第05話 魔族の友達
商店街を抜け、私はフィレーナさんに更なる場所を案内されていた。
「……この辺りは旅人や観光人向けの通り、酒場や宿が多いかな。もし今日の宿に当てが無いならいい場所を紹介するよ」
次に訪れたのは商店街から見て二つほど隣の区画。ここには食事処や酒場と一緒になった宿屋が多く集まっており、自然と街の外から来た人の割合が多くなるらしい。と言っても街の人も当然利用するので、初見の私には細かい見分けなどはつかなかった。
ただ、食堂はともかく酒場の殆どは夜からの営業らしい。また繁盛期という訳でもないらしく、宿を取るなら夜に直接行っても大抵は部屋が空いているとのこと。というわけでここではあまり滞在せずに、次の場所へと向かった。
「……次はここ、この街の役場だよ。退屈なところだけど、何か困ったことがあればここに来るといいかな。……あと、あそこに併設されているのが僕の職場でもある衛兵の詰め所さ。宿舎や訓練場もあって、同僚も気の良い人ばかりだよ」
噴水のあった広場を更に進み、この街の中央ちょっと北側。街を身体で例えると脳や心臓と言った重要な器官に該当する場所である、街役場。またその隣には衛兵の詰め所があり、そこはフィレーナさんが普段仕事に従事している所であった。
確かに彼女の言う通り、只の旅人にとってはたいして楽しい場所でもないだろう。けど、迷い人である私にとっては正しく今すぐ尋ねなければならない機関と言えた。後でまた一人で来てみようかな。
そして、最後に訪れたのは最も面白みがなく、されど何故かとても心が落ち着く場所であった。
「……最後に、ここが住宅区。名前の通りこの街の住人が多く住んでる場所だよ。奥には井戸や畑もあって、その近くには教会があるんだ。僕は宗教に熱心というわけでも無いけど、偶にお祈りしに行ったりしてるよ」
そこは石壁の内円付近や、主に東側全域を占める住宅地帯。この街に住む大半の人々の住まいがここにあり、真の意味での生活基盤を宿している。また近くには街の外にまで続く広大な畑と、住民の心の拠り所という役割を担う教会があるとのことだった。
……。
…………。
………………。
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粗方の街の案内が終わり、私とフィレーナさんは住宅区の近くにあった小さな丘を訪れていた。そこは街をある程度見渡せる場所で、簡易的な木の策に囲われている。またその真ん中に大きな一本の木が立っており、ちょっとした公園か広場のようになっていた。
「いつの間にか雨も上がっていたようだね。それなら、少しここで休憩していこうか」
そう言ったフィレーナさんは、眼下に広がる街を眺めていた。彼女が連れて来てくれたこの小丘は、地形の関係上空気が流れやすいのか程よい風が吹いている。生憎雨上がりということで地べたに座ることは叶わなかったが、逆に立っているからこそ感じられる風があって、凄く気持ちがいい。
「風が気持ちいい……いい場所ですね」
「そうでしょ。僕がこの街で一番好きな場所なんだ。悩み事があったり、少し疲れてしまった時なんかには一人でよくここに来る。家も近いからね」
「あれ?フィレーナさんのお家ってこの辺なんですか?さっき衛兵の詰め所に行った時宿舎があると言ってたので、てっきりそこに住んでるんだと思ってました」
「ん?あぁ、実は僕はこの街の生まれでさ。一度この街を離れてたんだけど、色々あってこっちに戻って来たんだよ」
少しだけ身の上の話をする彼女の表情に、陰りは無かった。……されど、少しだけ寂しそうに話をしているように見えたのは私の気のせいだろうか。
「……僕には足の悪い父がいてさ。まだそこまで心配するような歳では無いんだけど、なにぶん不自由な生活には変わりなくて。心配性の僕は周りの制止を振り切って、父の面倒を見るためにこっちに帰ってきちゃったんだ」
「……フィレーナさん……」
決して表情を崩さず、フィレーナさんは澄んでカッコイイままであった。だが、それが逆に憂いていて、少し痛々しい姿に感じられる。
