ピンクの髪の男爵令嬢
ヘレナはバラ園を訪れていた。ちょうど秋に咲くバラの見頃である。
使用人一人を付き添わせての、久々の外出だった。
誰もこちらを見ていない。──落ち着く。
はあ。思わず大きなため息が出てしまって焦る。
使用人に心配をかけるわけにはいかない。
──今日はしっかり、気分転換しなきゃ。せっかくのお花なんだから。
新種のバラばかりを集めた一角がある、というのでそちらに足を向けてみる。
花々につけられている品種名を見ながら、これは確かにプリンセスみたいね、こっちはどういう意味かよくわからないわ……などとそれなりに楽しんでいた時、事件は起きた。
「ヘレナじゃないか」
男の声が聞こえ、はっと顔を上げる。
すぐ近くに、見たことのある青年貴族が立っていた。少し離れた場所では、連れと思われる女性が険しい顔でこちらを見ている。
「こんなところで会うなんて奇遇だな。さ、一緒に回ろう」
ずい、と近づかれる。
「さっき見た、滝の周りのバラが見事だったんだよ。案内するから、ほら」
腕を勝手に取られ、ひっと声が出そうになった。
「わ、わたしは一人で見ますから。お連れの方がいらっしゃるんでしょ?」
あの人、ずっとこっち睨んでるんですけど。
「遠慮するな、あいつとはもう回ったからいいんだよ。な?」
な、じゃない。
「さあ」
ぐいっと腕を引かれて足がもつれる。
「きゃ──」
「失礼、離してさしあげて。紳士の振る舞いとは思えませんよ」
低めの声が割り込んできた。
背の高い、黒い髪の令嬢が、男の手首を掴み、倒れそうになったヘレナをそっと支えていた。
*
コンスタンスは、アデルの屋敷を訪れていた。
「突然ごめんなさい」
「いいの、いつでもいらして! コンスタンスさんのためならいつだって予定を開けますわ」
「ありがとう。……いえ、あの、無理はなさらないでね」
すぐに応接間に通され、お茶が出てきてこのやりとりである。
「ふふふ。で、今日はどうなさったの?」
「ええと……ヘレナ・ヒギンズとおっしゃる方をご存知かしら」
名前を挙げると、アデルはああ、とすぐ思い当たったような顔になった。
「結構な噂になっているわね。その方のことで?」
アデルは社交好きで、若い人の間のことならば誰よりもよく知っている。
「ええ。そんなことが本当に起こっているのかなって」
「そうね……、殿方にとっては、本当に魅力的みたいね。どんな集まりでも、ヘレナさんがお出ましになると、十重二十重に囲まれていますわ」
アイリスの言うことを信じていないわけではなかったが、アデルの目から見てもそんな状況のようだ。
「そんなこと、あるのね……」
「普通はないわ。……でも──これはお聞きかしら。王太子が率先してお声をおかけになって。それで、殿方の間ではすっかり、そういった扱いをしていいのだ、という雰囲気になっておられるそうよ」
「まあ……」
どんな雰囲気だ、それは。
「もちろん、彼女にパートナーを奪われた形になったご令嬢たちからの視線は、かなり厳しいものになっておりますわ。当然ですわね。……それ以外の方も、男爵令嬢が身分をわきまえていない、と受け取られているようです。……そろそろ、ご年輩の方のお耳にも入る頃合いかと」
「なるほど……ええと、では、最近のことなのね?」
「そうね。彼女、二ヶ月ほど前だったかしら。外国からお戻りになったのよ」
「そうだったんですのね」
「あと、これは……私が見て思っただけなのですけど」
と前置いて、アデルは付け足した。
「……彼女、困ってらっしゃるようにもお見受けしたわ。まともな令嬢でしたら、さらし者にされているようなものですもの」
*
黒髪を背まで下ろし、濃い緑のドレスを着た若い淑女が、ヘレナと男の間に割って入った。
声は低く、背は高い。威圧感をおぼえたのか、男はわずかにひるんだが、それを隠すかのように声を張り上げた。
「誰だお前は。俺と彼女のことに口を出すな」
令嬢は平然としたものである。
「それはおかしいですね。彼女は未婚のご令嬢で、しかもここへは一人で来られたご様子。ここは花を愛でる庭園であって、そういった出会いの場ではありませんよ」
「もともと知り合いなんだよ。知り合いに会ったら、案内するのは普通のことだろ?」
令嬢はくすりと笑った。
「ええ。……あなたに連れがいないのであれば」
ちら、と先程こちらを睨んでいたご令嬢のほうに視線をやる。彼女は戸惑っているようだ。
緑のドレスの令嬢は、そのまま周囲を煽るように顎を巡らせて言う。
「さきほどから、注目を浴びていることに気づきませんか? 噂はすぐに流れますよ。先日もこちらで大恥をかいた方がいらしたでしょう」
そしてどうやったのか、するりとヘレナの腕を離させる。
「あなたもその二の舞になりたくないなら、今すぐお連れ様をエスコートしてここから離れることですよ」
男はちっと舌打ちを残してその場を離れていった。置いていかれたご令嬢が慌てて後を追う。
ヘレナは残った緑のドレスのご令嬢に声をかけた。
「あの、ありがとうございます」
「いいえ、助けるのが遅くなってごめんなさいね。あのような行動に出るとは思いもよらなかったものですから」
逆に謝られてしまった。ヘレナより頭一つ半は背の高いすらりとしたご令嬢だが、男を相手にしていた時とはまったく違う優しそうな物腰だ。
「とんでもないです! 最近、あんな方ばかりで困っていたのですけど、助けてくださる方なんていらっしゃらなかったので……」
ご令嬢は眉をひそめた。
「……あんな方に、よく遭われるのですか?」
「はい……」
「それは聞き捨てなりませんわね。……ご負担でなければですけど、どんなことがあったのかお聞かせくださるかしら」
「あ、はい。……えっとあの、お聞き苦しいと思いますけど」
つい、返事をしてしまってから心配になったが、令嬢は優雅に笑ってくれた。
「ふふ、それは大丈夫ですよ。でもそうね、場所を移しましょう。このバラ園のティーサロンではいかが?」
*
そんなことがあった数日後。ヘレナは貴族向けのバザーで、とある店の売り子を頼まれていた。
このような場には身分を問わず参加するのが恒例である。
その日も王太子がやってきて、しばらくヘレナが売り子をしている店に立ち寄ってから帰っていった。
「八割近くの時間、あの店の前にいたね」
囁いたのは会場に居合わせた、とある侯爵である。
「お店のほうもやりづらそうでしたわね。……彼女の評判を当てにしたのでしょうけど」
妻が応えた。
「客を捌く者も必要だったな」
侯爵は苦笑した。王太子のみならず、貴公子が入れ代わり立ち代わり店に立ち寄っては、長く滞留するのである。見込んだほど売り上げがあったとも思えない。
ピンクの髪の娘を遠目に見ながら判断する。
「憂慮すべき段階にきている、と見てよさそうだ」
妻は彼の袖を引いて耳打ちする。
「……あなた。彼女の、人を惹きつける能力なのですけれど」
「……君も感じたか」
「ええ」
「なら、本物だな」