8
十日後。次の復讐日がやってきた。
わたしは今日も悪役令嬢として暗躍する。
昼休み、ユージーン殿下とマルゲッタ様が噴水前のベンチで乳繰り合っていることは周知の事実だ。
互いの腰に手を回し、濃厚なキスを重ねる。蜂蜜事件のあとマルゲッタ様は立腹だったらしいけれど、殿下が高価なバッグを買い与えたことで和解したという噂を耳にした。
学園内には彼らの逢瀬の邪魔をするとコルネリア様のように排除されかねない、という空気があるためか、好天にもかかわらず噴水前には人っ子一人いない。――透明になったわたしを除いて。
「今日も美しいね、マルゲッタ。コルネリアのように何を考えているか分からない冷たい女より、百倍も愛らしい」
「ユージーン様のいじわる。他の女性の名前を出さないでくださいまし」
「悪かった、すまない。詫びのキスだ」
男と女の唇が近づいたところで、二人の目の前で息を潜めていたわたしは握りしめていた糊の容器にぎゅっと力を加える。
「――――!?!?」
とろりとした感触に気がついたときには、二人の唇はぴたりとくっついて離れなくなっていた。
「ふんあなんんななな!? (なんだこれは!?)」
「ななななんんんっっ! (離れませんわっ!)」
上手くいった。笑い声を押し殺しながら現場を離れ、遠巻きに事態を見守る。
騒ぎに気がついた生徒たちがなんだなんだと集まり始めたものの、熱烈なキスをかましている二人を見つけると、気まずそうに去っていく。盛り上がっているところ申し訳ないといった表情だ。
助けてほしい殿下とマルゲッタ様は必死でうめき声を上げるけれど、なかなか伝わらない。最終的にはキスをした状態のまま、どよめく学園内を移動して救護室に入っていった。
ほとんど全校生徒に失態を目撃され、「なあに、あれ?」「さすがにはしたないわね」「見境がなくって嫌ね」と後ろ指差されたことで、大衆の面前で婚約破棄された時のコルネリア様の気持ちが少しは理解できたかしら、と胸がすいたのだった。
一仕事を終えて満ち足りた気持ちのまま、放課後いつものように図書室に向かう。
席について課題を取り出そうと鞄を開けると、思わず口から声が漏れた。
「うわっ! あ~、やっちゃった……」
昼間に使った糊が鞄の内側にべったりと付着している。蓋をきちんと閉めていなかったのだ。
(洗って落ちるかしら? 新しいものを買うとなると、コルネリア様にご迷惑をかけてしまうわ)
お優しいコルネリア様はもちろん許してくれるだろうけど、そういう問題じゃない。推しに余計な迷惑をかけるなんてファン失格だ。
最近は少しはお役に立てていたようにも思っていたけれど。まだまだわたしは駄目駄目だ。情けなさから泣きそうな気持ちになってくる。
「あっ、あの。どうかしましたか? いや、あの。やっちゃったと、声が聞こえたので。なにか困っているのかと……」
声を掛けてきたのは、丸ぶちメガネ君だった。
牛乳瓶の底のような曇ったメガネに、銀色の輝くような髪。石ころと宝石のようなアンマッチな組み合わせが目を引いた。
彼も図書室の常連だからお互いに存在は知っているけど、会話をするのは初めてだ。
以前コルネリア様とやりとりしていた様子から、コミュニケーションは苦手そうだったのに。そんな人が勇気を出して声を掛けてくれたと思うとなおさら嬉しく感じられて、半泣きだったわたしの目からはとうとう涙がこぼれ落ちた。
どれだけ鞭打たれても涙は出なかったのに。親切ひとつで涙腺が決壊するなんて不思議なことだった。
「あっ、えっ! ごめんなさい。僕、何か余計なことを言いましたか?」
「……いいえ。すみません。なんでもないんです。えっと、鞄に糊があふれちゃって。思わず声が出ちゃったんです」
ごしっと制服の袖で目をぬぐい、にこりと笑ってみせる。メガネ君は自分が失言したわけではないと分かって、引き結んだ形のよい唇の端をほっと緩めた。
「よ、よかった。それで、鞄ですね。失礼。ちょっと拝見しても? ……あっ、この糊だったら、確か中和剤の作り方がありますよ」
メガネ君はまっすぐに三列目の本棚に向かい、一冊の分厚い本を持って戻ってきた。目次を参照して当たりをつけ、綺麗な指でパラパラとページをめくる。
「あっ、よかった。載ってました。これですね」
メガネ君はぽりぽりと頬かいた。
「……よかったら僕、作ってきましょうか? こっ、これ、差し上げます。その、お疲れのようですから。食べてゆっくり待っていてください」
今にも爆発しそうな爆弾でも持っていたかのように、メガネ君は素早くパッと机に小さなものを置いた。
