼びかけて、話しかけていて、自分でも驚いた。
兄とまともに会話したのはもう随分前のことのように思う。
何となく気恥ずかしさを感じるけれど、兄の方は特に気にとめることなく「そうだなぁ」と記憶を辿っているようだった。
「おまえから優翔くんの名前を聞いたことはない気がする。あってもこうして忘れてるくらいだから、ふたりが仲良くしてたような覚えはないな」
「まあ、兄妹って言っても何でも把握してるわけじゃないからね。涼介さんの知らないところで、ってことはあるんじゃない?」
ただ、はっきりしたのは、兄を交えて考えてみても過去への手がかりはないということ。
だけど、と床を眺める。
ダンボールに詰め込まれていた物騒な代物は、やっぱりわたしへの復讐とやらのために用意されていたもののように思えてならない。
“こんなこと”がなくたって、もともと若槻はわたしを襲うつもりだったはず────。
「……そういえば」
ふと思い出したように綾音が口を開いた。
「この前、病院の近くを通りかかったとき、円花のこと見かけたんだよね」
「え」
「正確には、円花の見た目をした優翔くんかな。そのまま病院に入っていったの。声かけなかったからどうしたのかは分かんないけど」
「そうなんだ……」
小さく呟いてから、思う。
わたしはこれまで、どれほど傲慢だったんだろう。
いまの話も、菅原くんに関する話も、わたしひとりでは知り得なかったことだ。
妹を守ろうとする兄の強い覚悟も、わたしのままでは気づけなかったかもしれない。
“完璧”なわたしは、周りを見下して大切にしてこなかった。
若槻に対してもそうだ。
だから真剣に取り合わなかったし、甘く見ていた。
入れ替わってから降りかかってきた問題を、ひとりで解決できたことなんてない。
自分を過信していたんだと、突きつけられた。
「……ごめん。ごめんね、ふたりとも」
「え、どうしたの」
「わたし、何も分かってなかった」
喉の奥が締めつけられて、思わず唇を噛んだ。
うつむきかけたとき、ふわりと小さな風が起こる。
気づけば綾音に抱きしめられていた。
「円花」
耳より少し後ろの方で声がする。
「あたしね、気づいてたよ。盗聴器のこと」
「え……」
「ほかに仕掛けられてる子たちの顔ぶれ見て、犯人は円花だって分かった。ああ、信用されてないんだなって、怒るより先にショックだったよ」
綾音がどんな顔をしているのか、わたしからは見えなかった。
いまさら言い訳を並べ立てるほどの図々しさはないけれど、瞳の中でひとりでに涙が膨らんでいく。
「でも知らないふりしてた。円花の方からちゃんと話して欲しくて。あたしから言ったら、本当の円花を見失いそうで」
そっとわたしを離した綾音は、息をのむほど優しく微笑んでいた。
「あたし、円花が初めて声かけてくれた日のこと、はっきり覚えてる。陰口も空気もものともしないで、ひとりぼっちのあたしに話しかけてくれたよね」
考えがあったわけじゃなかった。“完璧”ゆえの打算的な思惑も。
ただ、気がついたら綾音に声をかけていて、それをきっかけに仲良くなって。
『それ、かわいいね。そのキャラ、わたしも好きなの』
天然で子どもっぽいだとか空気が読めないだとか、彼女を知るほどに的外れな陰口としか思えなくなった。
だって、綾音はこんなにも友だち想いで優しい。
「あのときの円花の笑顔は本物で、本当に眩しかった。完璧なんかじゃなくても、あたしは円花が大好きなんだよ。一番の親友だから」
涙がひと粒、こぼれ落ちていった。
火が灯ったように心があたたかい。
綾音が泣き笑いのような表情で頬を拭ってくれる。
本当の自分を見失っていたのはわたしだった。
いまなら分かる。
“完璧”だともてはやされるたび、綾音があえて水を差していた理由が。
これもきっと、わたしのままじゃ気づけなかった。
────茅野先輩のこと、嫌いでしょ。
菅原くんが、綾音に言ったという。
────それでも、自分のために我慢して一緒にいる。結局、自分のことしか考えてない人間が得をするんですよね。だから……自分の望みに忠実になった者勝ちですよ、小谷先輩。
足をすくわれる覚悟はしてないといけませんけどね、と。
それからしばらく、その言葉が頭から離れなかった。
◇
学校へ着くと、ぎゅう、と強く左腕をつねっておいた。
案の定、痛みは感じない。
教室へ鞄を置き、乃愛に捕まらないうちにさっさと屋上へ出て待っていることにした。
ほどなくして、背後でドアが開く。
思った通り“わたし”もとい若槻が現れた。
「乱暴だな……。直接声かけてくれればいいのに」
「話してるとこ見られたくないから」
大げさに腕をさすって文句を垂れる彼に淡々と返す。
乃愛に、そして菅原くんに、という意味だ。
「まあいいけど。それで、何か用? お望み通り、完璧に完璧なきみを演じてるけど」
嫌味な言い方だけれど、きっと嘘はないのだろう。
綾音には気づかれていたものの、それは若槻に原因があったというより、彼女が日頃いかにわたしをよく見てくれているかの証明だった。
「……病院に、何しにいってたの?」
単刀直入に本題へ切り込むと、ふと若槻の顔から笑みが消える。
「あんたを病院で見かけたって人がいるの」
「……なんだ、それだけ? 怪我の経過を診てもらいにいってただけだよ。階段から落ちたときの」
「そんなの……何日前の話よ。あんな怪我、とっくに治ってるでしょ」
「きみの身体に傷を残したくないから」
心にもないことを、なんて純真な微笑で言ってのけるんだろう。唖然とする。
彼を知らない頃のわたしならきっと騙されていた。
「話は済んだ? それじゃ、戻るから」
「待って」
さっさときびすを返す若槻を引き止めたのはとっさのことだった。
