第4話 ファーストコンタクトは最悪です
「っ……!?」
脳を直接揺らされたかのような衝撃が走り、タマキはその場に膝を突く。それまで荒れ狂っていた飢餓の衝動が力尽くで押さえ込まれ、その代償と言わんばかりに激しい頭痛に襲われる。
「ぐっ、何、がっ……」
痛みで顔を歪めながらなんとか起きあがろうとすると、目の前を単調な足取りで通り過ぎていく誰かの足が見えた。
その足の持ち主は腰を抜かしている厄獣の前に膝を突くと、平坦な声で会話を始めた。
「市民さん、困ります。駅で迷惑行為をされては」
「キッ、キィー……」
「そうですか、ママさんなんですね。お腹を空かせているお子さんのために。そうですか」
「キィー!」
「キュッ、キュキュッ」
淡々と事情を聞く青年のもとに、幼いイタチの厄獣が駆け寄ってきて、慌てて何かをアピールし始める。青年は小首をかしげながら答えた。
「あれ、あなた方がお子さんですか。命乞いしなくてもいいですよ。窃盗未遂で駆除対象になることはそうそうありません」
「キィー……」
言葉だけでこちらを無効化し、当然のように厄獣と会話するその姿に、タマキは驚愕をにじませて言葉を紡ぐ。
「舌禍……!」
そんなタマキの声が届いたのか、青年は振り返る。感情の動きが一切読み取れないその顔は、地下鉄で見せられた映像に出てきた「シータ」という男と一致していた。
シータはタマキを軽く一瞥すると、すぐに振り向いて厄獣との会話に戻ってしまった。
「困ったことがあれば、このチラシを市役所にお持ちください。僕のように通訳ができる職員も常駐しておりますので」
完全に無視された形になったタマキは、苛立ちもあらわにふらふらと立ち上がる。
そんな彼を正気に戻したのは、足下から聞こえてきた少女の声だった。
「お、おにいちゃん、泥棒さん捕まえてくれてありがとう!」
「……えっ」
上ずった声でお礼を言ってきたのは、厄獣に荷物を盗まれたあの少女だった。胸元にプレートがないということは、厄獣の近親者ではあるがそれほど有害ではないということだろう。
「本当にありがとう! おにいちゃん、かっこいいね!」
刃によって切り裂かれたカバンを大切そうに抱えた少女に屈託のない笑顔を向けられ、タマキは咄嗟に何も答えられなかった。
彼女はタマキのことを、荷物を取り返してくれたヒーローだとでも思っているのだろう。
だがその内実は、自らの「飢餓」をコントロールできなかった愚か者が一人いるだけだ。
ましてや感謝をされるいわれなんて、自分には――
「私ね、道引チカ! おにいちゃんは?」
「俺は……」
自己嫌悪から胸を張って名乗ることができず、タマキは口ごもる。そんな彼の代わりに彼女の疑問に答えたのは、シータの淡々とした声だった。
「東雲タマキ元一等捜査官ですよね」
「……は?」
わざわざ「元」をつけてこちらを呼んだシータを、タマキはきつくにらみつける。
ぴりぴりとした不穏な空気があたりに満ち、ようやく騒動に気づいたチカの母親が慌てて彼女を迎えにきた。
「ありがとうございました! ……チカ、行くわよ!」
「う、うん……」
こちらを気にしながら去っていく母娘を視界の端で捉えつつも、タマキは油断なくシータの様子をうかがった。
「厄獣討伐のエリートである首都防衛隊で問題を起こしてトコヨ市に左遷された、東雲タマキ元一等捜査官の顔写真と一致していると思ったのですが、違いましたか?」
人形のように固まった表情で問いかけてくるシータの胸元には『舌禍』のプレートが光っている。
舌禍。三大災厄の一つ。自分よりも弱い存在を無条件に服従させることができる危険能力。
その威力は、つい数分前に味わったばかりだ。
腹立たしいことに自分よりも強者であるらしい彼に、険しい声色でタマキは問いかける。
「……いいえ、その通りです。アナタは?」
シータは一度まばたきをすると、ロボットのようなぎこちない仕草で一礼した。
「トコヨ市役所、生活安全課、厄獣対策室の鳥羽シータです。僕のことはシータ先輩と呼ぶように」
「はあ?」
「自分はトコヨ市役所の先輩、タマキくんはエリート部隊の元一等捜査官であり、年齢としても僕より年上ではありますが、この町では右も左も分からない新入りの後輩です。そのため、僕のことはシータ先輩と呼ぶのが自然かと思います」
「……アナタ、それは俺に喧嘩を売っているんですか」
わざわざこちらの神経を逆なでするようなことを口にするシータに、タマキは臨戦態勢になった猫のような仕草で食ってかかる。一方、シータはそんなタマキの形相に圧倒されることもなく、不思議そうに小首をかしげた。
