第九部 米から貨幣へ
享保十三年・七月初旬。
江戸城西の丸、勘定方の会議室には、幕府内でも特に重職にある者たちが並んでいた。
その中央に立つのは、未来より来た男――清水久志。
彼の前には、藤嶋時頼、原田利久、そして幕閣から派遣された視察役数名。老中・稲葉和泉守の影響下にある者も混じっている。
「本日は、清水殿より“年貢制度の改革案”があると伺っておる。聞こう」
そう促したのは、やや中立寄りの老中・牧野遠江守。
久志は、深く一礼し、口を開いた。
「……皆様。本日は、非常に根本的な提案を申し上げます。それは――“米による年貢徴収”を段階的に廃し、貨幣による納付へと転換することです」
ざわっ、と場がどよめく。
「年貢を……米ではなく、銭で徴収するだと……?」
「それは、幕府が築いてきた“百姓支配の柱”を崩すということではないか!」
「百姓に銭を持たせれば、思想が乱れる!」
非難が飛び交う中、藤嶋が低く一喝する。
「静まれ!」
一瞬、場が鎮まる。
久志は、淡々と続けた。
「……確かに、米は江戸社会における“経済の柱”です。しかし、実際の市中経済では、米で物を買うことはほとんどありません。百姓たちは年貢のために米を差し出し、その対価として銭を得るために、問屋へ売りに行かねばならない。そして、そこに中間搾取が生まれる」
「つまり……米を現物で取ることが、かえって農民の負担を増やしていると?」
牧野老中が口を挟んだ。
「そのとおりです」
久志はうなずいた。
「百姓の納税手続きが簡略化され、貨幣が村に浸透すれば、物の流れも活発になります。さらに、幕府も貨幣収入を得ることで、“財政の即応性”が高まります」
「即応性……?」
「はい。現物の米では、政策実行のための資金流動性に乏しい。しかし、貨幣であれば、支出調整や投資判断も素早く行える。現代で言えば、いわば“政府予算の柔軟化”に近い効果を持ちます」
老中たちは顔を見合わせた。
その中で、稲葉に近い一人が冷笑を浮かべて言った。
「だが、貨幣などというものは信用で成り立つもの。百姓に信用はあるのか?」
久志は、少しも怯まずに答えた。
「信用は、最初から“与える”ものです。そして、それを裏切らせぬ仕組みを築く。それが為政者の責任です」
一瞬、静寂が訪れた。
藤嶋が立ち上がり、言葉を継ぐ。
「この改革がなれば、江戸の財政は大きく変わる。……だが、その分、反発も大きかろう。実行には、幕府中枢の協力が不可欠。老中諸侯におかれては、熟慮いただきたい」
会議終了後、藤嶋と久志は城外の廊下を歩いていた。
「……よくぞ、あの場であれだけ語ったな」
「……正直、足が震えていました。けれど、僕が言わなきゃ、誰も言わないと思ったから」
藤嶋は小さく笑った。
「信じておるぞ、久志殿。……あとは、幕閣が動くかどうかだ」
だがその頃――
老中・稲葉の屋敷では、すでに新たな策謀が練られていた。
「米の価値を貶め、貨幣を増やすなど……それは、武士の禄を“紙切れ”に変える行為に等しい」
稲葉は静かに言う。
「このまま清水久志を野放しにしておけば、いずれ“秩序”そのものが崩れる」
側近の忍・霞が膝をついた。
「次なる一手は?」
「各地の旗本に“年貢軽減反対”を煽れ。……久志に、“民の味方”でなく、“武士の敵”の面を被せるのだ」
そして、久志がまだ知らぬところで、旗本たちの一揆寸前の不満が江戸の外で渦を巻き始めていた――。