第十一部 〜誇りの剣、民の声〜
享保十三年・八月初旬。
空気は重く、江戸の町には“何かが起こる”気配が静かに満ちていた。
そんな中、城下のあちこちに、密かに回覧される一枚の紙があった。
「神谷源四郎殿、年貢改悪に対し決起せん」
それは、旗本百名を越える有志が連判し、幕府に抗議する意思を示した一揆の通告だった。
「年貢を金に変え、百姓を強くし、武士を貶める清水久志――このままでは、武家社会は崩れる」
「我らは剣を以て、幕府に問いただす」
この“連判状”の流布は、幕府にとって明確な“武力の威嚇”だった。
江戸城・評定所。
老中たちは騒然としていた。
「旗本が挙兵すれば、それは即ち“内乱”である!」
「清水と藤嶋のせいで、幕府が割れるぞ!」
稲葉和泉守は沈黙しながら、扇を静かに閉じた。
「……機は熟した。これ以上、異物を許せば、秩序は滅ぶ」
その夜、原田邸。
久志は藤嶋、原田、そして百姓代表たちと共に緊急会合を開いていた。
「旗本たちは明後日、登城の道中で“改革反対”を掲げる挙兵を計画しています」
久志が示した地図には、彼らの動線と、江戸の警備隊の配置が書き込まれていた。
「ただの抗議ではない。彼らは、“幕府上層部の人間を排斥する”目的で動くはずです。つまり……」
「我らが狙われる、ということだな」
藤嶋の言葉に、場の空気が凍る。
原田は久志に問う。
「……止められるか?」
久志は、震える手で懐から一巻の巻物を取り出した。
それは、百姓・町人・商人――およそ五百名の署名と証言を集めた、**“民の請願状”**だった。
「これを、神谷源四郎に届けます。彼は、藤嶋様の学友だったのでしょう?」
藤嶋は、しばし黙し、やがて言った。
「源四郎は……幼き頃、貧しい旗本の家に育ち、“誇り”だけを糧に生きた男だ。だからこそ、“誇り”を守るために剣を取る。だが、その剣はまだ……真に振り下ろしてはいないはずだ」
久志は深くうなずいた。
「僕が会います。“敵”ではなく、“同じ未来を見ようとしている人”として、話します」
「……命を懸ける覚悟はあるか?」
「すでに、そのつもりです」
そして――
八月七日、早朝。
江戸・馬喰町の大通りに、鎧武者姿の旗本たちが列をなして進軍していた。
先頭には、神谷源四郎。
「我らは問う! 清水久志なる者よ、現れよ! 幕府を騙り、民を惑わす“異物”に、剣の正しさを示す!」
久志は、ただ一人、群衆を割って進み出た。
その背には、藤嶋と原田、そして多くの町人、百姓たちが並ぶ。
「神谷殿。……久しぶりに、お目にかかります」
「……来たか、“未来人”。今日は、おぬしに“答え”を出してもらう」
神谷が刀を抜いた。
だが久志は、一歩も引かずに、懐から巻物を取り出す。
「これを、読んでください。“今を生きる者たち”の声です。あなたが守りたい“民の暮らし”そのものです」
神谷は無言のまま、それを受け取った。
そこには――
「今までは米が年貢。だが銭ならば、納められる」
「借金せずに済む年が、やっと来る」
「清水様は、名もない我らの声を、聞いてくれた」
百姓たちの震える文字で書かれた、切実な願いの数々。
神谷の手が、わずかに震えた。
「……これは、罠か?」
「いいえ。あなたが“守ろうとしていた者たち”の声です」
久志は、まっすぐに言った。
「“誇り”は、剣の中だけにあるんじゃない。民を生かすこと、希望を与えること、それもまた“武士の誇り”です」
長い沈黙。
やがて、神谷源四郎は――
「……皆、刀を納めよ」
その一声で、旗本たちは次々に刀を下ろした。
「清水久志。……貴様を“敵”と見誤っていたようだ。……この先の戦い、見届けさせてもらう」
久志は、心の底から安堵の息を吐いた。
その場にいた誰もが、この一瞬に**“武士と民が、初めて手を結んだ日”**を感じていた。
だが――
群衆の中、ひとりだけその光景を無言で見つめる者がいた。
老中・稲葉の密使・霞。
「……久志、甘いぞ。剣より恐ろしいのは、“法”と“命令”だ」
彼は静かに、消えた。
次に迫るのは、“幕府中枢そのもの”からの圧力だった。