一途な男
グレゴリー・オルブライトは最近知り合った令嬢、コンスタンス・ガードナーからの招待状を受け取った。
フルーセル侯爵家が確保している、劇場のボックス席への招待である。
思っていたより、大胆なご令嬢だ。劇場のボックス席は上演中は薄暗くなるし、カフェや展覧会に比べれば人目も少なくなる。
意外に感じながら、招待状の案内の通りに、指定の日時、指定の席まで赴く。
令嬢は先に到着しているようだ。……入り口に控える侍女に奇妙な既視感を覚えながら、席につく。
アデルは評判の若者向けの歌劇を楽しむため、劇場に来ていた。今日はコンスタンスの誘いなので、当然彼女と顔を合わせることになる。あの従者の言っていたことをどうしようかと、反芻しながら──先に入っていてほしいと指定のあった、フルーセル侯爵家のボックス席でコンスタンスが来るのを待った。
人の気配がして、振り返る。
「コンスタンスさん、本日はお招き……」
「……どうして、君がここに?」
先に立ち直ったのはアデルである。コンスタンスのことをよく知っていたゆえのアドバンテージとも言える。
「こ、コンスタンスさんのお招きですわ。追っつけやって来られると思います。おにいさま、とりあえずお座りになっては」
「……そうだな」
と従兄を席に落ち着かせながら、アデルは、今日コンスタンスがここに来ることはないかもしれない……と思っていた。
そしてそれは的中するのである。
*
評判の歌劇というのは、評判になるだけあった。従兄がいては楽しむどころではない……と考えていたアデルであるが、なかなかどうして、ちゃっかりしっかり堪能してしまった。
すでにカーテンコールである。夢中で拍手を送るアデルの横で、グレゴリーがつぶやいた。
「結局、コンスタンス嬢はみえなかったな」
はっとした。舞台の華やかな世界から、現実に引き戻される。
そして同時に、悟った。
たぶん、コンスタンスはアデルが気持ちを整理する機会をくれたのだ。それをふいにして、このまま帰るわけにはいかない。
意を決して、アデルは拳を握った。
「あの、おにいさま」
「なんだい?」
従兄の声音は記憶にあるものと変わらなくて、それを励みとして言葉を紡ぐ。
「コンスタンスさんとのご縁、応援しております」
「そりゃどうも。せっかくアデルが紹介してくれたからね」
グレゴリーは苦笑した。まったくもって、その通りだ。
だけど。
「……でも、本音すべてで、憂いなく応援したいから、聞いてくださいますか?」
勇気を出して続けた。優しく促される。
「うん、言ってみなさい」
もしかして、これを聞いたら彼はアデルを軽蔑するかもしれない。だけど。
「おにいさまのことを、お慕いしておりました。幼い頃の約束の日から、おにいさまの中ではそのようなつもりではなかったと知ったときまで」
「待って……約束って」
従兄は面食らった様子で、片方の手のひらをこちらに向けた。
「もしかして……結婚の?」
「ええ」
何のことだ、と言われることも覚悟したのだが、彼も記憶に残っていたようだ。
しかも、どうやらうろたえている。
「いや……きみはもうずっと、素っ気なかったじゃないか。どうして」
彼の反応を訝しく思いながらも、訊かれたことに答える。
「それは、おにいさまにその気がないとお聞きしたからですわ」
「え? どういうこと」
その時のことをたった今のように思い出して、じわり、と涙が目尻ににじんだ。
……本当は思い出したくもないのだが。じっと顔を見ながら促されるので、話すしかない。
「一年と少し前、おにいさまのおうちに伺ったときに、おにいさまご自身でおっしゃっていたではありませんか。『アデルとの話は幼い子供の口約束、戯れ言だ』と」
「それは──」
「立ち聞きなどして、はしたなかったですわね」
目元をさりげなく拭いながら、ごめんなさい、と謝罪したが、従兄は心ここにあらずといった風情で、拳を顎につけて考え込んでいる。
やがて、口を開いた。
「いや、申し訳ない。兄や友人からからかわれることが多かったんだ、お前は侯爵家へ婿入りが決まってるから気楽でいいよななどと……。そう言われたら、そうやって返す癖がすっかりついていた。きみが聞いたというその時のことははっきりとは覚えていないけど、たぶんそういったやり取りのうちだったと思う」
「いえ、よろしいのです。そうでもしなければおにいさまの本心が聞けなかったのですから」
「いや、違う!」
グレゴリーは声を強め、そしてすぐに我に返って、「すまない」と謝罪した。
「戯れ言なんて、本心じゃない。ぼくだって指折り数えて楽しみにしていたんだ……、きみがデビュタントを迎えたら、申し込みに行くのを……。でも、その前にきみとは疎遠になってしまって……」
まさか、そんな。都合のいい幻聴かしら?
