よい仕事
次期男爵ニールは、最近いらいらが治まらなかった。すべては出来の悪い婚約者、オルガのせいである。
間抜けな顔をしているくせにガードが固くて、面白みのない服を着ていて媚びてもこない。家の金銭事情のために婚約したと両親からは言い含められているが、あんな女うんざりだ。
なので、何かと用事を言いつけてはやらせたり、家から商品を持ってこさせたり、さらには毎週のように連れ回しては放置したりして憂さ晴らしをしていたのだが……。
先日のパーティーから様子がおかしかった。何やら仕立てのいい服を着た男と楽しげに話していたのだ。浮気ではないだろうか?
しかもその数日後、こちらの用事は足が何とかで断ったくせに、こちらの行きつけのカフェで堂々と男と会っていたらしい。
しつけてやらねばなるまい。
だが、呼び出してもやってこない。
両親までも「最近オルガさんを見ないわね?」などと訝しむようになってきた。
こちらから足を運ぶのを待っているというのだろうか、まったく、手のかかる女だ。
ところが、家に行ってもオルガはおらず、使用人を問い詰めれば中心街の噴水広場へ向かったという。本当に腹の立つ女である。ニールは無駄足を踏まされることが大嫌いだ。
そっちがその気なら、行ってやろうではないか。
広場に着くと、噴水の周りに置かれたテーブルの一つにオルガがいた。ずかずかと近づく……と。
同じテーブルに座っているのは、あの男ではないか!
しかも、オルガから何かを渡している。ふざけるな、お前のものを他人に渡していいなどいつ許可を出した?
さらに、男が立ち上がってオルガに手を差し出す。オルガが応じて……
その手を取ったところでニールは叫んだ。
「お前! 浮気の現場を押さえたぞ!」
周囲にいた人々がざわついて、一斉にこちらを見た。浮気……?
ニールは声を荒げたまま近づく。
「何だその手は! 俺という婚約者がありながらおかしいだろう!」
しかし、オルガをエスコートしていたオリヴァーはまったくひるまなかった。
「彼女は足を痛めているのですよ。婚約者なら当然、ご存じのはずでは? 立ち上がるときに介助するのは紳士として当然の努めです」
そう言いながらオルガを立たせ、とどめに付け加えた。
「……ああ、その婚約者の方が原因なのでしたっけ?」
婚約者って、あの男が原因だってこと?
周りの野次馬にひそひそされて、ニールはわなわなと震えた。
「なっ……」
そもそも、反論されることすら想定していなかったのだろう。
ふう。立ち上がったオルガはため息をつくと、口を開いた。
「こちらは私の商談相手で、今日は商品の引き渡しのためにお会いしておりました。あなたにとやかく言われる筋合いはございません」
初めてオルガに反論されたニールは、かっとなる。
「ふざけるな! お前が俺にくだらない当てつけでその男と何度も会っているのは知ってるんだよ! やり返したつもりか!?」
「……やり返されるようなことをしていた自覚がおありで?」
野次馬がそうだよな、引くわ……などと言っているのは、わざと聞こえるようにしているのだろうか。この女のほうに原因があるというのに、察しの悪いやつらだ。
言うことを聞かないなら仕方ない。ニールは切り札を出すことにした。
「うるさい、逆らうな! 生意気な女は婚約破棄だぞ!」
婚約破棄……!? と引きつった声が上がった。
効果はあるに違いない。最近酒場で知り合った男が言っていたのだ。「地味な女は婚約破棄などという汚名を被ったら二度と嫁の貰い手はない、それを突きつければ何でも言うことを聞くだろう」……と。
得意げに言い放ったニールだったが、オルガは冷ややかだった。
「承知しました。それではあなた様と私はこれより一切、赤の他人ということで」
「はあ!? 婚約破棄だぞ、いいのか? お前はもう傷物で、どこにも行き場がなくなるんだぞ! わかったらひざまずいて許しを……」
立場を教えてやろうと言いつのるニールだったが、場違いに明るい少女の声がそれを遮った。
「まあ! では侯爵家からのお仕事に専念できますわね! なんてすてき!」
男の後ろから、小娘が現れたのだ。
「何だよお前は、どこから出てきた!」