だけど、まったく衝動的だったわけじゃない。
「……顔色、悪いよ。体調悪いんじゃないの?」
ここへ姿を現したときから気になっていた。
何となく血の気のない顔色は白っぽくて、疲れているように見えた。
「……だとして、それは僕じゃなくてきみの身体の話だけどね」
「え……。まさか、わたしが病気だって言うの?」
「だったら、よかったのに」
無遠慮かつ容赦のないひどい言いようだ。なんて不謹慎な。
けれど、腹を立てるより怪訝な気持ちが勝った。
若槻の様子が明らかにおかしい。
“病院”と口にしただけで、その時点で反応を示していた。
しらを切るには答えるまでに時間をかけすぎて、中途半端な弁解になったんじゃないだろうか。
「────そういえば」
若槻がこちらを振り返る。
いささか余裕を取り戻したようだった。
「昨日の夜、背中にものすごい痛みを感じたんだ。電気が走ったみたいにしばらく痺れてた。まさかとは思うけど、スタンガンでも食らわされた?」
図星を突かれてどきりと心臓が跳ねる。
若槻の口元にはおもしろがるような笑みが浮かんでいた。
さすがに冗談のつもりなのだろう。
「……まさかね」
「僕の身体なんだから、もっと大切に扱ってくれる?」
分かってるよ、とおざなりに答えようとしたとき、ふいに再びドアが開いた。
軋むような音につられてそちらを向くと、そこには不機嫌そうに口を曲げる乃愛がいた。
(げ……)
「先輩!」
見つかった、と慌てるわたしに歩み寄ってくるなり腕を絡めてきた。
彼女は憎々しげに“わたし”を睨めつけている。
「茅野先輩……。あたしの若槻先輩に近づかないでください」
「え、ちょっと……乃愛ちゃん? わ、僕がいつきみのものになったの?」
いつもやけに距離が近いけれど、事前の情報では、若槻と乃愛は恋人関係ではなかったはずだ。
乃愛が一方的に重い好意を寄せているだけであって。
「そうだよ、乙川さん」
意外なことに若槻がフォローしてくれる。
珍しく意見が合致したようだ。
「彼が勘違いさせるようなこと言ったならごめんね? でも、彼はわたしのものだし、わたしは彼のものなんだ」
────と思ったら、火に油を注いだだけだった。
しかもある意味、間違ってはいない。
(ばか。なんてことを……)
わなわなと身を震わせる乃愛と、おろおろとうろたえるわたし、それぞれを眺めて若槻は声もなく笑う。
完全に面白がっていた。
「……最っ低、この性悪。いまに思い知らせてやる」
やがて乃愛から発せられたのは、普段の猫なで声からは想像もつかないほど低く、怒りや嫉妬に満ちたものだった。
嫌な胸騒ぎがする。
この場合、乃愛に何かされるとすれば“わたし”なんだ。
若槻はもしかすると、それを分かった上で文字通り捨て身の挑発をしてみせたのかもしれなかった。
行きましょ、と乃愛に引かれて歩きながら思う。
何度か目の当たりにしてきた、彼女の悪意と敵意。
それらもきっと、わたしのままじゃ気づけなかっただろう。
放課後、バイト先のカフェで菅原くんと顔を合わせた。
例によって客の姿のない閑散とした店内で、以前のように窓際の席のテーブルを囲む。
「……大丈夫ですか」
彼の黒々とした瞳が心配そうにわたしを捉えた。
「待ってたけど、歩道橋に来なかったから。メッセージも無視だし、電話も出てくれないし」
それは綾音の言葉を受け、菅原くんへの不信感が募って、最大限の警戒をしておくことにしたからだ。
彼が嘘つきな裏切り者なら、もう何も信用できない。
何を考えているのかさっぱり分からない。
だけど、だからこそ正直に責めたり露骨に衝突したりするのは避けたかった。
あえて直接尋ねたりはしない。
彼がどんな動機で動いているとしても、それこそ何をされるか分からないから。
『でも、だからこそだよ。下手に刺激しないように話を合わせてるんだ』
『……え?』
『あの手のタイプは、粘着質で何をしでかすか分からなくて危険でしょ。こじらせれば刺されるかもしれない』
いつかの若槻の判断が、いまになってようやく理解できた気がする。
彼も綾音のように、そしてわたしのように、菅原くんの動向を慎重に窺おうとしていたのかも。
「……気が変わったんだ」
わたしは端的に答える。
もう惑わされたくないし、騙されたくない。
適当に合わせ、適当に遠ざけ、適当に利用してやればいい。
下手に出る必要なんてない。
「それで来なかったんですか?」
「そうだよ。またふいにして、二度とチャンスが巡ってこなくなったら困るもん。もっと慎重にいくべきでしょ」
「……まあ、そうですね」
わたしの嘘に、菅原くんは一応納得したように頷くけれど、腹の底が全然見えない。
もしかすると、また別の企みがそこにはあったのかもしれなかった。
肩透かしを食らって落胆している可能性はある。
「じゃあ、休戦ですか。しばらくこのまま」
「仕方ないよ、簡単には戻れそうもないし。だから一旦受け入れて、ちゃんと向き合ってみなきゃ」
過去に。
そして、若槻に。
その答え自体は紛うことなき本心だった。
元に戻る、戻らないに関係なく、一度真剣に考えてみなくちゃならない。
こうなって思い知らされた以上、それはわたしの義務だから。
「……って言っても、既に行き詰まってるんだけど」
「────あの」
肩をすくめると、おもむろに菅原くんが口を開いた。
「手がかりになるかは分かんないんですけど、俺の知ってること話しますよ。若槻先輩について」
思わぬ言葉に、つい警戒を忘れて前のめりになる。
彼は相変わらず感情の変化を見せないまま、滔々と語り出した。
「……先輩は早くに両親を事故で亡くしてるんです。ひとつ下に妹さんがいるんですけど、彼女も長いこと入院してて」
