第03話 シチュー……いや、スティ。
街に入り、私は立ち並ぶ家々を見上げて目を見開いた。
「凄い……なんていうか、凄く綺麗で……凄い」
語彙力を著しく欠くほどの感動。だが、それも今だけは致し方ないと思えた。まるでおとぎ話の世界に迷い込んでしまったような感覚、石とレンガとで組み立てられた住居が並びそれらが規則正しく列を成している。また血管の様に街中には歩道が張り巡らされており、目立った大通りは全て石造りで舗装されていた。
「子供の頃、こういう絵本の世界みたいなのに憧れてたなぁ……」
幼い頃に憧れた、お姫様が王子様と幸せに結ばれる絵本の世界。きっと、あの場所もこんな感じの城下町が舞台だったのだと思う。この街に城があるのかはわからないけど、それでも一人の少女としてこの光景を前に胸を昂らせない訳にはいかなかった。
「……でも、さっき門を通った時にも思ったけど……車が一台も走ってないんだよなぁ。景観を損ねるにしたって、このご時世に文明の利器を街中で全く見かけないなんてことある?」
パッと見た感じ、この街の風景は中世の西洋文化を再現していると言ったところだろう。だが街中には電線などの文明的なものはおろか、走っている車やスマホ等を持っている人なども何処を見ても存在していない。いくら景観を重視した山奥の街と言えど、この現代にそんなことがあり得るのだろうか。
「わぶっ……上向いてたら雨が口に……取り敢えず、細かいことは後にして先に雨宿りしに行こっ」
荘厳で美しい街並みを再度拝もうと上を見上げると、その拍子に天から落ちてくる水滴のいくつかが口の中に入ってしまった。雨は今のところ更に強くなったということは無いが、それでも防水性の低いローブでは浸水する一方である。色々気になることはあるが、一先ず身体を冷やす前に門番のおじさんに教えてもらったお店に向かうとしよう。
そう思った私は顔が濡れないよう更にフードを深く被り直し、前方に続く一本の大きな街道を走り抜けていった。
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「えと……噴水のある広場に着いたら、左手に……ここかな?」
雨が降る中数分程街路を進み、少し開けた場所で私は足を止める。そこは広場の様になっており、真ん中には丸い大きめの噴水、その周りには木製のベンチやレンガ造りの花壇などが置かれている。雨が降っているというのに、傘もささないでいる人たちがちらほらいるのは何でなんだろう。
また、周囲の状況を粗方確認したところで私はすぐに自分が向いている方向から左側に視線を移した。確かおじさんの話では、広場の噴水を目印にその左手にお店があるという話だったはず。
そして、恐らくはその目的の食堂であろう建物を見つけ、私はそれに近づいた。
「うわぁ、いい匂い……絶対ここだよね。間違いない」
それらしきお店の前に立って、最初に感じたのは温かな優しい香りだった。たぶんシチューか、それに類似した何かだと思う。なんにせよ、一時間ほど外を歩き加えて雨に濡れて冷えきった体にはこれ以上の贅沢は無い。色々聞いて回らないといけないことはあるけれど、まずはこの空腹と冷えをどうにかしないとな。
「でも、一応確認を……げっ、看板の文字が読めない……」
万が一、ここが衛兵のおじさんの教えてくれたノモス食堂ではないかもしれない可能性を考慮し私は建物入口の上部に掛けられていた看板を見上げる。しかし案の定というべきか、私にはそこに書かれている文字が読めないでいた。
「――?……あれ?おかしいな。なんて書いてあるのかわからないはずなのに……なんでか、私にはここに書いてある文字が”ノモセ食堂”だって確信が持てる気がする」
まったく不可思議なその感覚に、私は首を傾げた。
掛けられた看板には、今まで見たことが無い文字?のようなものが書かれていた。しかし、それを見て私は何故かそこに書いてある言葉の内容を理解できるのだ。文法とか、単語がどうとか、そういう細かいことは分からない。でも、今までに習ったことが無い文字であるにも関わらず、私にはそこに書いてある言葉の意味が自信を持って理解できると言える。どうしてだろう……。
「――まあ、いっか。ここがおじさんの言ってた食堂なのは確定だろうし、中に入っちゃお」
少し考えたところで、私は今は答えが出せないと判断し早々に匙を投げる。何故この文字が読めるのかと聞かれても、そんなの読めるのだから読めてしまうのだ。それ以上でもそれ以下でもないし、それに今はその事実はさほど重要ではない。
大事なのは、この美味しそうな匂いに負け私のお腹がさっきから数度悲鳴をあげているということだけなのである。