優しい彼女の事だから、父が心配でホーロスの街に帰って来たというのは本当のことなんだろう。しかしそれと同時に、元々居たその場所から離れるべきかと葛藤したのかもしれない。そして本人の様子を見る限り、凄く悩んだ末に親の下に残るという選択をしたらしい。……それを、自分の性のせいにするフィレーナさんはとても強い人だと思った。
「あっ、ごめんね。暗い話をしたつもりは無かったんだけど……ただ、残してきてしまったあの子のことが気になってしまってさ」
「……あの子?」
「――いや、この話はよそう。あまり面白い話じゃないし、パンドラとはもっと楽しい話がしたい。大丈夫、当時はともかく今はもうこの現状に納得してるから。……僕は、自分のした選択を後悔していない」
恐らくは本人も無意識のうちに、思わず口をついてしまったのだろう『あの子』という存在。だが彼女は、その見知らぬ誰かについては話したくないようだった。であれば、私はそれにずかずかと入り込むべきじゃない。
勿論、本音を言えば凄く気になってしまった。しかし誰にだって話したくない事や、明かせない過去くらいある。それは優しくて、親切で、とても良い人なフィレーナさんだって同じことだ。なら私は、そんな彼女の気持ちを汲み取りこれ以上聞かないのが優しさというものだろう。今まで散々フィレーナさんには良くして貰ったし、これくらいは当たり前のように返せなければならない。
「……そんなことより、僕はパンドラの事が聞きたいな。思ってみれば、僕まだパンドラのことを名前とここに来た経緯しか聞いてなかったよ」
「えっ?!……わ、私のことって……それこそ、面白くないと思いますけど……」
「そんなことないよ。僕はパンドラの話をもっと聞きたいんだ。例えば好きな食べ物とか、好きな事とか、あとは趣味とかそれ以外にも色々……せっかく友達になれたんだから、僕はもっと君のことが知りたい」
心も、そして物理的にも、彼女は自らこちらに一歩歩み寄ってきた。だが当然の如く、私はそれを拒否するどころか心底嬉しいと思ってしまった。
友達。……なんて、安心する言葉だろう。大変聞き馴染んでいた、日常に溶け込んでいたただの二つの文字の並び。されど、今の私にとってそれはあまりにも心強いものだった。
そっかぁ……フィレーナさんは、私のことを友達だと思ってくれてるんだ……。
「フィレーナさん……本当に、フィレーナさんは優しい人ですね。見ず知らずの私にこんなに親切にしてくれて……」
彼女の優しさに触れ、私はひたすらに思う。この人は、底知れぬほど親切と親愛を兼ね備えた人なのだと。確かに、こんなに良い人街の皆が放っておかないはずだ。見た目は言わずもがな、内面だってイケメンそのものなんだから。
「もう、やめてよパンドラ。そんな風に面と向かって言われると恥ずかしいじゃないか……でも、さっきも言ったけど単なる親切心とは少し違うよ。確かに最初は良かれと思って街の案内とかを申し出たけど、今は君と仲良くなりたいと思ったからこうしているんだ。……ただ住み慣れた街を案内しただけだけど、僕はパンドラといて楽しかったからさ」
楽しかった、と口にするフィレーナさんは笑顔を浮かべていた。キラキラした顔で、少し赤くなった頬で、カッコいいことを言う。されどその表情には、どことなく女性らしい美しさを孕んでいる。
そんな彼女は、私からすれば誰よりも可愛い女の子の様に思えた。
「それは……私も同じです!気付いたら道に迷っちゃってて、右も左もわからなくて……そんな時、フィレーナさんに出会えて本当に救われました。ありがとうの言葉じゃ足りないくらい、とても感謝してます。……二人で街を歩いたのも、すっごく楽しかったし」
「そうか!パンドラもそう思ってくれてたなら、僕も嬉しいよ。……そうだ、パンドラ。今日見てきた中で何処か気に入ったところは無かったかな?もし君が良かったら、また今度一緒に遊びに行こうよ」
フィレーナさんのしてくれた提案に、私の心は更に弾んだ。今回だけに留まらず、また彼女は私と遊びに行きたいと言ってくれている。そんなの、断る理由が無い。私だって、初めて見るものばかりの中フィレーナさんと出会えて本当に楽しかったのだから。
