怨憎、嫌悪、復讐
「おかあさん……おかあさん、」
瓦礫が崩れ土煙のなかで小さな子どもが泣いている。
どす黒く、禍々しい黒い塊。それは少年の方を向く。
少年はそのなにかと目が合った気がした。
逃げなければ。そう思うのに少年はピクリとも動けなかった。恐怖は人を動けなくする。
襲いかかるそれに、もうダメだと少年は目を瞑った。
ドンッ。
不意に後ろからの衝撃で伊吹は目を覚ました。
朝、1番日当たりの良い縁側で日課の坐禅を組んでいた伊吹は、暖かな日差しについ眠ってしまっていた。
「伊吹兄、ご飯だよ」
「早くー、お腹すいたー」
伊吹は起こしに来た楓と椿に腕を引かれ居間に向かう。
ここ、神代道場では師範の伴が引き取った訳ありの子どもたちがともに暮らしている。伊吹は最年長の15歳。最年少は6歳の椿。椿の兄、楓は10歳。あとは椿と同い年の結衣と12歳の仁。そして4ヶ月前に来た扇鈴は伊吹と同じ15歳。
「最後くらいご飯の準備手伝ってよ」
朝食の支度をしていた扇鈴は引っ張られてきた伊吹を睨みながら、みんなのご飯をよそっていく。
料理が壊滅的にダメな伴は台所に近づくことを禁じられ、以前は出前か、伊吹か仁で作っていたが、
「栄養が偏ってる」
と扇鈴にダメ出しをされ、それ以降は扇鈴がその役を担っている。
結衣は扇鈴の手伝いをし、仁はすでに食べ始めていた。
「ついにここを離れる子が出るなんて、感慨深いね」
世の親はこういう気持ちなのかな、と伴がしみじみしていると、
ガチャン。
仁は乱暴に茶碗と箸を置くと荒々しく席を立った。
「おい仁、どこ行くんだよ」
伊吹の声にも立ち止まらず、仁が部屋を出ていく。その様子に扇鈴は伊吹に味噌汁のお玉を渡すと、何も言わずに仁を追いかけた。
「なんだ? 仁のやつ」
首を傾げる伊吹に
「寂しいんだよ」
と返す楓の頭を伴が優しく撫でた。
「家族だからね。2人がここを出るのが寂しいし、2人のことが心配なんだよ」
扇鈴は縁側で膝を抱えて座っている仁の隣に腰を下ろした。
「仁はあいつに懐いてるもんね」
「懐いてないし」
「好きでしょ? お兄ちゃんみたいで」
「好きじゃないし、兄ちゃんでもないし」
「寂しいなら寂しいって言えばいいのに」
「別に寂しくないし」
「意地っ張りだなー」
「寂しくないしっ!」
思っていたよりも強く返ってきた仁の言葉に驚き、扇鈴は一瞬気圧される。
「でも、」
と、小さく続く声に耳を傾けた。
「2人とも、高専なんて行ってどうすんだよ。あんなの気にしないで、いままでだって無視してたんだから、これからだってそうすればいいのに! なんで、死ににいくようなことすんだよ……」
この世には時々小さな黒い靄が発生する。街中に現れたり、人に纏っていたり。それは“禍靄”と呼ばれるもの。人々の負の感情が溜まってこぼれ落ちたもの。そしてそれが積もり積もって深く根付いて“澱”となる。
黒く濁りドロドロとしたそれに自我はなく、負の感情に引き寄せられるままに人を襲い土地を腐らせる。
澱による被害、“禍災”を最小に抑えるのが“浄化師”と呼ばれるものたちの仕事。伴も元々浄化師をしていた。
そして伊吹と扇鈴は浄化師になるため専門の教育機関に入学し、学校の寮に入るために今日で道場を離れる。
禍靄や澱が視える人はごく僅かで、周りから変な目で見られないようにするには、視えていないように過ごすしかない。
視えるのは元々の体質か、禍災に巻き込まれたことなどがきっかけになる場合もある。
扇鈴は元々視えており、伊吹は小さい頃に気づいたら視えるようになっていた。道場の他の子どもたちは禍災に遭ったのをきっかけに視えるようになっていた。そのなかでも人が澱に呑まれた瞬間を視た仁は、特に澱への恐怖や嫌悪を強く持っていた。
「視えないまま知らずにいられたら良かったかもね。だけど私には視えていて、それがなにかを知っている。視えているからには、知っているからには、無視することはできない」
「それで死ぬことになっても?」
「死にたくはないよ。でも、それを視ていないことにするのは私を否定した両親を肯定することになる。私と同じ視える人だったおばあちゃんを否定することにもね。私は、両親(あの人たち)みたいにはならない」
扇鈴は真っ直ぐに前を見据える。
「私はここにきて長くないから詳しいことは知らないけど、あいつが浄化師目指すのは先生のことがあってだろうし」
5年前、伴は左腕を失っている。澱に襲われそうになっている子どもを助けようとした伊吹を庇ってのことだった。腕を澱に呑まれかけ、咄嗟に腕を切り落とした。
その一件以来、自分に力があればと伊吹は浄化師になることを決めた。
浄化師は怪我を負うことも、体の一部を失うことも、命を落とすことも往々にしてある。
「生半可な覚悟じゃやっていけない。私もあいつもそれはわかってるし、覚悟はしてる。でも、死ににいくわけじゃない」
覚悟を決めている扇鈴に、仁はそれ以上言えなくなる。
「ほら、ご飯食べよ」