菅原くんの声がわずかに色を帯びる。
わたしは瞳が揺れるのを自覚した。
まったくの予想外で、正直に動揺してしまう。
凄絶で孤独なその片鱗を、彼はこれまで微塵も覗かせなかったから。
「入院費とかは、いまは遠方に住まう祖父母が出してくれてるらしいんですけど、生活費はこうして自分で賄ってるんですよ」
「……知らなかった。でも、そっか。病院はそういうことか」
恐らく妹のお見舞いに行っていたのだろう。
顔色が悪かったのはその心労のせいかもしれなかった。
(わたしの姿でも会いにいくなんて……よっぽど妹思いなんだ)
そのことを教えてくれていたら、わたしが彼のふりをして一緒に行ったのに。
不自然さも顧みないくらい、妹が大切な存在なんだろう。
わたしならどうするだろう。もし、兄が入院していたら。
その状況になってみないと分からないけれど、少なくともお兄ちゃんだったらきっと若槻と同じことをするんだろうな、と漠然と想像がついた。
「ていうか、どうしてそんなに詳しいの?」
「前に一回聞いたことがあったんですよ。……ねぇ、先輩」
菅原くんがふと真剣な面持ちになった。
「先輩が若槻先輩と幼なじみなら、妹さんも同じ学校出身の可能性高いんじゃないですか」
はっとする。さすがに心が揺れる。
惑わされたくない、騙されたくない、とは思っていた。
だけど、菅原くんの言葉は的を射ていて、何が言いたいのかもはっきり理解できる。
(妹さんなら、何か知ってるかも)
わたしの兄というあてが外れたように、拍子抜けする結果に終わる可能性は十分ある。
だけど、妹さんはきっと若槻に一番近い存在。
わたしとのことはともかく、彼の過去について聞くことができれば、それは大きなヒントになる。
そうやってパズルのピースを集めれば、わたしたちの因縁に、若槻の恨みの正体に、たどり着けるかもしれない。
若槻が“怪我の経過観察”なんて嘘をついたということは、妹さんが入院しているのは恐らく、転落してから運ばれたのと同じ病院だろう。
「…………」
菅原くんの言葉なんて簡単に信用するべきじゃないとは思う。
それでも、いまはそこ以外に糸口が見当たらない。
わたしは腹を括った。
(……会いにいってみよう)
そして、聞こう。
過去の空白部分を。
◇
休日、わたしはさっそく若槻の妹が入院していると思しき病院へ向かった。
この姿なら会うのも難しくないはずだ。
あとはわたしがうまく振る舞えるかどうかだけれど、場合によってはもう本当のことを明かしてもいいような気がしていた。
わたしと彼の過去の繋がり、恨まれるに至ったきっかけを知ることの方が重要なんじゃないだろうか。
(若槻……若槻……)
病室のネームプレートを確かめながら院内を彷徨い歩く。
彼女がどうして入院しているのかも個室か大部屋かも知らないから、手こずることは覚悟の上だ。
そもそも、本当にこの病院なのかどうかも確定しているわけじゃないから無駄骨になるかもしれない。
それ以上に知っていることがないのか、菅原くんにもっとちゃんと聞いてこればよかった。
そんなことを悶々と考えながら、別棟の廊下へ足を踏み入れる。
「……あら、優翔くん?」
ふいに声をかけられる。
一瞬、反応が遅れてしまったけれど、振り向いた先には看護師が立っていた。
母親くらいの年代の優しそうな女性。
優翔くん、と呼んだということは知り合いなんだろうか。
「えっと……」
「結菜ちゃんのお見舞い? いままで毎日来てたけど、何かちょっと久しぶりね」
ふと看護師が横の扉に目をやった。
つられてそちらを向くと“若槻結菜”というネームプレートが掲げられている。
どきりとした。
間違いない。若槻の妹だ。ここが、彼女の病室なんだ。
その名前を聞いたとき、ざわ、と心がさざめいた。
「忙しかったのかしら。そりゃ大変よね、優翔くんもまだ高校生だもんね」
「あ、その……まあ、ちょっと」
「でも、代わりにここのところ毎日お見舞いに来てる女の子がいるけど、もしかして彼女さん?」
曖昧に苦笑すると、続けざまにからかうような笑みを向けられて言葉に詰まる。
“わたし”のことだろう。
顔見知りの看護師がいるのに、わたしには何も言わず、自分ひとりでお見舞いを強行するなんてよっぽどだ。
よっぽど、妹さん────結菜ちゃんのことが大切で、よっぽどわたしのことを信用していない。
「あの────」
会う前に少しでも情報が欲しくて、せめて結菜ちゃんの容態を尋ねようとしたところ、別の看護師の「鈴木さーん」という声に遮られてしまった。
「はーい、いま行きます」
声をかけてくれた看護師は、そう応じてからわたしに向き直る。
「結菜ちゃん、今日は安定してるよ。それじゃまたね、優翔くん」
手を振ってきびすを返し、返事を待たずに行ってしまう。
さすがに引き止めるのは気が引けた。
病室の前にひとり取り残されたわたしは、一度深呼吸をする。
何だか緊張していた。
若槻の妹に会うことそのものになのか、どう接すればいいのか分からないからなのか、あるいは過去と向き合うことに対するものなのか……ぜんぶかもしれない。
いずれにしても、彼女と話せば得られるものがあるはず。
覚悟が鈍らないうちに、と銀色の取っ手に手をかけた。
「おい……っ」
焦ったような、咎めるような、そんな声が飛んできて反射的に動きを止める。
顔を上げると、つかつかと歩み寄ってきた誰かに手を掴まれていた。
「え……」
若槻だった。
困惑気味に驚いた表情がみるみる怒りへと変わっていく。
「ここで何してるんだよ」
眉間にしわを寄せ、声を低める。
彼らしくない荒々しい口調。
“わたし”越しに強い憤りをあらわにする彼に戸惑ってしまった。