「フィレーナさん……えっと、えっと、そうですね……あっ!それなら私、もう一度露店を見に行きたいです!他にも面白そうなものがたくさんあったので!」
「ああ、確かに。いいかもしれないね。さっきは軽く見ただけになってしまったし」
小さな丘の上の広場で、私とフィレーナさんの二人きり。
雨は上がり、曇天の隙間からは低い日の光がほんのり差し込んでいる。後、もう一時間か二時間か、それくらいもすれば完全に太陽は沈んでしまうだろう。
「あ、そういえばさっきは言わなかったけど、ホーロスでは年に一度街を挙げての大きなお祭りがあるんだ。その時期は街の外からも人がいっぱい来て、あちこち賑やかになるんだよ。勿論さっき一緒に行った露店通りも同じで、さっき以上に活気と人が溢れた場所になるんだ」
「へぇ~、そうなんですね!もしタイミングが合えば是非見てみたいです――」
丘下と、広場を区切る木の柵。そのすぐ傍に立って、私達は対話する。この街で初めて親しくなれた、私の新しいお友達と。
「――わぶっ!」
……そんな幸せな時間の中で、突然風が吹いた。
ここに来てからは一番大きく、空気が揺れ動く。石壁を越え街に入り込んだその流れは、進んだ先で障害となった丘を乗り越えるように吹雪いて。ぶわっと、土埃を巻き込みながら私達を煽り上げた。
「おっと……大丈夫かい?パンドラ。さっきの風は強かった、ね――――えっ?」
空気が乱れ、そして通り過ぎた風は何事もなかったように落ち着く。それは自然における当然の摂理であり、特におかしなところは無い。……だから、ただ強風が吹き少しだけよろけてしまった私を見て、フィレーナさんがそんな素っ頓狂な声を上げることなどあるはずが無かった。
「あっ、はい。大丈夫です。こんな服を着てたからか、少し風に流されちゃって……フィレーナさん?」
巻き上がった土埃が目に入らないように閉じていた瞼を、私はゆっくりと開ける。すると、何故かフィレーナさんはこちらを見ながら固まってしまっていた。バチっと私と彼女の視線が空中でぶつかって、見つめ合う。だが、そんなフィレーナさんはどういう訳か大きく目を見開いて、
――まるで、信じられないものを見てしまったような表情を浮かべていた。
「……パンドラ……君、その頭の……角は」
「あっ……」
瞼を開いてから、妙にクリアに見えた世界。その理由は、今の今まで深々と被っていたフードが外れてしまったからであった。
そして、その結果露わになるのは私の頭に生えた異様なそれ。この街に入った時から色々あって、ずっと布に隠れていた私……否、パンドラの巻き角であった。
「あ、あは、見られちゃいましたか。すみません、別に隠してるつもりは無かったんですけど……そうなんです。実は私、気が付いたらこの姿に――」
故意的にでは無いにしろ、私は今までフィレーナさんに自分の身の上を話していなかった。私の本当の名前は香取千代梨で、日本に住むただの女子高生。だが昨晩家を出た際に意識を失い、気が付けばこんなところに来てしまっていた。しかも、元々の”私”の姿ではなく、パンドラという名前らしきこの女の子の姿に変わってしまったのだ。
そのことを、まずは彼女に話していなかったことを私は謝罪する。そして、とても信じられないだろうけど、それでも真実を話すべきだと思い私は口を開こうとした。
「…ッ!…」
――しかし、それは途中で止めざるを得なくなってしまう。
「え……フィレーナさん……?」
その理由は、フードが外れ素顔を晒してしまった私にフィレーナさんが勢いよく駆け寄って来たから。しかも、さっきまではちゃんと私を見てくれていたのに、今は敢えてそうしているのか頑なに視線を逸らし、そしてただ力任せに私のフードを深く、深く、被せてきた。
「――こんなところで、いつまでもそんなモノを晒さない方が良い。……誰が見てるか分からないかからね」
布地を掛けられたせいで前が見えず、そう言ったフィレーナさんの表情は私には見えなかった。
……けど、もしかしたら今彼女の顔が見えなかったことは幸いだったのかもしれない。