――キャンディだわ。
わたしはこの赤い包装紙を知っていた。ミアが食べたい食べたいと騒ぎたて、買いに走らされた人気店のものだ。完熟りんごの果汁を最高級の砂糖から作った水あめで練って固め、サクサクの糖衣をまぶしている。ミアとお母様が食べるのを眺めていただけだけど、芳醇なかぐわしい香りだけで喉が鳴った記憶がある。
メガネ君も流行りの菓子を買っているのかと思うと、失礼ながら意外だった。
けれども、ここは貴族の子供が通う学園だ。特に、王都に位置するこのセボーン中央学園は高位貴族の令嬢令息の割合が多い。世間知らずなのは、見栄っ張りな両親によってねじ込まれた自分だけだろう。
「これ、王都の有名店のお菓子ですよね。こんな高価なものいただけません。お気持ちだけで十分ありがたいです。中和剤も、やり方が分れば自分でできます。ご迷惑おかけしました」
「いえ、これは貰い物で……。あっ。ごめんなさい。貰い物を貰っても嫌ですよね。ああ、これだから僕は……」
上手く話せない自分にメガネ君は幻滅していた。存外広い肩を落とし、しょんぼりと項垂れている。
その様子はなんだかご主人に叱られた犬のようだった。
メガネ君の親切と可愛らしい姿に、いつの間にかわたしは前向きな気持ちになっていた。
「ふふっ。……あなたとお話ししていたら、元気になってきました。いつも図書室にいらしていますよね。もしよかったら、本の話でもしながら一緒に中和剤を作っていただけませんか? 生憎お礼できるものはないんですけれど、おすすめの本でしたらお教えできますよ」
「あっ! えっ! い、いいんですか。ぜひ!!」
メガネ君は不思議なくらい喜んだ。きっととても本が好きなのだろうと温かい気持ちになる。
さっそく実験室に移動して、和やかな雰囲気のまま中和剤を作り始める。本についての会話は弾み、お互いに好きな本を教え合った。好みの傾向が似ていることでさらに盛り上がり、メガネ君は「この本がお好きなら、あの本もおすすめですよ」などと豊富な知識を披露してくれた。
(いつも座っている姿しか見ないから、立って並んでみるとすらりと背が高いのね)
入学してまもなく一年が経つ。初めて友達のような存在ができたことが嬉しかった。背の高い彼を見上げるような形で隣に立ち、途切れることなく話は続いた。
――べちゃべちゃの鞄がすっきり綺麗になるころには、窓の外は茜色の夕焼け空になっていた。
「ごめんなさい。わたくし、楽しくて喋りすぎてしまいました」
「ぼっ僕も楽しかったです。今日はもう、か、帰りましょうか」
連れだって校門を出て、帰路につく。
「……あっ、あのう。つかぬことをお伺いしますが……。あの糊は、もしかして第一王子に?」
メガネ君も昼間の騒ぎは知っていたらしい。
わたしは彼になら打ち明けてもいいかと思い、肯定した。
「はい。……褒められたことではないと自覚しておりますが、大好きな推し――ゲフンゲフン。敬愛するコルネリア様が悲しんでいるお顔を見たら、居ても立っても居られなくなりまして。これまで自分のことならいくらでも我慢ができましたけれど、大切な人が傷つけられて黙っているような人物にはなりたくないと思ったのです。悪役令嬢の見習い中なのですわ」
「あっ、悪役令嬢?」
突飛な話に驚くメガネ君。このことは秘密にしてくださいね、と念を押すと慌てて頷いた。
しばらく沈黙が流れ、夕焼けがわたしたち二人の影を黒く伸ばす。
この話はもう終わったのだろうと思っていたとき、ふいに彼は立ち止まった。
「悪役令嬢、ぼっ、僕は悪くないと思います!」
「えっ」
力強い言葉に驚いて、背の高い彼を見上げた。
沈みかけた夕刻の太陽が、いつもどんよりと曇ってみえる二つのガラスをきらきらと浮き上がらせる。
メガネから透けて見えたのは、熱々の溶けたバターのように濃厚で、澄んだ黄金色の瞳。彼の白銀の髪と夕焼けの赤が混じり、手を伸ばしたら消えてしまいそうな儚い彩りの美青年がそこにいた。
――どきん、と強く胸が鼓動した。
「……まっ、まあ! ありがとうございます! 頑張りますわね」
なぜだか彼を直視できなくなってしまい、ぱっと目を逸らす。ドキドキを誤魔化すように早口で返事をした。
そのあともぽつりぽつりと何てことない会話をしたのだけど、左右の耳をすり抜けていき、内容は全く頭に入ってこなかった。
「それでは。本日はお助けいただきありがとうございました」
「僕こそ、た、楽しかったよ。鞄が直ってよかった」
メガネ君のお屋敷は公爵邸より中心部だと言うので、家の前で彼と別れたのだった。