ふと、いつもの空気に戻った扇鈴が立ち上がり、仁はそれに続いた。
「そうだ、これだけは約束して」
足を止め神妙な面持ちの扇鈴に、なにを言われるのかと身構える。
「仁、台所は頼んだからね。先生は絶対近づけちゃダメだよ」
あまりに深刻そうに頼む扇鈴に仁は小さく吹き出す。
「ふっ、わかった」
和やかな雰囲気で居間に戻ってきた2人に、他の4人は顔を見合わせ不思議そうに首を傾げた。
「さて、みんな揃ったし頂こうか」
伴がそう言うと、いただきますと子どもたちがおかずに手を伸ばす。
「あ、それ僕の」
「おい俺の取るなって」
「自分の分食べろよ」
「伊吹兄取りすぎ」
いつものように男子たちのおかずの奪い合いで、家のなかは一気に騒々しくなった。その光景に呆れた様子の扇鈴、楽しそうに笑っている結衣。いつもと変わらない賑やかな食卓を、伴は穏やかに見守る。
「早いですね」
朝食を終えて、伴は自室でひとり呟く。机の上には穏やかな笑みを浮かべた女性の写真。
「あの子ももうここを離れる歳になりましたよ。なににも気づかず、ただ平和な日常を送れたら良かったのですが。あなたとの約束を守れず、申し訳ない」
「先生、俺たちそろそろ出るよ-」
伊吹の声に、写真立てを伏せ伴は自室を出た。
「2人とも喧嘩はほどほどに」
「伊吹がバカなことしなければ」
「扇鈴がバカにしてこなければ」
伴の言葉に同時に返した2人はにらみ合った後、互いに顔を背ける。その様子に伴はやれやれと肩をすくめる。
「まったく。気をつけていっておいで」
2人は伴や子どもたちに見送られ高専へ向かった。
同じ頃。
伴の道場から30分ほど離れたところに建つ屋敷。字が滲み読めなくなった表札の下にはかろうじて「実取薬局」と書かれているのがわかる木製の寂れた看板。家と店舗を兼ねているが、客が来るのか以前に、店がやっているのかすら怪しい。
あまりの人の来なささに、藤弥は一度「やぶか」と言ったことがあったが、薬局のオーナーをしている実取から思いきり拳骨を食らったことがある。それからは2度と言わないと決めていた。
藤弥は鞄に荷物を詰め込み、3年暮らした自室を見回す。居候の身であり元々の荷物は少ないが、片付けた部屋は一層がらんとして見える。
「なんだ、しんみりしてるのか」
家主のいくが部屋の引き戸を無遠慮に開ける。
「だからノックくらいしろって」
「思春期でもあるまいに」
「思いっきり思春期だろ」
自由奔放、大雑把、豪放磊落。そんな言葉が似合う彼女の振る舞いに藤弥も最初こそ困惑したものの、変に同情され気遣われるよりもよほど良く、すぐに打ち解けた。いまでは年の離れた姉のような感覚に近かった。
藤弥もまた浄化師を目指し高専の寮に入るため、今日でこの家を出て行く。
自分の部屋を出ると、廊下奥の部屋の戸を開ける。
「よお、体調はどうだ」
「今日は、ちょっと、良い」
「そうか」
床に臥している透花の枕元に座る。寝ている透花の首筋に視える黒い痣に顔をしかめるが、すぐに振り払い透花の頭を優しく撫でる。
「なんかあったらすぐいくさんたちに言うんだぞ」
「うん」
透花は数年前禍災に遭い、澱がその身を侵蝕している。実取により進行を遅らせることはできているが、体調を崩すことも多かった。禍災に遭った頃から成長も止まり、記憶の混濁もあり、歳は藤弥と1つしか変わらないはずなのだがそれよりも幼げだった。
「小僧ー! そろそろ時間だぞ」
階下から藤弥を呼ぶ声に
「行ってくるな」
と立ち上がる。
「ぅん、いって、らっしゃい。藤弥にぃ」
「ん? どうした?」
「無理、しないでね」
「問題ない」
行ってくる、と部屋を出て階段を降りる。
「高専の近くまで送ってやろうか」
玄関で車の鍵を持って待っているいくに、藤弥は青ざめる。
「まじでやめてください」
「人の好意を無下にする気か」
「あんたはもう少し人の身を考えてくださいよ」
いくの運転は随分荒く、何度か乗ったことのある藤弥はそのたびに死の淵に立っていた。
「まじで大丈夫なんで」
本気で嫌がる藤弥にいくは舌打ちをして引き下がる。
「透花のこと、お願いします。3年間、お世話になりました」
珍しく礼儀正しく下げられた頭に一瞬面食らうが、その頭をいくはわしゃわしゃと撫でる。
「おう、あの子のことは任せて安心して行ってこい。死ぬなよ、小僧」
「縁起でもないこと言うなよ」
歩き出した背中を見送り、その姿が見えなくなった頃に実取が姿を見せる。
「行きましたか」
「なんだ、気になるなら挨拶くらいしておけば良かったのに」
「いえ、また会えることを期待して」
「そうだな」
藤弥の向かった先を見やり、いくはポツリと呟く。
「腐るなよ」
東京郊外。山の中に建つ年季の入った鳥居。
浄化と澱について学び浄化師となるため修業する5年制の教育機関、浄麗高等専門学校。
彼らはまだ知らない。澱の醜悪さを。人の愚かさを。
未来は変わらずにあるものだと信じて疑わず、鳥居をくぐる。