バラのトゲには気をつけて
それからさらに数日後。とある貴族青年が、王都で有名なバラ園を訪れた。釣書を送った令嬢から、ここで会えないかと返事があったのだ。
以前の婚約者は、少しばかり楽器が弾けるらしいだけの辛気くさい小娘だったが、ようやく運が向いてきた、と男はほくそ笑んでいた。
「どこだ……?」
門をくぐって辺りを見回す。バラ園は思ったよりも広かった。
手紙には、うんちゃらのガゼボでお待ちしております、ドレスは何たらピンクのなんとかかんとかで──などと書かれていたが、正直覚えていない。
婚約を結んだら、このようなまどろっこしい真似はしないようによくよく躾けてやらねば、と苦笑した。
「……あれか!」
目についた東屋に一人、ふわふわしたピンクのドレスで座っている女がいた。近くには逢い引きしているようなカップルもいるが、まぁただの背景のようなものだろう。
「お待たせしたかな」
近寄って声を掛けると、女は顔を上げた。なかなかの美少女だが、まだ幼さの残る顔立ちである。これは躾け甲斐がありそうだ。
返事を待つが、女はつ、と立ち上がると背を向ける。
「おい!」
「お人違いですわ」
「は? いや、ガゼボにピンクのドレス──間違いなくあなたのことでしょう」
「何のことだかわかりかねます」
そのまま離れようとするので、とっさに二の腕を掴む。
「ちょっ──痛!」
いや、掴もうとしたところで手に痛みが走る。……この女、扇で俺の手を叩きやがった!
しかも衝撃はそれだけではない。
「無礼な。私をフルーセル侯爵家の者と知っての狼藉ですか」
「────ハァ!?」
なんだなんだ、とあちらこちらの曲がり角や植え込みの向こうからバラ鑑賞に訪れていた貴族たちが顔を出してくる。
近くにいたカップルもこちらを見た。その顔に見覚えが……なんだと。
「お前、デイジー!? 何をしている……いや、その男は何だ!」
とっさに糾弾するが、扇の女が険のある声を出す。
「私の友人を呼び捨てになど、あなた様は一体どなた? それにまだ、謝罪もいただいておりませんわ」
「ああ、すまない……俺はこいつの元婚約者で」
「では、今は無関係の他人ですわね」
「そんなわけあるか! 破談になったばかりなんだぞ」
「──では貴公も、ひとのことは言えぬ身だな。それでいて我が家に釣書を送ってきたのか」
「えっ」
第三の女の声に振り返れば、濃いピンクのドレスの女が侍女を連れて立っている。
「何の騒ぎかと思って来てみれば……、私は滝のガゼボで、モルガナピンクのドレスで待っている、と書き送っただろう。それがどうして、こんなことになっている?」
*
男がビアンカの堂々とした振る舞いに気圧されたのを見て、コンスタンスはこっそりほくそ笑んだ。──モルガナピンクとは、去年王都で大流行した、青みがかった桃色のことである。
大ヒットした劇で、モルガナという名のヒロインが身につけていたことから、貴賤を問わず身にまとうことがブームとなった色だ。上流階級の婦人はもちろんドレスを仕立て、庶民はコーディネートの一部に取り入れる、と言った具合に。
……となれば、殿方もその流行からは無関係ではいられない。
「……まさか、モルガナピンクをご存じないのか? 貴殿はそのご令嬢が婚約者だったんだろう。何も贈らなかったと? 本当に?」
ビアンカの白々しさに、吹き出してしまわぬよう頬に力が必要だった。デイジーもあからさまに顔を伏せている。
周囲のご婦人方がそれを見てどう解釈したのか、「まあ」などとため息をついている。
ビアンカは追撃の手を緩めない。
「では、滝のガゼボに現れなかったのも……。デートの定番であるこの庭園に、一度も来たことがなかったということなら頷けるな」
しかつめらしく言っているが、当然そのことについてもデイジーから聞き出し済みである。
「なるほど、とんだ婚約者だ。悪いが、この話はなかったことにしてもらおう」
「待っ──」
男は追いすがろうとするが、ビアンカの後ろ姿はコンスタンス以上に隙がない。ひそひそと言葉を交わす紳士淑女の間をすり抜けて、さっさと出口へ向かってしまった。
これで明日には、噂が駆け巡っているだろう。
すり抜けなくてはならないほど人がいたのは、その実、半分ほどはコンスタンスの仕込みであったからして。
あとは今し方の光景にちょっとスパイスを振りかけて、デイジーが破談にされたのには一切の瑕疵がない──婚約者にまともな義理も果たさなかった男の一方的な行い、と広まっていく予定だ。
男はがっくりと膝をついた。従者がおろおろしているが、早いところ回収していってくれないだろうか。
「お話は出来まして? 場所を変えましょうか」
「ええ」
デイジーと一緒に頷いた少年は、エリック・イーデンという。
イーデン家はフルーセル侯爵家の係累にあたる子爵家だ。今日は新たに迎えた養子の近況を確かめるため、口利きをしたフルーセル侯爵家のコンスタンスがバラ園での散歩に誘ったのだ。
もちろんコンスタンスは未婚の令嬢であるため、不用意な噂の元とならないよう、友人のデイジーに同伴を依頼してある。
聞けばエリック氏、旧姓エドモンズと彼女は旧知の間柄だと言うではないか。なんたる偶然!