「少し、おかしいなとは思ったけど……そういうことだったのか。どうりでお店の中でも、首飾りをつける時も被り物を外さないわけだ」
彼女から聞いたことも無い、とてもさっきまでと同じ人とは思えない、低く暗い声が響く。私の耳元のすぐ近くで、怒りにも似た何かがそこには渦巻いていた。
「――――パンドラ……君は、”魔族”だったのか」
魔族、その言葉に私は聞き覚えがあった。
フィレーナさんと初めて出会ったノモス食堂で彼女と喋っていた時も、先程露店で会ったアクセサリー屋さんの店主さんも、その単語を出していた。……そして、それは総じて私の知らぬ魔族という存在に対しあまり良い印象を抱いているようでは無かった。特にフィレーナさんは、私を見て『魔族のようだ』と言った店主さんにかなり強めに怒っていたっけ……それだけ、彼女の中でその存在は大きな影響を与えるということなのだろう。
そして今、私はそんなフィレーナさんから”パンドラは魔族である”という疑いをかけられていた。
「あ……あの、フィレ…さん、私は……」
上手く、口が回らなかった。
とても真剣で、深刻な顔をする彼女に私は返す言葉が見つからない。
「……君も知っての通り、魔族とその他の種族は等しく恨み合う関係だ。僕達は長い歴史の中で敵対し、争い、殺し合ってきた……パンドラ、それは僕とキミも同じだ。この街の衛兵として、キミの存在を見過ごすわけにはいかない」
「――あっ……」
鋭い剣幕のまま、彼女は迫ってくる。
綺麗な顔を近づけて、こちらを覗き込んでくる。
――まるで、標的を見定めるように。
「ちがっ……私は……」
本当は、強く否定すべきだった。私は魔族では無い、と。
元々は正真正銘の人間で、ただのどこにでもいる平凡な女子高生なのだと。しかし何の悪夢か、気が付いたらこんな姿になってしまっていただけなのだと……ちゃんと言葉にして、フィレーナさんに伝えるべきだった。
でも、それを言葉には出来なかった。私を突き刺すような彼女の視線、そっと手を添え力強く握られた腰の得物、体を少し折って姿勢を低くしいつでもこちらに飛び込める態勢。全て、私の一挙手一投足に備えている彼女の構え。その何と表現していいかわからない圧力に、私は只震えることしか出来なかった。
「――ごめんなさい……お母さんっ……」
初めて目の当たりにする彼女の姿。そして勢いに私の心には恐怖が湧く。ぎゅっと目を瞑り、意識とは関係なく口をつくのは母のこと。それだけじゃない。お父さんも、お兄ちゃんも、妹も、おじいちゃんもおばあちゃんも、皆々ごめんなさいっ……。
私、ここで、フィレーナさんに――――
「…ッ……やっぱり――――僕には出来ない」
わけも分からない死を覚悟して、小さく蹲るだけの私。
しかし、そんな私を襲ったのは痛みや苦しさなどではなく、小さく呟かれたそんな言葉だった。
「あぁ……ごめん、パンドラ。こんなに怯えさせて……」
それだけじゃない。まるで私を包み込むように、優しく、優しく、抱き寄せられる。
抱き寄せて、抱きしめて、そしてゆっくり頭を撫でられた。
「……フィレーナ……さん……?」
「……はぁ、もう。僕は衛兵失格だ。魔族であるはずのパンドラを見て、直ぐに剣を抜けないなんて……こんなんだから、僕は甘いと怒られてしまうんだ」
私を抱いたまま、彼女は何かを呟く。
今、フィレーナさんが何を考えているのか私にはわからない。しかし少なくとも、彼女の中で理性と感情との葛藤が起きていることはわかる。その結果、魔族であるらしい私を討てないことをフィレーナさんは嘆いていた。
「――パンドラ、今すぐこの街を出るんだ」
少しの静寂の後、フィレーナさんが半歩後ろに下がった。そして私の肩に手を置いて、真っ直ぐこちらを見つめながら言う。……但しそこに、先程までの敵意のような鋭さは無かった。
「大丈夫、街の出口までは僕が責任をもって案内する。……街を出たら、魔族領を目指してひたすら東に進んで。途中魔獣が出る広大な森があるんだけど、構わず走って……っ!もしかして、パンドラはその森を通って来たの……?」