わたしの知る彼は、紳士的で優しい仮面を被った悪人で、笑いながら平気で人を傷つける鬼畜。
身に覚えのない恨みで脅して追い詰めてくる悪魔。
常に余裕に満ちていて、優位にいるはずの若槻が、こんなふうに怒っているところなんて初めて見た。
「な、何って……お見舞いだけど。妹に会いにきて何が悪いの?」
ばっ、と腕を引いて振りほどく。
怯んだ素振りを見せないよう精一杯強がったものの、若槻は厳しい態度を崩さなかった。
「きみが来るようなところじゃない。いますぐ帰ってくれ」
「何で……。いまさら無関係だなんて言わないでよ。ひと目でいいから会わせて。そしたら何か思い出せるかも」
そう言って再び取っ手を掴むと若槻の方を見やる。
ほんの一瞥のつもりが、釘づけになった。
感情的に取り乱しているわけではないけれど、明らかに怒りの込もった瞳でわたしを睨みつけていた。
静かに炎が燃えているような、温度の低い怒り方。
無言で非難しているようでもある。
「若槻……?」
思わず手を引っ込めてから、困惑してその名を呼ぶ。
“わたし”は躊躇するように目を伏せたあと、観念するべく短く息をついた。
それから────病室の扉を開く。
音もなくスライドしたその奥には、思いもよらない光景が広がっていた。
部屋の大部分を占めるのはよく分からない機械の数々。
ものものしく並び、中央のベッドを取り囲んでいる。
そこに横たわる女の子、恐らく彼の妹の結菜ちゃんは、点滴のほか機械から伸びる無数の管に繋がれたまま目を閉じていた。
「え……」
掠れた声で呟いたきり言葉を失ってしまう。
目の前の状況に圧倒され、理解と反応が追いつかない。
「……遷延性意識障害。いわゆる植物状態ってやつ。残念ながら話すことなんかできないよ」
そう言った“わたし”の声もまた機械みたいに無感情な響きをしていて、心情がまったく読み取れなかった。
「それだけじゃない。結菜はもう……病気で、余命幾ばくもないんだ。もってあと3か月って言われてるけど、いつどうなってもおかしくない」
「そんな……」
あまりの事実に唇も声も息も震える。
衝撃と動揺が感情を追い越し、彼の言葉の意味を理解するのでやっとだった。
「……きみのせいだ」
扉を閉めた若槻がわななく。
取っ手を強く握りしめたまま、うつむいて絞り出すように言った。
おさえ込んでいた感情を絡めとりながら。
「え……っ?」
「いますぐ帰ってくれ。二度とここへは来るな!」
病院を出ても、若槻の厳しい声が耳の中でこだまし続けていた。
頭から離れない。あれほど余裕を失ったところ。
“わたし”越しに向けられた、拒絶。
重たい足取りで歩いた。
若槻の妹という手がかりになりそうな存在が空振りに終わった落胆と、彼女の状態に対する衝撃と、若槻の態度への動揺、すべてにかき乱される。
『……きみのせいだ』
何よりその言葉の意味が、分かってしまった。
気づかないうちに思考が侵食され始めて、目眩を覚える。
ブゥン、と真横を車が通り過ぎていった。
はっと我に返る。
数メートル先の路肩に寄って停まったのは、見覚えのある黒色のコンパクトカー。
兄のものだ。
あ、と思っているうちに助手席の窓が開き、綾音が顔を出した。
「円花!」
人懐こい笑顔で手を振られるけれど、即座に反応を返せない。
「円花の様子見に優翔くんの家行こうと思ったら、たまたま涼介さんとばったり会ってさ。これから一緒に行くとこだったんだけど……って、どうかしたの?」
「……あの、ね────」
「ちょっと待て、おまえも乗れ。話はそれからにしよう」
運転席の兄に促され、口をつぐむと大人しく後部座席に乗り込む。
何も言わずに動き出した車はきっと、当初の予定通り若槻のマンションへ向かっているはずだ。
妙な沈黙が落ちていた。
わたしが口を開くのを待っている気配があったけれど、何から話せばいいのか分からなくなって黙り込んでしまう。
「……そういえば、円花はどこ行ってたの?」
綾音が気を利かせてくれたお陰で糸口が見えた。
視線を落としたまま答える。
「病院。菅原くんから若槻の妹の話を聞いて……長いこと入院してるらしくて。会って話せば、昔のこと思い出すヒントを掴めるかもって」
「あー、あのとき見かけた優翔くんは、お見舞いに行ってたってことか。それで、菅原の言うこと信用したの?」
「そうじゃないけど、そんな嘘つく意味もないし。ちょっとでも手がかりになりそうなら、食らいついてみるべきかなって」
期待は見事にすべて打ち砕かれた。いや、そうとも言いきれないのかも。
────わたしを待ち受けていた悲惨な現実の全容を、ふたりにも伝える。
「そんなことになってるなんて……」
呟いた兄の声は掠れていた。
表情こそ見えないけれど、綾音もきっと同じように戸惑っているだろう。
「“きみのせい”って……」
「……うん。たぶん、若槻の恨みは結菜ちゃんに関することなんだと思う」
わたしのせいで彼女はあんなことになった。
彼はそう言いたかったのだと思う。
それに気づいてしまったのに、それでもまるで何も覚えていないことが、混乱と自己嫌悪を通り越していっそ恐ろしかった。
若槻の家へ帰り着くと、コップを3つとお茶を取り出した。
部屋の中は探索し尽くしたし、毎日ここで生活しているわけだし、嫌でも勝手が分かるようになってくる。
「何かもう自分の家みたいに馴染んでるよね」
「……おまえ、本当に円花なんだよな?」
「そうだってば。もう……やめてよ。いい迷惑なんだから」
兄が“おまえ”なんて呼ぶのはきっとこの見た目のせいだ。
よりによって若槻と入れ替わってしまうなんて、なんて不運なんだろう、と彼の秘密を知ってからは常々思う。