「あら、先ほどからおりましたわよ? 婚約者のいらっしゃるお嬢様を、若い男と二人きりになどしませんもの」
見れば確かに、テーブルの上にティーセットが三客置かれている。
「……うるさいうるさい、何なんだよお前は!」
「この者と同じく、フルーセル侯爵ガードナー家の使用人ですわ」
あのフルーセル侯爵家……! と野次馬がざわついた。それに押されて、ニールもひるむ。
少女の口は止まらない。
「さっ、赤の他人は放っておいて、お屋敷の方で商談をいたしましょう。あちらに馬車を停めさせてますの」
そちらを見ると、確かにフルーセル侯爵家の紋章の入った馬車の姿があった。
ニールはあがく。
「赤の他人とは何だ、俺はその女の……」
「たった今婚約破棄を宣言した相手、ですわよね?」
うんうん、と群衆がうなずく。
「ぐっ……」
三人はそのまま、さっさと去っていく。ニールにはもう、なすすべもなかった……。
*
馬車の中、オルガはコンスタンスとオリヴァーと向かい合うように座っていた。
「お手数をおかけしてしまって、申し訳ありません。……これで、終わったのでしょうか……」
まだ不安げな様子に、コンスタンスはこのあとの話をしてやる。
「これから、うちの者がオルガさんのお宅におじゃまして、男爵家から邪魔の入らないよう後の処理をお手伝いいたします。善は急げと言うでしょ?」
オリヴァーも付け加える。
「婚約破棄まで引き出せるかは賭けでしたが、のせやすい性格で助かりました。あれだけ衆人の前で恥をかけば、本人はともかく男爵家の方では婚約の継続は難しいと判断するでしょうしね。そもそも彼が男爵位を継げるかどうかも未知数になりましたが」
その言葉に、オルガはようやくほっとした。……本当に、終わったんだ。
「何から何まで、ありがとうございます。このご恩はどうやって返したらいいか」
「いいえ! こんな腕のよくて将来性もある職人さんをご支援できるんですもの、我が家にとってもメリットはあるの。このまま母に会っていってちょうだいね、新しいハンカチも絶対喜びます。この前、私がいただいたものを見せたらすごく羨ましがられたんだから」
コンスタンスの勢いに、オルガはちょっと押されつつ、それでも笑顔を見せてくれた。
「……はい。私などで侯爵夫人のお眼鏡に叶うかはわかりませんが、精一杯務めさせていただきます」
オリヴァーも助言をした。
「お好きなように刺繍を楽しんでくださればよいのですよ。どのように売り出すかなどは、オークス商会さんとも相談の上、進めてまいりますから」
和やかなオリヴァーの様子に、コンスタンスは内心ちょっと、もやっとした。こんな空気も出せるんだ、私になにか言うときはなにか含みがあるか、ちょっと腹が立つ言い方しかしないくせに……。
淑女なので表には出せないが、そんなことを考えていたら、オリヴァーがちらっと目配せを送ってきたのに気がついた。
「……ああ、ええと」
対面に目をやって理解する。
「あら、オルガさん。髪に埃がついてる」
「えっ! そんな、お恥ずかしい……どこです?」
「あ、動かないで。今とってあげるから」
「申し訳ございません……」
いいえ、と返して手を伸ばしながら、コンスタンスは、少し前にもこんなことがあったなあと思い出していた。
……オリヴァーの真剣な視線が、脳裏に蘇る。
……もしここに自分がいなくて、オリヴァーしか埃をとってあげる人がいなかったとしたら。
あれをオルガも見ることになるのだろうか。
……私がいてよかった。
……ん、どうして? コンスタンスは自分の考えたことに違和感を覚え、とった埃の塊を手にしながら、ぱちぱちと瞬きした。
すかさず横から声がかかる。
「どうされましたか」
コンスタンスは我に返り、ぱっと埃を離した。
「え! ええと、何でもないけど!?」
ふうん、と訝しげながらもオリヴァーは追及しないでくれた。
……助かった。
よくわからないもやもやは残ったまま、コンスタンスは深く息をつくのだった。
*
その後、社交界にある作家の刺繍が流行することになる。その作家はフルーセル侯爵家が後援しており、作品を手に入れるには早くとも数ヶ月待ちになるそうだ。
次話からちょっと長めのお話に入っていく、かもしれません。