ぬぐった涙が、また盛り上がってくる気配を感じ、こらえる。アデルはデビュタントも済ませた、立派な淑女なのだ。
「君に聞かせるつもりはなかったんだ……それが、まさか……。いや、きみを傷つけてしまったことの言い訳にはならないね。ぼくから距離を取るのも当然だよ。がっかりしただろう」
アデルは、ずっと憧れていた年上の男が、今やしょんぼりと肩を落としているさまを見ていた。
「今更だよな、こんなこと。それに、きみにはたくさんの縁談がきているんだろ、伯父上から聞いたよ……」
「いえ、いいえ!」
うなだれたグレゴリーがあまりにも悲しそうに言うので、とっさに声を張り上げてしまった。
……ああ、気持ちの整理なんて、とんでもなかった。
「縁談はすべてお断りしております。おにいさまのことを想ったまま、次へなんて気になれなかった」
「アデル……でも」
思わず、グレコリーの手を取る。数年ぶりに繋いだ手はあたたかかった。そっと握り返してくる力を頼りに思って、必死に聞く。
「おにいさまには、もう、あの約束は有効ではありませんか?」
「……そんなことはない。だが、……コンスタンス嬢のこともある」
この律儀な優しさも、アデルの好きなところだ。だけど、きっと今回は、その心配は無用だ。
「……たぶん、あのかたはすべてご存じです」
「……まさか、今日の招待は、そういうことなのか?」
察しのよいグレゴリーに、アデルは笑いかけた。たぶん、泣き笑い寸前みたいな顔になった。
「ええ! わたくしのお友達は、とてもすばらしい淑女なのです!」
*
そんな風にグレゴリーには請け合ったアデルだったが、翌日、コンスタンスから招かれて報告に訪れた時には、さすがに緊張した。
しかしコンスタンスは、アデルの顔を見るなり「うまくいったのよね! 本当によかった!」と手放しで喜んだのである。
これにはアデルも、昨日こらえたはずの涙が再びこみ上げてくるのをとめられなかった。
そして、この友人のためになることならなんでもやろう、と決意を新たにしたのだった。
そして、フルーセル侯爵邸を辞去するその時。
あの従者を見かけ、扇子で招いた。
「いかがされましたか」
慇懃に腰を折るオリヴァーに、アデルはささやく。
「このたびは、本当にお世話になりましたわ。ご恩は必ず、あなたのご主人に返させていただきます」
「いえ、勿体ないことでございます」
「……けれどね」
一礼して顔を上げた従者には、言っておかねばならないことがある。
察するところがあったのは、彼だけでなく、アデルもまたそうなのだから。
自分たちは、確かに『当て馬令嬢』の新しい武勇伝になってしまった。だけど。
当事者になったからこそ、見えてくるものもある。
──おそらく彼の暗躍によって、コンスタンスは縁談を逃しているのだ。
「あなたのそれは……、忠誠心や、庇護欲だけではありませんわね?」
従者は平然と微笑んだ。
「存じております」
*
オリヴァーはエイムズ侯爵家の馬車が車寄せを離れていくのを、内心苦笑しながら見送った。
何が、存じております、だ。
我ながら滑稽にもほどがある。
アデルが感じ取ったのは、身勝手な独占欲だろうか、それとも無様な恋着だろうか。
忠誠心や、庇護欲の合間に隠された、それ。
実のところ、オリヴァーが自身のそれに気付いたのはごく最近のことである。
──あなた自身のお嫁さん探し、とか?
主からその言葉が出た瞬間。
オリヴァーは生まれて初めて、生々しく、コンスタンス以外の女性を側に置き、睦み合う自分を想像した。
途端に、吐き気がこみ上げ、それを堪えることで精一杯になった。
主の前で、である。
そして、それは同時に、明敏なオリヴァーに一つの気付きをもたらした。
……これまで、その手のぼんやりとした想像の中には、常にコンスタンスがいたのだ、と。
オリヴァーは有能である。王国の影の次期首領はコンスタンスだとしても、実務面での元締めは彼になるだろう、と言われるほどに。
だから、いかにコンスタンスが敏いとはいっても、彼の動揺の内容までは気付かれなかっただろう。
ひとまずは平然を取り戻したように装って、……そして、考えた。
主に懸想するなど、不敬も甚だしい、なんてことは思わない。なぜなら我が家の者が本家に婿入りしたことも、逆に嫁をもらったこともある。
……だが、過去の例を置いておけば。オリヴァー個人としてはどうしても、コンスタンスに自分が相応しいとは思えない。
己の執着に無自覚のままこれだけの縁談を壊すような男である。──いつか、時が満ちればコンスタンスはこちらの妨害を越えてくれると信じているからこそだが──こうも執念深く、陰湿な男は、家業とは裏腹に日向で咲く満開の花のようなお嬢様には似合わない。
お嬢様に相応しい相手と、一点の曇りもなく幸せになってほしい。
その願いも、オリヴァーの心からのものであるのだから。
この想いは、どうにか葬り去らねばならない。
そう悶々とした日々を送っていたあの夜。
思いがけない言葉をもらった。
──私だって、オリヴァーのお嫁さんが、ちゃんとあなたのこと理解して、幸せにしてくれる人じゃないと許さないんだから。
──あなた、わかりにくいじゃない。一見愛想よくにこにこしてるみたいだけど、それって仕事柄でしょ。中身は意地悪だし嫌いなものも多いし、その分好きなものには一途だけど、自分からはなかなか手を出さないし。私たち家族ならわかってあげられるけど──
まったくもってその通りだ。なんという理解だろう!
オリヴァーは、すべてがどうでもよくなった。
すべてはお嬢様が悪いのだ。これは、慕わずにはいられない。
……想っているだけなら、いいのだ。自分を許してやることにした。何しろ一途、らしいから。気付けば高らかに笑っていた。
これからも、オリヴァーは主をお慕いしているし、縁談には手を回すし、そしてこの気持ちは隠すだろう──アデル嬢に早々に見抜かれたことを思えば、親や侯爵家の旦那様、奥様、ご隠居様にはもう筒抜けだろうが。
要はコンスタンス様にバレなければ、それでいいのだ。そしてコンスタンス様の思考を読んでごまかすのは、何よりも得意だ。
そして信じている。コンスタンスはいつか、自分の罠をかわして非の打ち所のない伴侶を見つけるだろう。
その時がきっと、コンスタンスが一人前になるときだ。
そうしたらその時、不埒な思いを抱える自分はどうするべきか、まだ決めかねているけれど──
オリヴァーは自分がしてやられる日を、楽しみに待っている。
その未来は、いつか必ずやってくる。
──ほんとうに?
アデル編は以上です!
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