早く元に戻りたいのに、事態はどんどん複雑になって、逃げることを許してくれない。
ソファーに腰を下ろすふたりにお茶を出し、わたしはベッドに座った。
こく、とひとくち含んだ綾音がどこか遠慮がちに尋ねてくる。
「……本当に覚えてないの? その、結菜ちゃんのこととか、昔のこととか」
「覚えてない。若槻はともかく、学年もちがう妹と面識があったかどうか……。正直、定かじゃない」
「俺は」
兄が硬い声で口を開く。
「聞いたことある気がする。円花の口から、その“結菜”って名前」
「えっ」
思わぬ言葉に驚いて目を見張った。
わたし自身にはまったく覚えのない話だ。
だけど、頭から冷水を浴びせられた気分だった。
思い知らされる。この期に及んでも、心のどこかで若槻の記憶違いや誤解という可能性を期待して、そんな彼に脅されているわたしは可哀想な被害者だと信じていたことを。
その気持ちが決して小さくなかったことを。
(若槻の記憶は正しかったって言うの……?)
結菜ちゃんとわたしが顔見知りだったなら、自ずと若槻の言葉の信憑性が増していく。
冷えた全身が一瞬で熱を帯びた。
迷いもなくふたりにすべて打ち明けたのは、言って欲しかったからかもしれない。
仕方ない、と。わたしは悪くない、と。
同時に情けなかった。
“完璧”なはずのわたしの清廉性が疑われたら名折れだ。
潔白じゃなかったら、みんなから見損なわれるにちがいない。
「……嘘だ」
「え?」
「嘘つかないでよ。わたし、本当に何も覚えてないのに。若槻の妹の名前だって、今日初めて知ったんだよ。知り合いなわけない」
焦りから口走ったことは、けれど事実だ。
うっとうしいくらいに過保護だった兄に貶められたように思えて、余計頭に血が上る。
若槻や兄の言葉を認めたら、わたしに非があることになる。
わたしの潔白が、完璧さが否定される────。
「覚えてない、覚えてない、って言うけど……そもそも思い出そうとしたのか? ちゃんと」
「したよ! 手がかりがないか家中探したし、妹に会いにいったのもそのためじゃん」
結局、見つかったのはクローゼットの中の卒業アルバムだけだ。
それだって手がかりと呼べるほどじゃない。
「……あ」
いま、クローゼットの様子を思い出してふいに思いついた。
綾音が「どうかしたの?」と首を傾げる。
「箱の中、見てない。もうひとつの方の」
確かに家中を見て回ったけれど、そういえばその箱だけは失念していた。
急激に温度が下がっていき、冷静さを取り戻す。
目的を見失っていた。
大事なのは空白の過去を思い出すことだ。
『あのさ、勘違いしないでくれる? 僕たちは対等じゃない。自分の立場を忘れない方がいいよ』
たとえ、わたしのすべてを否定するものであっても。
変えられない過去は受け入れるしかない。
クローゼットを開けてみる。
手つかずの箱は、例の物騒なものが詰め込まれたダンボールの横に変わらず鎮座していた。
けれど、蓋をしているガムテープが途中まで刃物か何かで裂かれている。
────あの夜、わたしを誘拐した兄が開けようとして、その前にわたしが意識を取り戻したから、何となくそのままになっていたんだ。
3人で箱を囲むと、カッターナイフで慎重にテープを切った。
一度小さく深呼吸をしてから、蓋を左右に開いてみる。
「これ、って……」
中身は結菜ちゃんにまつわるもの一切、といった具合だった。
彼女のものはこのダンボールにひとまとめにされていたみたい。
一番上に乗っていた小学校の卒業アルバムを取り出すと、その下にあったものを見て息をのむ。
「……何これ」
綾音が困惑気味に呟く。
わたしも、恐らくは兄もまったく同じ心情だった。
畳まれていても分かるほどぼろぼろになった中学校の制服。
はさみで切り裂いたようにところどころ破れている。
上履きもまた、ひどいありさまだった。
余白が残らないくらい、油性ペンで落書きがされている。
どれもこれも、悪意に満ちた悪口ばかり。
「いじめ……?」
強張った声で兄が言う。
その結論はきっと、誰の目から見ても大いに的を射ていると思う。
その単語が頭をよぎったあたりから、何だか胸騒ぎがおさまらない。
「ねぇ、何かある」
ふと綾音が底の方を指した。
連なるものの下から顔を覗かせる白い何か────引っ張り出してみると、封筒だった。
白色無地で装飾のないシンプルなそれは、だけど、明らかに異質な存在だった。
表部分に記された“遺書”という言葉のせいで。
「遺、書……?」
どくん、と心臓が沈み込んだ。
胸騒ぎが増長し、棘を持って内側から圧迫してくる。
封のされていないそれを開くと、中には便箋が一枚だけ入っていた。
それを持つ手がわずかに震える。
お兄ちゃんへ、と若槻に宛てられた手紙。
切迫した感情のまま慎重に文字を追う。
────“まずはごめんなさい。この選択がお兄ちゃんを悲しませることになるって分かってるけど、わたしはもう限界です”
いじめを苦に自ら死を選ぶこと、これまでの感謝と兄に対する謝罪、そんな言葉が並んでいた。
何箇所もインクが滲んでいて、きっと泣きながらしたためたのだろうと推測できる。
だけど、そこから先には不可解と言わざるを得ない文章が続いていた。
────“まどかちゃん、ごめんなさい。先に死ぬから許してください。お願いします。ごめんなさい。あのことは秘密にしてください。ごめんなさい。許して。本当にごめんなさい”
そこにある“まどか”がわたしを指していることは、若槻の態度や兄の言葉を思えば間違いなかった。
本当に、過去のわたしは若槻結菜と知り合いだったんだ。
「……円花」
兄がわたしを見やる。
わたしは手紙に目を落としたまま顔を上げられない。
(どうして……何も覚えてないの?)