馬車に向かいながらコンスタンスは思い返す。
「あの方結局あなたには気づかないままでしたね」
「ふふ、堂々としたお姿ですもの、わからなくても当然ですわ」
「そうですか? まだ、衣装に着られているようなものですが」
デイジーのそこはかとなく嬉しそうな様子に、骨を折った甲斐があったと内心喜ぶコンスタンスである。
エドモンズ商会が四代前に、子爵家の女性を妻として迎えていることを突き止めてきたのはオリヴァーだ。その後は早かった。
貴賤に厳しい貴族社会とは言え、いや、だからこそ、貴族同士の家系図は複雑に絡み合っている──大げさに言えば、全員が親戚なのだ。
エリックの高祖母の血縁で、侯爵家の一族、さらに優秀な後継者を求めている家を見つけるのなんて、コンスタンスたちにかかればお茶の子さいさいだ。
かくして、フルーセル侯爵家肝煎りの、気鋭の次期子爵が誕生したのである。
「ところで、デイジー嬢」
「はい」
「もしご迷惑でなければ、僕からモルガナピンクのものを何か、贈らせていただけませんか。今年に入ってもアクセントとしてはまだまだ流行していますし……その、貴族のマナーに反しなければ、ですが」
「まあ! ありがとうございます……」
本当に機は逃さない方なのね。違いもよくわかっておられるよう。
「ええ、ちょっとした小物ならよろしいんじゃないでしょうか。……改めてのお申し込みはこれからされるのよね?」
「はい」
はにかむ二人に当てられそうである。
平民から子爵家の跡取りに変わっただけで、デイジーの父が納得するとは限らない。しかしその場合でも一族を挙げて応援できるよう、既に我が父にはメリットを並べて説得済みだし、当事者の二人の気持ちもよく通じ合っている。
「こうしてみると、あの方からいただいたプレゼントが少なくて、かえってよかったですね。処分に困るだけですもの」
コンスタンスが自分の従者の言いそうなことを言って茶化すと、二人も控えめに笑った。自然と、先ほどの一幕に話題は移る。
「ビアンカさま、格好良かったですわ」
「私のところで引っかかってくれて助かりましたね。アデルさんとクラリスさんにも、もっと紛らわしい場所と服装で待機してもらっていたのですけど、やっぱり私のところが一番人目につきやすく、勘違いを突きつけやすかったですもの」
実は三段構えの罠だったのである。
苦笑するエリックだが、それでも手心を加えればよかったのに、などとは言わない。
「やるときは徹底的に、ですね。情報戦の重みは心得ております」
「よろしい。我が一族の者として、必要な心構えです」
コンスタンスはにっこりした。
友人の夫となるなら、やはりこのような男でなければ。
*
「…………ふう~」
二人と別れたコンスタンスは、自分用の馬車の背に深くもたれて息をついた。
外から扉を閉めようとしたオリヴァーが怪訝そうな顔をする。
「なんですか、大きなため息ですね」
「別にいいでしょ。……やっぱりうらやましくなっちゃったんだもの」
えっ、と従者は大仰にのけぞった。
「まさか、当て馬活動をやめたと思ったら……横恋慕ですか?」
「なんでよ! そっちじゃない!」
とんでもないこと言い出しやがった、こいつ。
というか当て馬活動ってなんだ。こっちは真面目に婚活しているだけだというのに。
「やっぱり婚約者、いいなあって……」
別れる直前の二人のやりとりを思い出す。
「僕も、あの方とあなたが結婚に至らなくて、本当によかったなと……」
「ふふふ、今更ながら、私もそう思いますわ。でも……」
そこでデイジーは頬を染めて目を伏せた。
「私たちを引き合わせてくれたことに関しては、感謝してもいいかなと思っておりますの」
当て馬をしたわけではないのに、完全に当てられた。
「早く私も、相手見つけなきゃ」
拳を握って誓うが、また余計な茶々を入れてくるのは従者である。
「おや、人の恋路の手助けをしているくらいですから、そちらは諦めたものかとばかり」
「別にそんなことないったら。うるさいなあ」
今回は彼の力にも大いに助けられたが、やはり、早いうちに大人と認めさせて、見返してやるぞと心に誓うコンスタンスであった。
コンスタンス・ガードナー、十四歳。未だ未来の夫は現れていない。
──本当に?




