第五部 〜未来への宣誓と影の謀略〜
—江戸城・西の丸御座之間。
夜半——。
蝋燭の灯が静かに揺れる御座之間の奥、屏風の向こうに潜む気配は、凍てつくような沈黙を孕んでいた。
老中・稲葉和泉守正親、扇を静かに畳み、口を開く。
「……藤嶋時頼——あ奴、もはや清水なる異人に取り憑かれておる」
その言葉に、屏風の前に控える二人の男が、わずかに膝を正した。
一人は、細身の体に鋭き眼光、面には常に薄笑みを湛える男——南雲玄蕃なぐも げんば。
もう一人は、厳つき無口な大男、肩幅広く、背には常に死を携えると噂される岩戸十兵衛いわと じゅうべえ。
いずれも、稲葉家において“影の刃”と恐れられる者たちである。
「未来より来たと、嘯く異形の者に、藤嶋殿ほどの男が惚れ込むとは……」
稲葉の声は、静かに、だが確かに怒気を帯びていた。
「——滑稽を通り越し、もはや異端よ。武士の棟梁たるものが、戯言に己が政を預けるなど、断じて許せぬ」
南雲が一歩、膝を進める。
「……町方にては、清水なる者の演説、思いの外に民の心を掴みました。“未来”なる言の葉も、如何にも真のように聞こえまする」
「藤嶋時頼は愚かではない。だが、あの男には理想が過ぎる。理想に酔えば、現実の毒を嗅げぬ」
稲葉は口元を扇で覆い、ひとつ息を吐いた。
「南雲、評定所の面々へはどう取り計らった?」
「は。既に“清水久志は異国の密謀者にて、藤嶋殿はその操り人形”との噂、密かに流しております。近日中、老中評定にて藤嶋殿を告発すべく、根回しも進んでおりまする」
「よい……火種は蒔いた。あとは風を送るだけよ」
沈黙を破ったのは、岩戸であった。
「……されど、殿。先日の演説、神田明神には百姓町人ばかりか、浪人や下級旗本までも集ったとのこと」
「……ふむ」
「あの者、“未来”とやらを持ち出しながら、まことの“希望”を説いておりました。……人は、夢に縋るもの。清水が語る未来が、真であろうとなかろうと、惹かれぬ者はございませぬ」
「……民草の声など、城の礎にはならぬ」
稲葉は言い切った。
「されど、味方を装った者どもが、あ奴らに情を寄せるようになれば話は別。藤嶋派の大目付、目付筋の若き者ら……連なる者も少なからずおるようだ」
南雲が笑みを深める。
「“疑念”は、最も静かにして、最も強き毒にござりまする。やがてそれは、藤嶋殿の懐へ沁み入りましょう。あの者が信じる清水こそが、裏切りの根と成り果てるやも」
稲葉が小さく頷く。
「——岩戸。次なる手を打て」
「心得た」
「清き者ほど、穢れに脆きものよ。藤嶋と清水、その間に一筋の亀裂を走らせよ。“信”を折れ。手段は問わぬ」
「……御意」
岩戸は静かに頭を下げ、その場から消え去るように立ち去った。
残された南雲は、扇を指先で遊ばせながら低く囁く。
「清水久志……まことに、興味深き御仁にて……されど、情に厚い者ほど、足元を掬いやすきものにござりまするな」
稲葉は瞳を細め、月を仰いだ。
「……幕政を玩具とするな。主君に弓引く者、我らが手で成敗いたすのみよ」
——夜は、静かに更けてゆく。
——その頃、原田家屋敷。
夜は更け、遠く虫の音がかすかに響く中——
町方より戻った清水久志が、肩を落として玄関先に姿を現した。
「……松田屋の大旦那は、協力を快諾してくれました。信用銭の仕組み、小規模な商圏にて試す段取りも……」
机の前に座していた原田利久は、黙って一枚の書付を差し出した。
「だが——その直後に、これが届いた」
久志が目を通すや、眉が動いた。
「藤嶋殿、老中評定にて告発の動きあり」
「告発……まさか、これは……私のせいで……?」
言葉は震え、胸の裡にざわめきが起こる。
「否。これは貴殿の“志”そのものへの反発じゃ」
原田の声は静かだが、鋼のように揺るぎなかった。
「敵は、民の無知と恐怖に訴えてくる。“未来より来た”などという真贋あやふき話が広まれば、正しき理すら胡乱なものと見なされよう」
「……拙者は、藤嶋殿を、巻き込んでしまったのか……」
久志の瞳は揺れ、拳を膝の上で握り締める。
そんな彼の背に、そっと小雪が声をかけた。
「であればこそ、語るべきではありませんか。あなた様が、いかに真摯にこの国を救おうとされておるかを」
「……語る、か」
「はい。上様に訴えるのではなく、民にこそ語るのです。心の内を、正面から」
原田が深く頷いた。
「時として、民の声は城の石垣をも揺るがす。恐れることはない。——胸を張り、己の言葉で訴えよ」
久志は立ち上がり、胸の内に込み上げる決意を押し固めた。
「……わかりました。だったら、やってみせましょう。この時代の人々に、私の言葉で届けてみせます!」
——数日後。
神田明神・境内。
春の陽射しが差し込む中、町人、百姓、浪人、旗本の姿までもが、仮設の高台を取り囲んでいた。
「“未来”より来た異人が、江戸の金勘定を語る」——そんな噂が、江戸市中に駆けめぐっていたのである。
「ほんとうに米がのうても、生きてゆけるちゅうんか?」
「世を変えるって、どんな話じゃ?」
「拙者、聞いてみたいと思うとる」
喧噪の中——
久志が、高台に姿を見せた。
風が吹き抜ける。
彼は一度、深く息を吸い込むと、静かに口を開いた。
「——皆々様。私は、今より三百年のちの世より来た者にございます」
ざわ……
人々の間に波紋が走る。
「嘘と思われても構いませぬ。けれど、この国が、幾百年先も生き永らえるためには——今を、変えねばなりませぬ」
その声音は、静かに、だが確かな熱を孕んでいた。
「年貢の重き、物価の乱れ、貨幣の不安定……それらはすべて、民が“見えぬ仕組み”に縛られておるがゆえ。拙者は、その仕組みを“見えるもの”へと変えたいのです」
「誰もが安心して、明日を語れ、今日を笑って暮らせるような世を——」
沈黙が広がった。
だが、その沈黙を破るように、誰かが声を上げた。
「その言葉……嘘とは思えねぇ!」
「お侍のくせに、民草のこと、よう見とる!」
「清水先生、応援しますぞ!」
拍手が湧き上がる。
高ぶった声、涙を浮かべる者、手を合わせる者——
その群衆の熱を、木の陰からひとつの影が見つめていた。
——忍び、霞かすみ。
稲葉の命を受け、密かに会場を監していた彼は、つぶやいた。
「……これは、面倒なことになってきたな……」
黒衣の裾を翻し、音もなくその場を離れる。
——その夜。江戸城・老中の間。
稲葉和泉守正親は、扇を閉じ、沈痛な面持ちで報告を聞いていた。
「……神田明神にての演説、民の心を大いに掴みました。藤嶋殿への非難は、今や後退の兆しありにございます」
「ふん……犬どもが吠えたところで、城が揺るぐものか」
扇を握るその手に、力がこもる。
「……清水久志、あ奴……やはり、侮れぬな」
静かなる怒気が、老中の間に充ちた。
——藤嶋の失脚を狙う策謀は、いったんは民の声によって退けられた。
されど、それは——
嵐の前の静けさに過ぎなかった。