こんなに必死に謝られるような何かがあったはずなのに。
彼女が自殺を図るほどの出来事が、確かにあったはずなのに。
────そこまで考えて、うっすらと過去の断片が脳裏を掠めた。
放課後の帰り道。
わたしは誰かと一緒にいるけれど、記憶としてあてにならないほど、砂を撒いたように不鮮明だ。
「まさか……円花が、この子をいじめてた、とか」
控えめながらはっきりと、綾音が口にする。
揺れ動いていた空気を割るように響き、波のような感情が心をまるごとひっくり返す勢いで押し寄せてきた。
「ち、ちがう! わたしじゃない……!」
顔から、全身から血の気が引いて、青ざめた肌が粟立った。
どく、どく、と早鐘を打つ心音が耳元で聞こえる。
「……でも、覚えてないって言ったよな。なのにこれだけは否定するって都合よくないか?」
ざわ、と胸の奥底が抉れて剥がれ落ちる。
反論の余地もない。
とても受け止めきれない中、ふたりから向けられた疑いの目が突き刺さってますますうろたえる。
「ちがう……」
ふるふると弱く首を振った。
わたしじゃない。わたしはいじめてなんかいない。
だって、そんな記憶ないから。
でも、それは無実や潔白を証明する根拠にはならない。
ついさっき思い知ったことだ。
わたしの頭の中に結菜の存在はなかったはずなのに、蓋を開けてみればこうして知り合いだった。
どちらかにしか残っていない記憶が妄想と変わりないのなら、わたしのこの叫びだって、思い込みと大差ない。
『……まあ、やられた側は覚えてるけどやった側は覚えてない、ってよく聞く話ですもんね』
ふいに蘇ってきた菅原くんの言葉に動揺してしまい、思わずあとずさる。
「円花!」
兄の声が耳を通り過ぎる。
たまらなくなって、気づけば玄関のドアを押し開け外に飛び出していた。
◇
追いかけるように足を踏み出しかけた涼介の腕を、とっさに掴んで綾音が引き止める。
黙って首を横に振った。
「何で」
「……いまは追いかけたってしょうがない。あたしたちも円花自身も、本当のことを知らないから」
自分たちが円花を信じきれず、また円花も自身を信じられず、話をしたところで平行線をたどるだけだ。
あるいは感情的になって収拾がつかなくなるだけ。
綾音は落ちていた結菜の卒業アルバムを拾い上げ、掲げてみせる。
「だから、これ。これも」
「え?」
ダンボールの中から一台のスマホを取り出した。結菜の使っていたものだろう。
割れた画面は蜘蛛の巣が張っているように見えるほどだが、充電器に挿し込んだところ、バッテリーのアイコンが表示される。
充電自体はできているようだ。
「あたしたちも手がかりを探そう」
毅然と言ってのける。
簡単に惑わされていたら、きっと優翔の思うつぼだ。綾音はそう思った。
物理的に手を下すことも厭わないみたいだが、それだけが復讐ではないだろう。
円花を陥れたり孤立させたりすることも、狙いのうちかもしれない。
「……分かった」
かくしてスマホの充電を待つ間、綾音は卒業アルバムをぱらぱらとめくった。
若槻結菜の名前と写真の載っている、クラスごとの個人写真のページで手を止める。
「……こうして見ると似てる。優翔くんと」
「確かに。目元の雰囲気とか」
「円花と涼介さんはあんまり似てないけど、いい兄妹だなぁって思うな」
「そう? 円花は割と反抗的だし、俺のこと嫌いなんじゃないかな」
綾音は「そんなことないよ」と即座に返す。
「あれは甘えてるんだよ。円花って、完璧にこだわるあまり、外では誰にも弱み見せられないから……。本当は辛そうで、痛々しいなと思ってたんだけど」
「……うん」
「涼介さんと一緒にいる姿見て、なんていうかほっとした。決して“いい子”でも“完璧”でもないかもしれないけど、唯一気を抜ける相手だと思ってるんじゃないかなぁ」
虚をつかれたように涼介は言葉を失う。
そんなふうに考えたことなど、これまで一度もなかった。
「あたしも円花にとってそんな相手になれたらいいな。……なんて」
少し照れたように綾音が笑う。
なれるよ、なんて気安く返すことはできなかったが、実際そうなりつつあるのではないだろうか。
入れ替わったことで余裕を失ったせいか、円花は綾音に対しても随分気を緩めて接するようになった。
けれど、それは必ずしも悪い変化ではない。
そもそも完璧がいいなんて考え自体、円花が自身にはめた重い枷でしかないのだ。
あるいは大きな檻────自分でつくった檻の中に閉じ込められて、出られなくなっている。
「ん……?」
再びアルバムに目を落としていた綾音が眉を寄せる。
はたと涼介の意識も現実へ引き戻された。
「どうかした?」
「これ……」
綾音は信じられない気持ちでそのページをまじまじと眺める。
クラス写真の中に、予想だにしない人物を見つけた。
◇
我に返ったとき、わたしは家の前にいた。
“茅野”と表札の掲げられた洋風の一軒家。
見慣れているはずなのに、何だか久しぶりで懐かしい。
(いつの間に、ここに……)
自分の内側に気を取られるあまり、まるで周囲が見えていなかった。
いまのわたしがここへ来たって、居場所なんかないのに。
「……あ」
ふと聞こえた声の方を向くと、足を止める若槻の姿があった。
