第1話 暗がりから手を伸ばしているようです
自分というものがいつ発生したのか、正確なところは分からない。
分かっているのは、自分がとても曖昧で弱い存在だということだけだ。
それこそ、すぐ近くを強いものが通るたび、まるで風に煽られたろうそくの火のように呆気なく掻き消えてしまいそうになるぐらいには。
そもそも自我を明確に獲得するのも年に一度、世界の境界が曖昧になる期間だけ。それ以外は文字通り、ただの物言わぬ物体だ。
動くことすらできないので身を隠すすべもなく、幾重にも重なる帳の向こう側を通りがかる強大な存在たちが、どうか気まぐれを起こしてこの部屋に入ってこないことを祈るしかない。
だが、自分はそれを不満に思っていなかった。部屋の外に世界が広がっていることは知っていたが、それに興味を覚えることも、憧れることもなかった。
物陰でひっそりと咲く花のような、停滞した日々。
そんな淀んだ時間を変えたのは、小さくか弱い侵入者だった。
「わあ、紫色ですね」
自分を覗き込んでそんなことを言うのは、まだ幼い少年だった。
人間だと仮定すれば、7歳ぐらいだろうか。その顔全体の印象には感情らしきものがあまり浮かんでいなかったが、目にほんの少しだけ宿った好奇心の光が、無邪気にこちらを観察していることは分かった。
少年は不躾にこちらを眺めまわし、指でつついたりして遊んでいるようだ。対する自分もまた、そんな少年を興味深く観察していた。
ぎこちなく手足の動きを真似して、こちらを伺う少年のほうを見る。少年は目をぱちくりとさせたが、すぐにこちらの様子を受け入れたようだった。
少年がこちらを試すようにそろそろと動くのをさらに真似し、自分も手足を動かす。それならばと、さらに変な姿勢を取った少年はバランスを崩してその場ですっころび、自分は彼を真似するのも忘れてくすくすと笑った。
互いに自分の顔を引っ張ってにらめっこをしたり。
こちらの裏側に興味を持った少年に体をいじられて、威嚇をしたり。
カーテンの後ろに隠れて、こちらを脅かそうとしてくる少年に、逆にそれを迎え撃って恐ろしい姿で脅かしたり。
だが、そんな愉快な時間もすぐに終わりを迎えた。
分厚く閉ざされた帳の向こう側。とても強くて大きな存在が、美しい声で呼びかけてきたのだ。
「……シータ、どこ~? 帰るわよ~?」
「お母さん」
シータと呼ばれた少年は、母親の声に従って、ぱたぱたと足音を立てて去っていってしまった。
残されたのは舞い上がったほこりと、閉め忘れたカーテンの隙間から差し込む一筋の夕日だけだ。
数刻にも満たない短い交流。だけど彼が去った後、自分はひどく『寂しい』と思った。
少年が触れた指の温かさを知ってしまった。彼を優しく呼ぶ母親の声の柔らかさを知ってしまった。
羨ましくて、まばゆくて、もう一度触れてみたくて。
――だから、僕は手を伸ばすことにしたのだ。