「いいえ? 売っていません。それから『アナタ』ではなく『シータ先輩』です。聞こえませんでしたか、タマキ後輩?」
タマキの眉間に、はっきりと青筋が立ち、シータのことを完全に敵として認識する。しかしいくら凄んでも、シータのぼんやりとしたポーカーフェイスは崩れない。
そんな一触即発な空気を切り裂いたのは、能天気な女性の声だった。
「はーい、そこまでそこまで。元気があるのはいいことだけど、ここ公共の場だからねー」
「ココさん」
シータはタマキから視線をずらし、自分がココと呼んだ女性へと目を向けた。
食えない笑顔を浮かべた低身長のその女性は、二人の間に割って入ると、タマキへと手を差し出した。
「初めまして、東雲タマキくん。私は無盾ココロ。厄獣対策室の職員だよ。気軽にココちゃんって呼んでね?」
「コ、ココちゃん……?」
フレンドリーに差し出されたココの手を、思わずタマキは握り返す。頭の中は困惑でいっぱいだったが、地下鉄の映像の撮影者だということには辛うじて思い至った。
「ココロじゃなくてココって呼んでほしいのは、名字とつなげるとナタデココみたいで可愛いからなんだよね。シータくんもそう思うでしょ? 可愛いよねー?」
「はあ、そうかもしれませんね」
「でしょー?」
緊迫していた空気は飄々としたココの立ち振る舞いによって吹き飛ばされ、生まれつき頭が硬い方であるタマキは目を白黒させることしかできない。
そんな状況をさらに一転させたのは、情けない男性の悲鳴だった。
「ええっ!? サクラマス通りでテンたちが暴動ぉ!?」
素っ頓狂な声を上げてスマホに叫んでいるのは、同じく地下鉄の映像に出演していた初老の男性だった。名前はたしか、安穏だったはずだ。
「一応抵抗してみますけど、それウチの管轄じゃないんじゃ……そもそも集会の許可申請とか市民課に来てないんです? もし来てるなら穏便なデモが誤解されてるだけって可能性も……ああ、来てない……そう……。緊急性と危険度が高いから現場慣れしてるウチに回すと……はい……」
どうやら電話相手との交渉に負けてしまったらしい安穏は、電話口だというのに情けなく縮こまりながら何度も頷く。
そしてさらに数十秒の通話の後、電話を切った安穏はバッと顔を上げてシータを見た。
「シータくん! 悪いんだけど、今からサクラマス通りに行って、時間を稼いできてくれない!? ここにいる職員、何人かヘルプで連れて行っていいから!」
シータは目をぱちくりとさせた後、少し沈黙し、それからタマキを無遠慮に指さした。
「では、彼を連れて行きたいです」
「は?」
突然話を振られる形になったタマキは、間抜けな声を上げてシータを見る。提案を受けた安穏にとっても予想外の申し出だったようで、安穏は遠慮がちな目でタマキを伺い始めた。
「えーっと……もしかして君が東雲タマキくん? まだ自己紹介も初心者講習も済ませてないのにいきなり実践とかそんな……何かあったら責任問題だし……」
ぶつぶつと考え込む安穏にどう答えたらいいか分からず、タマキは棒立ちになる。ココはそんなタマキにすすっと近づくと、耳元で囁いてきた。
「この人は、厄獣対策室の室長の安穏ヒルオさん。タマキくんはうちへの配属が決まってるから、君にとっては直属の上司になるね」
ハッと正気に戻ったタマキは、勢いよく首都防衛隊式の敬礼をした。
「失礼致しました! 本日よりトコヨ市に異動となりました東雲タマキです! なんなりとご命令ください!」
「タマキくんは厄獣討伐の元エリートですから問題ありません。もし何かあっても先輩である僕がついていますし。僕は先輩ですから新入りのタマキくんより頼りになります。先輩が後輩を守るのは当然ですので」
自分の挨拶を遮ったあげく、わざわざ先輩であることを強調するシータに、タマキは苛立ちの目を向ける。安穏は苦笑した。
「シータくん、君ねえ……」
呆れた顔を隠さずに苦笑する安穏に、タマキは勢いよく頭を下げた。
「室長、行かせてください! ここまで言われて引き下がれません! お願いします!」
「お、おお……体育会系だね……」
安穏は明らかにドン引きした仕草をした後、大きく息を吐いて二人に向き直った。
「分かった。じゃあここは二人にお願いするね。ただし! 危ないことは絶対にしないこと! 余計なことをして問題を大きくしない! 他職員が到着するまでの時間稼ぎに徹してね! 喧嘩もなしだよ! 約束だよ!」
「はい、分かりました」
「了解致しました!」