きっと病院の帰りだ。そこに鉢合わせてしまったみたい。
見た目はわたしでしかないのに、その顔を認識した途端、結菜ちゃんと重なった気がした。
病室で見た彼女の姿、あの箱に詰められた過去の片鱗が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
濁って、渦を巻く。
「ごめん……なさい」
ひとりでに言葉がこぼれ落ちていった。
「……え」
「クローゼットから見つけたの。結菜ちゃんのもの」
少し目を見張った若槻は、それから「ああ……」と顔ごと背ける。
眉根にきつく力を込めている割にゆらゆらと瞳が揺れていて、怒っているようにも戸惑っているようにも見えた。
「ごめん……。謝って済むことじゃないけど、結菜ちゃんにも謝りたい。謝り続ける。聞こえてなくても、それ以外に償う方法が分からない」
泣きそうになって、声が震える。
過去をはっきりと思い出せてはいない。
あの曖昧な記憶の断片のほかには、結局何も蘇ってこなかった。
ただ、状況証拠から“いじめ”に結びつけ、わたしが彼女を追い込んだんじゃないか、と推測したに過ぎない。
けれど、きっとそうなんだ。
“やった側”が無責任にも覚えていないだけで。
「同じ目に遭えって言うなら、甘んじて受け入れる。結菜ちゃんの代わりに、あんたの気が済むまで痛めつけてくれていいから。いまさら反省したって遅いのに……いまさら気がついた。最低だね、わたし」
うつむいて落とした視線の先が歪む。
唇を噛んでもこらえきれなかった涙が落ちていった。
泣く資格すらないのに、これは何の涙なんだろう……。
「……とりあえず、入りなよ。きみのうちだけど。そのみっともない顔で出歩かれても困るし」
頭ごなしに激しく罵られることも覚悟していただけに、その声は意外と冷静で優しく聞こえた。
そのことになぜかまた涙があふれてしまうと、若槻は前が見えなくなったわたしの腕を引いてくれた。
「涼介さん、出かけてるみたいでよかった。こんな状況見たら面倒なことになりそうだったから」
────部屋へ着いた頃には少し落ち着きを取り戻していた。
脱ぎっぱなしの服や置きっぱなしの教科書で散らかっているのが気にかかるくらいには。
ベッドに腰を下ろす若槻に対し、わたしはドアの前から動けない。
自分のしたことを思えば、土下座しても足りないだろう。
対等じゃない、という彼の言葉が頭の真ん中に居座る。
ようやく自分の立場を理解した。
若槻の抱えてきた恨みも、憎しみも、悲しみも、痛みも、そのすべてに疑いの余地はなかった。
苦しいほど胸を締めつけてくる。
「…………意外だった」
長く落ちていた沈黙を若槻が破った。
重くまとわりつくようだった空気が少し薄くなる。
「きみがそんなふうに……素直に認めて謝ってくるなんて」
わたしの言葉をどう受け止めるべきか分からない、という戸惑いが覗けた。
冷静というより、怒るにしても罵るにしても、まだ事態を掴みきれずに、感情が置き去りになっているだけだと分かった。
「……本当は、思い出せたわけじゃないんだ。ただ、あの遺書を見たら……」
そのことは、黙っていれば許された可能性はある。
だけど、そんな卑怯者にはもうなれなかった。
たとえ許されなくても、正直に向き合うことだけが、彼にできる唯一の贖罪だ。
ややあって、ふ、と若槻が笑った。
鼻先にかけるような冷たい笑い方だった。
「……なんだ。やっぱり、きみにとってはどうでもいい過去なんだ」
その瞳に捕まった瞬間、逸らせなくなった。
笑っているのに、目の奥には強い感情が滾っていて、逃がしてくれない。
「それどころか汚点……だから、頭の奥底に閉じ込めて、なかったことにしてのうのうと生きてる。いくら取り繕ったって、過去は消えない。完璧になんてなれるわけがないのに」
若槻が立ち上がった。
この状態ならわたしの方が背が高いはずなのに、まるで高いところから見下ろされているような気がした。
非難と蔑みと呆れと、怒りと憎しみと嫌悪……込められたものがあまりに深く鋭くて。
「思い知ったでしょ、小谷さんに言われて。きみのすべては虚像だったんだよ。ひとりよがりで無意味な幻想」
────友だちだと思ったことなんか一度もない。
あのとき並べ立てられた綾音の台詞はあくまで演技だったとはいえ、返す言葉もなかった。
わたしは完璧で、欠点なんかなくて、だからほかの誰より優れていると信じていた。
輪の中心にいるのは当たり前だと思っていた。
若槻の言う通り、すべて虚像だったのに。
わたしには「いま」しか見えていなかった。
過去なんて過ぎたことで、封じ込めて忘れてしまえば無関係な“通過点”でしかなくて。
汚点、というのは言い得て妙な言葉だった。
そう思っているからこそ、わたしは過去から目を背け続けてきたんだ。
若槻に出会わなければ、入れ替わらなければ、そんなことはきっと考えもしなかったし、思い出す気にもならなかった。
見たくないもの、向き合いたくないことから、ずっと逃げてきた。
ぜんぶ、自分のためだけに。
「ごめん……。ごめん……っ」
必死に絞り出した声は詰まって掠れた。
喉の奥が締めつけられて、目の前が揺らぐ。
泣いている場合じゃないのに。