「あ、あの、フィレーナさん……私……」
「……とにかく、急ごう。一刻も早くここを離れないと……もし他の衛兵や街の人に見つかったら、僕は今度こそ君を切らないといけなくなる。でないと僕は、異端者としてこの街を追い出されてしまうから」
静かにも慌てた様子で、彼女は私の手を引く。こちらの言葉には耳を貸さず、急ぎ早に歩み出そうとしていた。
「っ!…待って、フィレーナさんっ!」
「!」
でも、そんな彼女の歩みを私は無理矢理止めてしまった。私の手を取ってくれるフィレーナさんを逆に引っ張って、踏みとどまる足に力を入れる。
「……なんだい、パンドラ。……すまないが、あまり君と悠長に話している時間は無いんだ」
「あっ……えっと…その……」
その場から動こうとしない私を気遣って、フィレーナさんはこちらに振り返る。だが、その額には汗が滲んで明らかな焦燥感を持っていた。そんな彼女に、私は長々と自分の身の上話をする余裕はない。……それでも、私は何かを聞かなければいけない気がした。
「あ、あのっ!……どうして、フィレーナさんは――――私を、助けてくれるんですか?」
色々考えて、行き着いた結論はそれだった。
ずっと優しかったフィレーナさんは、私が魔族であると分かった途端態度を変えた。凄く怒っているようにも見えたし、悩んでいるようにも見えた。でも衛兵として、最初は私に敵意……いや、殺意を向けていた。
でも、何故かフィレーナさんは手を付いた鞘から剣を抜かなかった。それどころか、今私がここに居るのはまずいと街の外に逃がそうとしてくれている。彼女がこの街に居られなくなるかもしれないリスクを背負っているのに、どうして私にそこまでしてくれるのだろうか。
「……僕は昔、魔族に助けられたことがあるんだ。まだ小さかった頃の話だけどね、当時恐らく同い年ぐらいだったその子に僕は命を救われた。……その時から、僕は魔族を恨み切れていないんだ。勝手な話だよね、普段は国の衛兵として魔族と戦っているくせに……君の様に、怯える魔族を見るとどうしても足が止まってしまう」
顔を俯かせ、彼女は語る。自分の過去にあった、魔族との縁を。それがいつまでも付き纏ってしまうからこそ、フィレーナさんは私を切れないのだと語っていた。
「――だから、せめて君をここから逃がす。僕は何も見なかったし、パンドラも自分の正体を晒していない。僕達はただこの街で出会い、この丘で別れた……ただ、それだけだったんだ」
フィレーナさんはそう言って、再び歩き始めた。もうこちらを振り返らず、私を見てくれない。
「……楽しかったよ、パンドラ。……君と出会えてよかった。今日のことは僕の心の中だけにきちんとしまっておくよ」
それでも、彼女は私の手を放さない。後ろ手に私を掴んで、離れてしまわないように道を印してくれていた。……それに、私はただ従い付いて行くことしか出来ない。
――――だが、その歩みは丘の上の広場を抜ける前に再び止まってしまった。
「ッ!?……なっ、なんだアイツは……?!」
私の前を往くフィレーナさんが、突然立ち止まる。そして、広場の入り口付近を見ながら驚きの声を上げた。
「えっ……ど、どうしたんですかフィレーナさん……え」
動かなくなったフィレーナさんを不思議に思い、私は後ろから正面の様子を窺った。
彼女の見つめる先には、街中から少し隆起したこの丘へと続く階段がある。私達はそこを登って、この広場まで入って来ていた。またその周りには広場をぐるっと一周する木の柵があって、それらは転落防止の効果を担っている。
――しかし今、その策を踏み倒しここへ侵入を試みようとする存在があったのだ。
「コオオォォォ――――――!!!」
何と呼称していいのかわからない。
言うなれば、巨大な――――雄鶏。鶏の化け物。
「……なに、あれ……」
ソレを見た時、私も動けなくなってしまった。驚きと、恐怖とが交わる。身体が芯から震えて、なのにダラダラと汗を流した。
「――――っ!逃げ、ないと……!!」
この世界で初めての邂逅。
香取千代梨はその日、生まれて初めて『魔獣』というモノに遭遇した。