第07話 再び雨は降り始める
――――、――――。
――――――。
――――瞼を開くと、視界の先にはどこまでも続く黒い雨雲が広がっていた。
やけに涼しい風が頬を撫で、この世界に自分が存在していることを教えてくれる。只々天高くで生まれただけの雨粒が、再び地に落ちて星の中を循環するように。私も今この場所に生きて、この世を流れる大きな波の一部であることを自覚していた。
――あぁ……私は今、この場所に生きている。
「……あ…」
空を見上げ、頬けていた。
するとどういう訳か、開いていた口の中に冷たい何かが入り込んだような感覚に陥る。それは一度か、あるいは二度か。ともかく、その冷たくまるで柔らかい針に刺されているような現象に私は徐々に自身の状態を思い知った。
気持ちいい風に当たり、身体が雨水に晒されている。けれどもそれから逃れる為に被った布が、自分を覆いながらゆらゆらと棚引いていた。またその水面下ではとくん、とくんと蠢く赤黒い塊が何かを送り出し、それが私の全てに巡っている。血液が流れ、脈を打ち、私は生を実感する。
「…う……」
――が、それは少しずつ、少しずつ強くなっていく。
生きていることを自覚した私は、段々早くなる血流の巡りや脈拍をも理解する。ほぼ無の状態であった呼吸も交換する機会が増え、乱れていった。視界がグラグラと揺れ始めて、変な頭痛が頻りに私を襲う。身体が妙にビクついて強張り、嫌な汗を滝のように流していった。
「――ハァ、ハァ……ハァ、ッハァ。ハァ……!!」
一度勢いを増したそれらは、簡単には止まらない。強い立ち眩みが襲って、ふらふらと足元がおぼつかなくなる。ただ立っていることも出来なくなって、過呼吸を引き起こした私は地面に崩れ落ちた。街の通りで人目も気にせず、頭を抱え蹲る。
それでも、あの記憶が瞼の裏から消えてくれなくて、私は世界を呪った。
「……なっ、んで……わたし、生きて……」
もはやどうして漏れ出すのかもわからない涙と嗚咽を噛み殺し、私は訴える。視界が歪み目元が熱くなるけれど、身体は嫌に凍えるほど寒かった。何故、どうして、こんなことに……そんな疑問だけが只々湧いて、私の制御を抜けていく。
けれど、それを親切に答えてくれる神すらも何処にもいない。
……そうして、暫くしないうちに。
私はホーロスの街の通りの真ん中で、再び意識を失った。
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またしても目を覚ますと、今度は見知らぬ天井が見えていた。
木とレンガで作られている、少し古い時代のもの。しかしそれが見えている以上、私は今自分が横になって寝ていることを理解する。背中から伝わる硬い感触が、その事実をより確かなものへと証明していた。
――そして、その現状に私は酷く嫌な予感がして力の限り跳び起きた。
「…ッ!!……また、あそこにッ?!――――――な、なんだ……違った」
勢いよく上体を起こし、周囲を確認した私はホッと安堵の声を漏らす。知らない天井、固く冷たい台座、その二つが意味するのは地獄である。……そう、地獄。私の心に永遠の傷を残した、忘れがたき苦痛の記憶。
「……っ…」
その事実を思い出して、私は途端に身体が震えた。がたがたと上と下の歯をぶつけ合って、自分の身を寄せる。あの恐怖が、痛みが、苦しみが、未だに私の心を蝕んでいた。
「なに……何だったの、あれ……」
気持ちとしては少し前か、或いははるか昔の記憶か。ともかく、私は何者かによくわからない空間に飛ばされ、そしてそこで焼き殺された。理解し難い事実ではあるが、それでも私自身が自分の実体験としてそれが真実であることを証明している。私は、生きたまま焼かれた……にも関わらず、その記憶を持って今この世界に存在しているのだ。
「し、死んだはずなのに、生きてるなんて……」
自分の死の記憶が、こんなに苦しいものだなんて思いもしなかった。否、本来であればそんな記憶を持っている人など居る筈がないのだ。人間は皆、いつかは死ぬ。そして死んでしまえば、少なくとも当人の意思はそこで終わる。終われる。
しかし、今の私はその記憶を持っていた。そして無論、それ以外の思い出も。
「……あの、文字さん……いや、文字は言ってた。私に罰を与えるって」
本当は思い起こしたくもないあの瞬間を、私は脳内に映し出す。あの時、光る文字は言っていた、『お前は間違いを犯した。……間違いには、罰を与える』と。この場合の間違いとは、恐らくその前に示されていた『逃げるな』という指示に私が背いたことを言っているんだろう。そして、その罰が……あの、火であるわけで……。
