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宰相様の部屋に異変が起こったのは、すっかり日が暮れて空に星が見え始めたころだった。
朝一番から部屋に潜んでいたので、「カチャ」という小さな音が聞こえた時、ぼうっとしていた意識がはっと引き戻される。
照明が落とされた暗く静かな室内。目を凝らすと、ドアが少しずつ、じわじわと開いていくのが分かった。
ドアの隙間から廊下の照明の光が漏れ入る。
闖入者は顔だけをそっと覗かせ、中に誰もいないことを確認すると、さっと素早くドアを開いて身を滑り込ませた。
(――――!!!!)
長身にがっしりとした体つき。腰まである長い黒髪を一つに結わえた特徴的な髪型。
それはまさしくバロンド侯爵様、その人だった。
侯爵様は硬い表情のままつかつかと執務机に進み、ためらいなく引き出しを開け始めた。
一切遠慮のない手つきで書類を漁っていく姿に、背筋が凍るような感覚になる。
固唾を呑んで見ていると、侯爵様は一番下の引き出しから鍵のついた箱を取り出し、にやりと不敵に笑った。
「ふん。宰相も耄碌したな。鍵付きの箱に、鍵をかけぬとは」
鍵がかけられる入れ物だけれど、鍵は開いたままぶら下がっている。――もちろんわざとだけれど。宰相様は学園長としても宰相としても現役バリバリで働いているし、親書を盗まれてからは貴重品の管理は徹底するように対策を取っている。
侯爵様は箱の中身を確認し、探しているものだと認識すると、一旦部屋の外に出てもう一人男性を呼び入れた。
その人物を見て、わたしは思わず二度見した。
(おっ、お父様じゃないの!)
思わず声が漏れそうになり、慌てて口元を抑えつける。
(ど、どうしてお父様が)
実家を叩き出されてからおよそ半年間、一度も会っていないお父様。予想外の展開に脈が上がっていく。
疑問の答えはすぐにもたらされた。
「これを写し取れ」
「はっ」
お父様は持っていた紙とペンで、素早く計画書の内容を写し取り始めた。
(――ああ。そういうことなのね)
わたしは状況を理解した。
お父様の魔能は速記だ。普通の人の十倍の速さで文字を書くことができる。没落する前は、議会の書記官として働いていた。
二度も計画書を盗むとさすがにまずいと思ったのだろう。今回侯爵様は、盗まずに内容を書き写して持ち出すことにしたらしい。それで、没落して生活に困窮していたであろうお父様を雇ったというわけだ。
暗がりで一生懸命文字を写し取るお父様は、ずいぶん小さく見えた。
頬はこけ、なんだか頭も白くなったように見える。窓から入る月の光を反射しているだけには思えなかった。
家族に対する情はもうないと思っていたけれど、いざ目の前にすると、込み上げるものがあった。
特にお父様は、直接わたしを虐げていたわけではなかったから。落ちぶれてしまったことを実感して胸が痛む。鞭打たれて叩き出されたときは屋敷にいなかったから、最後にお父様を見たのはあの日の朝。いつもと変わらず、書類を読みながら珈琲を飲んでいた姿だ。
(仕事には真面目なお父様だったのに。悪いことだと分かっていても、言うことを聞くしかなかったのね)
真面目な性格ゆえに、今はもしかしたら、お母様とミアのために悪事であってもお金を稼がないといけないのかもしれない。お父様の境遇を想像すると、もうだめだった。
頬にはいつの間にか涙が流れていて。そしてわたしは――――無意識のうちに、鼻をすすってしまったのである。




