第十部 〜享保一揆〜
享保十三年・七月下旬。
江戸郊外――本所・亀沢の旗本屋敷町。
白昼、座敷に集められた十余名の旗本たちが、押し殺した怒気を放っていた。
「……年貢を貨幣に変える、だと? ふざけるな!」
「我らの禄は、米で与えられてこその“実”なのだぞ! 銭で支給されたところで、信用が崩れたらどうするのだ!」
「聞けば、百姓どもに金を持たせ、商いまで容認する気だと! 世も末だ……!」
その中心にいたのは、旗本・神谷源四郎。父の代より三千石を食む家柄で、藩を持たぬ者たちの中でも発言力を持っていた。
「これは、武士階級に対する裏切りである。……清水久志なる異物が幕府を壊しておる」
神谷の目が燃えるように光った。
「……このままでは“武士の誇り”が死ぬぞ。われらが立ち上がる時ではないか」
旗本たちはどよめき、やがて静かにうなずいた。
そしてその会合の背後には――
老中・稲葉の密使・霞が、影のように潜んでいた。
「……順調に、燃え上がり始めたな」
一方その頃――
久志は、深川・大島村の百姓たちとの対話に臨んでいた。
囲炉裏の煙が立ち昇る長屋にて、村役たちが集まる中、一人の年配者が口を開く。
「……あんたの話、聞いてると、まるで夢みてぇだ」
「貨幣で納められるんなら、うちの倅も楽になるだろう。けんど……」
別の百姓が言う。
「お上の話は、いつも“途中で変わる”のさ。今日の約束は、明日の嘘。わしらはそれで何度も裏切られてきた」
久志は静かに、真っすぐ彼らの目を見て言った。
「だからこそ、今度は“変わらない仕組み”を作りたい。貨幣の制度、流通の道、年貢の基準……全部、文字にして、記録して、役所に残します。後で変えられないように」
「……そいつが、ほんとに出来たら、すげぇこったな」
「おめぇさん、武士じゃねぇ顔してる」
久志は少し笑って答えた。
「ええ、僕は“学者”です。言葉と理屈と紙で戦う人間です」
村の若い衆がぽつりと呟いた。
「先生さ……うちの村だけじゃねぇ。他の村にも来て、話してやってくれませんか」
「……ありがとう。行きます。できる限り、多くの村へ」
このとき久志は初めて、“百姓たちの希望の顔”を見た気がした。
だがそれは同時に、“武士の怒りの対象”になりつつある顔でもあった。
江戸城・藤嶋邸。
「……旗本連中が武力を用いて反発する動きあり、との報せです」
原田の報告に、藤嶋は沈痛な顔を見せた。
「まさか、あの神谷源四郎までもが……彼は、私の学友であったのだがな」
久志は顔を上げ、真剣なまなざしで言った。
「旗本を刺激したのは、僕の責任です」
「いや。必要な波風だった。だが、彼らの矛先が“暴力”に向かえば、もはやただの政争では済まぬ」
「……交渉の余地はありますか?」
藤嶋は考え、うなずいた。
「神谷殿とは、私が会おう。ただし、その間に“民の声”を記録として整えるのだ。武士の怒りを打ち消せるのは、制度よりも“現実の支持”だ」
久志は静かに頷いた。
「やってみます。……百姓の声を、幕府に届けるための、“言葉の盾”を作ってみせます」
数日後――
久志は、小雪、とみえ、そして佐吉と共に、町や村を巡る。
帳面を開き、百姓の声をひとつずつ丁寧に書き記す。
「清水先生が来てくれるなら、うちの村でもやります」
「来年からでも、貨幣納付ができるなら……借金しなくても済む!」
「“あの人なら信じられる”。それが、わしらの本音だ」
書き綴られた百姓たちの声は、やがてひとつの大きな“言論の巻物”となる。
——それは、幕府史上初となる**「民意による改革請願状」**となるのだった。
だがその背後で、神谷源四郎の屋敷では、旗本一揆の準備が、密かに進行していた。