「ウ˝ッ……」
その光景を再び思い出して、私は反射的にえずく。
結局、あの文字は何がしたかったんだ。私に何をして欲しくて、私をどうしたかったのか。ただ苦しめる為に私を殺したのか、それとも逃げるなという命令に背いた私への腹いせか……いずれにせよ、タチが悪い。どんな理由があれ、私はヤツを許せない。あの悪意に満ちた光る文字……いや、”悪字”を。
「…あっ……そう言えば、私の姿……パンドラに戻ってる」
戻っている、と表現して正しいのかはさておき、気付けば私の姿かたちは再びパンドラのものになっていた。衣服類も当然の様に、無駄に元の私より大きい胸もそのままである。重くて邪魔。
しかし、ともかく私は戻っていた。パンドラに、そして記憶が正しければあの場所で殺されて最初に目を覚ましたのはホーロスの街の中だったはずだ。雨雲を見上げながら、雨に打たれていたのを微かに覚えている。
「……じゃあ、ここも……街の中、なのかな……?」
硬い木製のベッドの上で目を覚ました私は、再度周囲を見渡した。
そこは、パッと見小さな小屋の中の様だった。窓は無く、木の机やイスが置かれその上には一本のろうそくが炊かれている。壁が薄いのか、微かに壁の向こうから人の声などの喧騒が聞こえて、凡そある程度人の通りがある場所の近くであることが分かる。また、気絶していた最中に私が自分で剥いでしまったのか、近くにはぐしゃぐしゃになった大きな布が一枚落ちていた。ということは、もしかして街の通りで倒れてしまった私を誰かが助けてくれたということだろうか。
「――おや!お嬢さん、起きたのかい?」
私がそんなことを思っていると、突然部屋の扉がガチャッと開いた。そのことに一瞬ビクっとなって驚いていると、開いた扉からぬっと見覚えのあるおじさんが現れる。あれ、この人って確か……
「あっ……おじさんは確か、門で会った衛兵さんの……」
「おぉ、そうじゃよ。さっきぶりじゃな」
部屋に入って来たのは、私がホーロスの街に入る際にお世話になった老兵の門番であった。ということは、ひょっとして気絶して倒れてしまった私をここまで運んでくれたのはこの門番のおじさんということだろうか。
「あ、あの……おじさん、もしかして私の事助けてくれたんですか……?」
「ああ、そうじゃよ。ここに運び込んだのは別の若い連中じゃが、お嬢さんを見つけたのはワシじゃ。びっくりしたぞ、街に入って早々何やら上を見上げてるかと思いきや、突然倒れよるんだから……ほれ、水じゃ。飲むか?」
「……ん?」
私を助けてくれたらしいおじさんは、そう言ってこちらを気遣ってくれていた。手渡そうとしてくるのは木のコップに入った、一杯の水。水面がゆらゆら揺らめいて、喉の渇きを癒そうと中でうねっている。
……しかし、その優しさに対し門番の話を聞いた私は呆然としてしまっていた。
おじさんはさっき、私が『街に入って早々に倒れた』と言っていた。でも、私の記憶上ではそんなことはありえない。私は街に入った後、直ぐにノモセ食堂に向かったはずだ。そこで初めてフィレーナさんと出会って、そこからは彼女にホーロスを案内してもらっていた。
だから、私が街に入って早々倒れるなんて自体は起きているわけが……。
「――あっ……そうだ、フィレーナさん……!」
混乱していた脳内を少しずつ整理していく中で、私は最も大事な存在のことを思い出す。そうだ、そう言えば私、フィレーナさんを丘の上に置いてきてしまったんだった。
「お、おじさんっ!大変なの、街に魔物が……フィレーナさんがっ!!」
自分には果たせばならない使命があったのだと、私はベッドから飛び起きる。そして水を渡してくれていたおじさんの手を無視して、急ぎ早に迫った。
「な、なんじゃ突然っ」
「い、いいから、早くっ!街の丘に魔物が出たの、直ぐに助けに行かないとフィレーナさんがっ!」
「ちょ、ちょっと落ち着きなさいお嬢さん、一体何お話じゃ……お前さん、もしかしてあの子の知り合いなのか?フィレーナならついさっき、丁度ここを立ち寄ったばかりじゃぞ」
「……えっ……?」
冷静さを取り戻すよう促してくるおじさんに、私は構わず飛びつき体を揺さぶった。しかし、そんな自分を諭すように門番さんは口を開く。しかもその事実は、私にとってとても無視できないものであった。
ついさっき、フィレーナさんがここに来たって……どうやって。恐らくだけど、彼女は今も丘の上であの魔獣と戦っているはずなのに……?
一体、どういうこと?もしかして、フィレーナさんが突然いなくなった私を心配して自力で逃げ出してきたとか……?