「あ、中に入るならフードを――?……いや、外さないでおこうかな」
店の扉のノブに手をかけ、それを引こうとしたところで私は自分が雨避けにとフードを深く被っていたことを思い出す。それを流石に店内では外そうと思い、頭の布に手をかけた――ところで、ふと先程と同じような不思議な感覚に陥る。
屋内に入るのだから被り物を外す、それはごく自然なことだ。しかし今の私の身体はそれを本能というか、何かの意思により拒んでいるようだった。例えるなら、まるで誰かとの約束を思い出し決してこのフードを外してはいけなかったんだ、というように。強制的では無いにしろ、願望的にこれを外したくないという感情が湧いていた。
結果、私は不審者の如く顔を隠したまま店内へと続く扉を開くことを選ぶ。
「……あら、いらっしゃい。どこでも好きな席に座っておくれ」
店内に入ると、入って右側にカウンター席。その他の左側には木製のテーブル席が置かれていた。また店の中を温かく照らす照明はランタンを使っているようで、中の細いろうそくの灯がガラス越しに煌々と輝いている。
そして、そんなカウンター席越しでキッチンに立つ女性の店員さんが私を言葉で招いてくれていた。
「あっ……どうも……」
何の意味があるのかわからない程小さな声を発し、軽く会釈を返す。その上で、私は店内を見渡して座るべき席を吟味していた。今が何時頃なのか時計を持っていないので詳しい所までは分からないが、恐らくお昼時は過ぎているだろうお店の中は意外にもお客さんが多かった。複数人が座れるテーブル席のほとんどは既に一人以上のお客さんが座っており、後から相席するには少々勇気がいる。
またカウンター席に座ろうにも、大体一つ飛ばしか二つ飛ばしにはお客さんが座っているのでどこに座ろうとも必ず誰かと隣り合ってしまった。こういう時、ちょっと座りずらいんだよなぁ。
私は店の奥へと進むほんの数秒の過程を使い、どこに座ろうかと頭を悩ませる。だがどうやっても最適解が浮かばず、結果その中でも最も好ましいと思う結末を選んだ。
「あの……すみません、お隣良いですか?」
カウンター席の真ん中辺り、二つ並んで空いていた席の内他の女性客の近くを選んだ。本当ならわざわざ声をかける必要も無いんだけど、この街の事とか色々話を聞きたかったので少なくとも誰かとは喋らなければいけない。なら、一見私と同い年ぐらいに見えるこの人なら幾分か話しやすいだろう。
「――ん、僕かい?あぁ、もちろんだよ。気にせず座ってくれたまえ」
私が声をかけたのは、たぶん十代後半かいっても二十代前半ほどの若い女性。青く短い髪の上から金属製のヘアバンドを着けており、細身のその体には門で会ったおじさんのような鎧を身に着けていた。またその隣には鞘に収まった一本の鉄剣を立て掛けていて、恐らくこの人もこの街を守る衛兵さんか何かだと思われる。
(……ていうか、さっきはそれどころじゃなくて気にならなかったけど……この時代に鎧だの剣だの槍だの使って、一体何と戦うんだろう)
街の作り的に、ここは何かから身を守るような構造をしているような気がしていた。そして、その何かと戦うための門番や衛兵の存在なのだろうと思う。
ただ問題なのは、一体それが何であるのかで……。
「……どうしたの?僕に何か用かな?」
「えっ?!……あ、いや、その……何でも無いです……」
隣に座っていた人のことが気になるあまり、私はそちらにチラチラと視線を向けていた。すると、それに気が付いたらしいその人はわざわざこちらを振り向いてからそう尋ねてくる。いきなりこっちを向いたのには驚いたけど、そりゃ初対面の人にジロジロ見られてたら何か用でもあるのかと思っちゃうよね。
「おや。相変わらずモテモテだね、フィレーナ」
私とお隣さんがそんなやり取りをしていると、自分達の正面の方からそう声をかけられた。その主は、さっきお店に入って来た時に声をかけてくれた恐らくこの食堂の女将さんと思われる女の人だった。恰幅がよく、衛兵さんが言っていたようにとても優しそうな人に見える。
「ちょっと、やめてよ女将さん。僕は別にモテたりしてないって」
「ふ~ん、そうかい?でも、あたしゃ知ってんだよ。あんたがついこないだも街の子に結婚を申し込まれたのをさ。若い娘の間じゃ、フィレーナはカッコいい騎士様って共通認識なんだよ」
「う˝っ、なんで告白の件を知ってるんだ……他では言わないでくれよ?折角勇気を出してくれたその子に悪いからさ」
店の女将さんの話によると、隣に座る衛兵さん……フィレーナ?さんはこの街の女性の間では随分と有名人らしい。所謂、女子高の中でもボーイッシュで人気のある子って感じなのかな?
