第26話 悪夢は彼を蝕んでいます
「あっはっは! そんなこともあったねぇ!」
手を叩いて爆笑しているココに、タマキは微妙な目を向けた。何しろたった今、ココのことを格好いい先輩だと思ったという話をしたばかりだったので。
「も~、そんなに後輩に慕われるなんて、やっぱり私の人徳ってすごいよねぇ」
「む。僕も人徳はあります。僕もタマキ後輩から慕われたいです」
後輩という単語に目ざとく反応したシータが便乗してそんなことを言い出す。タマキは頭が痛くなる思いをしながら、どうやってこの状況を切り抜けようか考え始めた。
その時、部署の入口から情けない男性の声が聞こえてきた。
「ええ、ちょっとぉ……。なんでまだ三人とも帰ってないの?」
そこにいたのは、急な出張でトコヨモーターに顔を出した帰りの安穏だった。
上官を視界に入れたタマキは、反射的にビシッと敬礼する。
「安穏室長、お疲れ様です!」
「ああうん今日も元気だね……」
まあまあとタマキを手で制しながら、安穏は三人のもとに近づいてくる。
「それでどうしたの? 残業するようなことあったっけ。夜は危ないから、早めに帰らないとダメだよ」
「うっ……」
ド正論を突きつけられ、タマキは小さく呻く。すぐに答えられなかったタマキの代わりに、シータが勝手に説明した。
「実は明日の全体会議用の報告書ができていないらしく」
「えっ!?」
「食人植物についてはタマキ後輩に任せるという話でしたので、勝手がわからないまま苦心していたという経緯です」
「えええっ!?」
安穏は素っ頓狂な声を上げながらタマキを見て、それから自分の頭を押さえながら、うめき始めた。
「あー、それはそっか……タマキくん、事務経験ないし、何日か怪我で休んでたもんね。書く時間もないし、やり方もわからないよね……」
「はい……」
落ち込んだ大型犬のように肩を落とすタマキに、安穏は一つ咳払いをしてから告げた。
「今回はかなりこっちに非があるけど、今後、やり方がわからないことがあったら、すぐに僕たちに聞いてね! 相談されなかったら、こっちも動きようがないからね!」
「はい、分かりました……」
相談しないと動きようがない。
助けを求められなければ、助けられない。
そして市役所職員は、そのために尽力しなければならない。
だというのに職員である自分自身がそれを実行できていなかったことを悟り、タマキはさらに肩を落とす。
安穏はそんなタマキを見て、シータとココにあわあわと視線で助けを求めた。
「えっ、ぼ、僕、言い過ぎちゃったかな、パワハラで厄対から退職者なんてなったら……」
「そんなことありませんよ。タマキ後輩が弱いだけです」
歯に衣着せぬ言い方でシータが言い放ち、タマキはがんっとショックを受けて固まる。隣のココが流れ弾で爆笑しはじめた。
「ぶっ、ふふ……容赦ないなぁ、シータくん……」
「ありがとうございます。照れてしまいます」
褒められていると思い込んだシータが照れ始め、珍しく拗ねたタマキがむっと顔をしかめ、事務所内はさらに混沌の渦に飲まれていく。
やがて窓の外の夕日が最後の光を放つ頃になって、安穏はようやく話を切り出した。
「それで、あとはどの事案が残ってるの? 僕も手伝うよ」
上官じきじきの助力の申し出に、タマキはとっさにそれを断ろうとしたが、自分が今抱えている報告書の内容を思い出して、すんでのところで踏みとどまった。
「助かります。最後の事案は、俺も知らない部分が多いので……」
*
目を開いた瞬間、ここは自分の夢だと確信した。
小さなアパートの一室。畳の上でおもちゃの人形を戦わせて遊んでいる自分。窓から差し込む夕日。台所で母親が夕食を作る音。
すべて、遠い過去に失われた光景だ。
『タマキ、ごはんよー?』
『えー! まだ遊ぶ!』
『こら、駄々こねないの。先にごはん食べないと、夕方のアニメはなしよ?』
『ううー……』
幼い自分がわがままを言い、母親に優しくたしなめられる。もう戻らない平穏な時間。それを壊したのは、突然ドアを蹴破って現れた重装備の人間たちだった。
『首都防衛隊だ! 大人しくしろ!』
母はとっさに、俺の体を抱えて後ずさった。防衛隊を睨みつけるその目は覚悟に満ちており、俺は不安になって母を呼んだ。
『……ママ?』
『タマキ、大丈夫よ。絶対に、ママが守ってあげるからね』
言うが早いか、母親は俺を抱えて窓から飛び出した。遠ざかっていく我が家からは銃声が響き、こちらを殺そうとしているのだと幼い自分にも理解できた。
それから先は、断片的にしか思い出せない。
母親は俺を連れて逃避行を始めた。まともな寝床も確保できず、寒い夜には母親に抱きしめられて暖を取る毎日。
俺は不安で押しつぶされそうだったが、母親が一緒にいてくれるから耐えられた。
だがそんな日々は唐突に終わりを告げる。
母が、首都防衛隊に捕らえられ、一緒に行動していた息子の自分も彼らに『保護』されたのだ。
俺を保護した連中は、母のもとに帰りたいと泣く俺に何度もこう言い聞かせた。
『君の父親を殺したのは、東雲マドカだ。あいつは厄獣だ。人間の敵だ。君をいつか食うために育てていたんだよ』
最初は、そんなものは嘘だと思っていた。だけど彼らは執拗にその言葉を俺に刷り込み、いつしか自分の中には厄獣への憎しみが芽生えていた。
俺が無事、厄獣への憎悪を抱いたと判断した彼らは、首都防衛隊の捜査官としての教育を俺に受けさせ、幼い頃から戦場に駆り出した。
それに恐怖を抱いたとしても、自分にはここ以外に居場所はないと教え込まれた。与えられる情報を操作されて、厄獣への憎しみそのものをさらに増幅させられた。
それでも心のどこかで冷静に自分を見ることができたのは、殺されたのだという父の死体も、獰猛なのだという母の厄獣としての本性も、実際に目にしていなかったからかもしれない。
それでも――母への憎しみだけは、捨てられない。
今となっては、母と自分をつなぐものは憎悪しか存在しないのだから。
そんなどっちつかずの感情を抱えたまま、任務にあたっていたのがいけなかったのだろう。
最後の任務で俺は捨て駒にされ、そのまま死ぬはずだった。だが、幸か不幸か俺は生き残った。代償として、『飢餓』を発現して。
『残念だよ、東雲タマキ』
『ここまで育ててやったのに恩知らずめ』
『もうお前の居場所はない』
『たとえトコヨ市に行ったとしても、お前を受け入れてくれる場所はない』
『トコヨ市の連中も、お前を使い捨てのコマだと思っている』
『お前は、人間からも厄獣からも疎まれる、混じり物なのだから』