「お、おじさん……その、さっきフィレーナさんに会った時……何か焦った様子は無かったですか?誰かを探していたとか」
「んー?……特に、そんな感じは無かったと思うぞ。いつも通りのあの子じゃった」
私の質問に答えてくれたおじさんの反応を見て、こちらは益々混乱した。他の衛兵を呼ぶためか、或いは居なくなった私を探す為か、そのどちらの目的を持ってここを訪れたとしても彼女が平時通りの振る舞いをしていたという時点で話はおかしくなってくる。それに、街の中に魔獣が現れたという話を私がしたとき、おじさんはまるで何の話か分かっていないようだった。あの時のフィレーナさんの発言的に、ホーロスで魔獣が出ることはよっぽどの事態らしいのに……。
「……なに……何が起きてるの……」
こちらの現実の世界と言うべきか、ともかくあの白い空間から戻って来てから何かがおかしい気がする。私が目を覚ました場所も、門番のおじさんの発言も、そしてここに来たらしいフィレーナさんの行動も。全てが私の知る事実とは異なっていた。
……もしかしたら、何か私の想定できていない事態が起きている可能性がある。
「確かめないと……!」
意識を取り戻してから暫く経ち、ようやく心と頭が落ち着いてきた私はそう思い立つ。あの悪字のことは許せないし、もし次に見るような機会があれば文句の一つでも……いや、やっぱりもう見たくない。
ともかく、それでも私は何か知らなければいけない事実があるような気がするのだ。それを確かめるまでは、おちおち家に帰ってなんていられない。
「すみません、門番のおじさん。私行かないといけないところがあるので失礼します……あっ、そう言えばまだお礼を言ってませんでした!助けてくれてありがとうございます」
急いで部屋を出ようと、私はおじさんにそう言って扉の方に走った。しかし途中でまだお礼すら言えていなかったことを思い出し、流石に後ろを振り返ってぺこりと頭を下げる。
「ほほっ、気にすることは無いよお嬢さん。それよりもう行ってしまうのかい?まだ休んでいた方が良いんじゃないのか」
「いえ、もう大丈夫です。先を急ぎますので……あ、度々すみません。もし良かったらフィレーナさんがここに来た後どこに行ったか知りませんか?」
「む?あの子ならいつもの見回りのついでに寄っただけじゃから、今度は北門に向かったんじゃないかの?……本当についさっきここを出たばかりだから、もしかしたら追いつけるかもしれんな」
「本当ですかっ!ありがとうございます!私行きますねっ」
何が起きたのか確かめるためには、彼女に会うのが一番手っ取り早いだろう。見回りのついでに立ち寄ったというのが少し気になるけど……とにかく、ここを出て来たに向かえばいい。街の北側と言えば街役場や衛兵の詰め所があった方向だから、大体わかる筈。
「……あれ?そういえばここって、結局何処なの?」
「ほっほっほ、お嬢さんはせっかちじゃのう。ここはさっきお嬢さんと出会った西門のすぐ側の小屋じゃよ。本来ここはわしら門番の休憩所として使っててな」
「えっ!そんなところに……お邪魔してすみませんでした」
「いやいや、気にすることは無い。それよりも北門に向かうならごちゃごちゃした道を通るより、ここから真っ直ぐ行って噴水のある広場を通ってからの方が早く着くと思うぞ。次期に雨も止むだろうし、気を付けて行きなさい」
え?雨?……雨なら確かに少し前まで降ってたけど、フィレーナさんと丘の上に着いた頃には止んでたよね?また降り始めたってこと?――あれ、でも待って。確か私が表の通りで意識を取り戻した時、外では”雨が降っていた”ような。
「……その辺も含めて、確かめないとね。……おじさん、本当に色々ありがとうございました。このご恩はいつか必ず返します!」
私は最後にそうとだけ言って、小屋を飛び出した。そこは思っていたよりも簡易的な休憩所だったようで、一枚の薄い扉をくぐっただけですぐに表へと繋がる。おじさんの言っていた通り外はまだ僅かばかりの雨が降っていて、けれども空を見上げればもう間もなく雨が止むであろう頃合いであった。
「――あっ……そう言えば、フード……」
屋外に出て上を見た際、視界の端に布が映ったのを見て私はようやく思い出す。そう言えば、フィレーナさんが私の角を見て『魔族だ』って言ってたっけ。彼女の話じゃ、人間と魔族は遥か昔から争ってきた仲だって言ってたけど……ということは、いやてか絶対、フィレーナさんの時みたいに私の角を誰かに見られたらマズいだろう。門番のおじさんも、アクセサリーの露店の店主さんも、私を見て魔族かもしれないって疑ってたしね。
「私が通りで倒れて、おじさん達が小屋に運んでくれた間ずっとフードを被ったままだったんだ……不幸中の幸いかも。ちゃんと隠しておかないと」
色々確かめたいという時に、周りから余計な疑いをかけられることだけは避けたい。少し仲良くなれたフィレーナさんですらあの慌てようだったのに、他の見知らぬ誰かに見られたらそれこそ衛兵を呼ばれる事態になってしまうだろう。
まだ、魔族とか魔獣とかよくわからない事ばっかりだ。
でも、まずは彼女に会うことが一番な気がする。私にたくさん優しくしてくれたあの人にまた会って、そしてちゃんと話をしたい。……今度は、本当の自分の事も。
私はそう思って、小雨の降る中北門を目指しホーロスの街を駆け出した。
悪意のある光る文字=悪字。