……まあ確かに、フィレーナさんはどちらかと言えばカッコイイ部類に入ると思う。目元がパッチリで整った顔立ちに、高音寄りのハスキーボイス。座っているので背丈は分からないけど、細身でもちゃんと筋肉があって耳に掛かる程度のショートヘア。もし、こんな中性的でイケメンな彼女に迫られようものならきっと大抵の子はきゅんきゅんとときめいてしまうのだろう
……最も、そんな中にも女性的な可愛さがあるように私は感じるのだが。
「おや、でも隣のその子もあんたが気になってるみたいだよ?……そういえば見ない顔だね。お客さん、旅の人かい?」
「へっ?……あ、はい、まあそんな感じです」
突然こちらに話の矛先が向き、私はつい変な声を上げる。でも、今の私は旅人……と言ってもまあ嘘じゃないよね。実際家に帰るための旅をしたい人だし。
「そうかいそうかい。……で、あんたもこの子が気になるんだろう?カッコいいもんねぇ。この子はね、この街じゃ有名な衛兵なんだよ。剣の腕も確かだし、若い娘たちからの人気も高い。あんたも気になるんなら恋人に立候補しちゃいな」
「ちょっと女将っ!」
女将さんの冗談交じりのその言葉に、流石のフィレーナさんも声を荒げた。本気で怒っているというほどでは無いにしろ、彼女は度々こういうことを言われているのか少し強めの口調だった。あーわかるわかる。こっちが思ってないことを周りからあーだこーだ煽てられるのって、ちょっと嫌だよね。
「あっははは、ごめんねぇ。ちょっと言い過ぎちまったかい?……っと、それよりお客さん。注文は何にします?」
だが、それすらもいつもの事なのか女将さんは特に気にした様子は無かった。まあ、この人は元々こういう人なのかもしれない。衛兵のおじさんも優しい人だって言ってたし、悪気があるわけじゃないんだろう。
「おすすめはウチ自慢のスティだね。他のは後ろに書いてあるから、好きなのを選んでおくれ」
女将さんはそう言って、店の後ろ側を指差した。そこには大変見覚えのある、謂わばメニュー表と呼べるものが幾つか掲げられていた。……当然、この店の看板と同じく全く読めない文字で。
「あー……じゃ、じゃあ、そのおすすめを一つください……」
「あいよっ!ちょっと待ってな」
注文を受けた女将さんはそう元気に返事をして、カウンター奥のキッチンへと移動して行ってしまった。メニュー表が読めなくて結局おすすめ頼んじゃったなぁ。まあ頑張って目を凝らせば、文字が読めなくもない気がしたけど……ていうか、スティってどんな料理?ウチ自慢のって言ってたから不味くはないと思う……ケド……。
「……悪かったね。ここの女将さん悪い人じゃないんだけど、街の噂には目が無くってさ」
「えっ?」
料理の提供を待つ間、大人しく座っていた私にフィレーナさんがそう言って声をかけてくれた。やっぱり、あの人いっつもあんな感じなんだろうなぁ。
「僕もよくここには来るんだけど、その度にああやって茶化されちゃって……あまり重く捉えないで欲しいな」
「あ、はいっ!大丈夫です、特に気にしてないので……」
「そうか、そう言ってくれると助かるよ。……そういえば、自己紹介が遅れたね。僕はフィレーナ・エネミクス。見ての通りここホーロスの街で衛兵をしているんだ。趣味は食事と街の散策と……後は剣を振ることかな。君は?」
私を気遣ってくれたフィレーナさんは、続けて自身の紹介をしてくれた。剣を振ることが趣味って何?とは思ったけど、剣道部みたいなものだろう。衛兵さんということだし、普段の訓練とかの延長とも考えられる。
それに、これは幸先がいいかもしれない。私はこのお店に腹ごしらえと、同時に情報収集に来たのだ。であれば誰かと親しくなり、話を聞くのが一番手っ取り早い。彼女も衛兵さんということだし、この街の事には詳しいだろうしね。
「フィレーナさん、ですね。ご丁寧にありがとうございます。私は香――」
先に名乗ってくれたフィレーナさんに礼を言いつつ、私はそれを返すように自身の名前を明かそうとした。……しかし、そこでふとこんな考えがよぎる。果たして、私は今どちらの名前を名乗るべきなのだろうか。
当然、私という個人は香取千代梨に決まっている。しかし今の私の見た目は、姿かたちは、あの文字さんが言っていた通りならパンドラ・サタナス=エルピスという者なのだ。であれば、ここはそのパンドラさんとして名乗るべきなのだろうか……。
「――――ぱ、パンドラっ!私の名前は、パンドラって言います!」
私は少しだけ考えた後、そう答えることにした。特別、何か理由があったわけでは無い。だが今の私はそうであるらしいし、何より郷に入っては郷に従えということもある。フィレーナさんの名前を鑑みて、私もそれに合わせるべきだと思った。香取千代梨など彼女にとっては明らかに変な名前だろうし、余計な疑いを持たれたくはない。
……ただ、もしこの先フィレーナさんと仲良くなることがあれば、ちゃんと謝って本当の名前を言うことにしよう。
「パンドラ……へぇ、いい名前だね。さっき旅人って言ってたけど、この街には何か目的があって来たの?」
「あ、ありがとうございます……えっと、あの実は、私……道!に迷ってしまって、森を彷徨ってたらこの街に辿り着いたんです」
私の名前?を聞いて、彼女は少し微笑みながらそれを褒めてくれた。そして続けざまに、この街に来た目的について尋ねてくる。私はそれにどう答えようかと言葉に詰まったが、いろいろ思った末素直に話すのが一番だと判断した。道に迷っているのは本当の事だし、ただ目的も無く歩いていたらこの街を見つけたのも事実だ。
「え!?本当に?……そうか、それは大変だったね。この辺りの森は魔獣も出るし危険だ。道に迷ったうえでここに辿り着けるなんて、パンドラは運がいいよ」
……ん?今、なんて言ったの?