何度口にしても足りないこの言葉を、それでも伝え続けなきゃならないのに。
「……いい、もういいから。それ以上は」
若槻に遮られても、涙が止まらない。
震えるほど不安定な呼吸を繰り返すわたしを見かねて、箱ごとティッシュを差し出してくれた。
何枚かまとめて取り出したそれを鼻に押し当てる。
視線を背けたままの“わたし”を見つめた。
憎いはずのわたしの言葉を聞く気になったのは、わたしが彼の容貌をしていたからかもしれない。
いずれにしても、わたしはあまりにも弱くて自分勝手だ。
ぜんぶ若槻の言う通り。
いくら“完璧”を取り繕ってみても、中身が全然伴っていない。空っぽなまま。
現に中身が別人になっても、ほとんどの人は気づいていない。
それくらい、わたしという存在は曖昧で無価値。
完璧な人気者、なんてレッテルはただのうぬぼれだったと証明された。
「正直────」
視線を宙に彷徨わせながら、若槻がぽつりと口を開く。
「自分でも自分の感情がよく分からなくなった」
言葉の通り、その声色からは困惑が滲み出ていた。
「きみには、情けない泣きっ面で謝られても気が済まないだろうと思ってたのに。いざそうなったら……何か、気が抜けて」
わたしもつい肩から力を抜いた。
拍子抜けとはいかないまでも、若槻からあらゆる恨みつらみをぶつけられる気配がなくて、ひとまずほっとしてしまう。
「許せるかどうか、って聞かれたら、やっぱり許せないって気持ちが強いけど……。ただ、結菜があんなことになる前に何もできなかった。気づけなかった。それは確かに僕の責任でもあるから」
「若槻……」
「……兄失格だよ。ずっと、後悔してる」
自嘲気味に浮かべられた儚い笑みに口をつぐむ。
彼のわたしに対する恨みの裏側、いや、側面には果てしない後悔の念があったみたいだ。
「……っ」
胸が痛む。じわ、とおさまったはずの涙が滲んでくる。
内側の痛覚までもが共有されているわけじゃないはずなのに。
「……ああ、もう!」
手の甲で目元を拭った。
クリアになった視界に、意表を突かれたような表情の若槻と、脱ぎ捨てられたカーディガンが飛び込んでくる。
「ちゃんと片づけて、綺麗にしてよ。わたしの部屋なんだから」
間が持てなくなって口をついたのは、自分でも意図していない文句だった。
突然、何を言ってしまったんだろう。
こんなことを偉そうに言える立場じゃない、彼を怒らせたらどうするんだ、と即座に悔やんだけれど、意外なことに若槻は笑った。
眉を下げながらも気を緩めたような笑い方。
先ほどまで見せていたそれとは明らかにちがう。
「気が向いたらね。女の子の部屋は複雑で難しいから」
「……何それ」
適当な言い訳をしながらも、カーディガンをはじめベッドの端や椅子の背に放置していた服を回収していく若槻。
────許されたわけでは、きっとない。
仲良くする気もないだろう。
元に戻る気配も相変わらずないし、過去だって不確かなまま。
何が変わったわけでもないけれど、昨日より一歩だけ前へ進んだような気がする。
彼と分かり合う未来なんて最初から期待していない。
それでも、今日の選択を後悔することはないだろう。
散々傷ついて、傷つけたけれど、不思議と嫌な気はしなかった。
服をハンガーにかけるため、クローゼットを開ける。
そのとき、ふとチェストの上に置いてあるものが目に留まった。
ビニール袋に入っている、白色の靴下。
中学校の校章の刺繍が施されている。
「これ……」
「ああ、忘れてた。聞こうと思ってたんだ。それ、きみの?」
ビニール袋ごと手に取って何気なく裏返した瞬間、衝撃に心臓を貫かれた。
褪せてはいるけれど血まみれだ。
若槻の口にした“それ”が単に靴下のことではなく、この血を指しているのだと気がつく。
「どうしてこんなものがあるの?」
声が耳元を通り過ぎていく。
血に釘づけになったまま、身体が動かなくなった。
全身が小さく震える。悪寒の這った肌が粟立つ。
「……っ」
「茅野?」
不安定な呼吸が浅く速くなっていく。
瞬きを忘れた瞳がゆらゆらと揺れるのを自覚した。
割れるような頭痛が響く。
たまらず袋を取り落として頭を押さえると、目眩を覚えてたたらを踏んだ。
不鮮明だった記憶の断片がどこからかあふれ出し、繋がっていく────。
(……思い、出した)
過去を頭の奥底に封じ込めた本当の理由。
覚えていなかったわけでも、思い出せなかったわけでもない。
忘れたくて忘れたんだ。
あの頃のこと。結菜とのことも、ぜんぶ。
「わ、たし……」
ひび割れた声がこぼれ落ちる。
────あのことは秘密にしてください。
遺書に記された一文が直接頭を殴りつけてくるようだった。
許されないことを、した。
“あのこと”が指す当時の光景が蘇ってくると、ふっと足から力が抜ける。
「茅野!」
混乱しながらもとっさに支えようとしてくれたのだと思う。
若槻の手が背中に回された。
だけど、非力なわたしの身体では、彼自身を支えきれなかった。
一緒に崩れ落ち、床に膝をつく。
「急にどうした……? おい、茅野────」
その腕の中におさまりながら、余裕のない若槻の声を聞いた。
視界が霞み、音が遠のいていく。
触手のような黒い影に視界が覆われていき、わたしは意識を手放した。