魔獣……魔獣って?猛獣か何かの聞き間違い……じゃないよね。
「あ、あの、その魔獣って何の話――」
「お待たせお客さん。ご注文のスティだよ」
私は自分の中に浮かんだ疑問を、フィレーナさんに質問しようとした。が、それを遮るように私達に声をかけながら女将さんが戻ってくる。またその手には木製の御椀と、二つのパンが乗ったお皿を持っていた。わっ、すっごく良い匂い。さっきお店の外でしてた美味しそうな匂いはそのスティって料理だったんだ。
「ほら、熱いから気を付けてね。おかわりはパンと一緒に一回までなら無料だから」
「あっ、ありがとうございます」
カウンター越しに渡されたそれを私は受け取って、そっと台の上に置く。その途中、手に持ったお皿から絶えず温かな香りが広がっていた。まずい、ここにきて自分が物凄くお腹が空いてたことを思い出した。美味しそう……。
「い……いただきますっ!」
私は食事と作ってくれた相手に感謝を言ってから、目の前の料理に一目散に手を付け始めた。一緒に貰った木のスプーンでスティを一匙掬ってみると、トロッとした緩いクリームのような感触。さほど温度の高いわけでは無い店内では湯気が立ち、見ているだけでも涎が出そうである。
そうして粗方目で楽しんだ後は、辛抱ならずそれを直ぐに口に運ぶ。案の定熱くて全部は無理だったが、それでも僅かに口に入ったそれは途端濃厚でクリーミーな味わいを披露してみせた。
「お、美味しい……」
あまりの温かさに、思わず本音が漏れ出した。
このスティという料理は、匂いの特徴通り見た目も味もまんまクリームシチューである。ごろごろ入った根菜に、少しのお肉。見た感じ人参みたいなやつとジャガイモみたいなやつと、後は何のお肉だろう……いや、そんな野暮なことはどうでもいい。今この時、冷え切った私の身体を温めてくれるこの料理が美味しい事には変わりないのだから。
「――――あ、あの……おかわり、貰ってもいいですか…?」
ものの数分、私は出されたスティとパンをあっという間に食べ切ってしまった。しかしまだ食べ足りないと、私はおずおず女将さんにお皿を差し出す。
スティのお供であったパンは特に突出した点は無かったが、食べた感じは若干硬めのフランスパンのようであった。それを食べやすい大きさにカットして出されていて、勿論それも普通に美味しくいただいてしまった。香取家ではシチューの時には大抵一緒にパンを食べていたので、特に違和感はない。
「おや、随分とお腹が空いてたんだね。良い食べっぷりじゃないか」
「あっ……えっと、はい、その……このスティ?、凄く美味しくって……」
「そうかそうか、それは嬉しいね。おかわり、持ってくるからちょっと待ってな」
女将さんはそう言って、再びキッチンの方に消えて行った。うぅ……あの目、絶対私の事食いしん坊だと思ったって……。
実際、私は普段からそこそこご飯を食べる方だった。勿論人並み以上に食べるという訳では無いが、それでも女子高生として買い食いや友達とデザートを食べに行くなどの間食は多かった気がする。故に、暫く何も食べていなかった状態でのこの食事量では、到底お腹を膨らませるには至らなかったのだ。……だから別に、食いしん坊ってわけじゃないんだからねっ!
私はそんな誰に向けたでもない言い訳を心の中で叫んだ。が、その想いも虚しく結局再び出されたおかわりもあっという間に完食してしまうのだった。