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メガネを失った殿下。すぐそこに落ちているにもかかわらず、拾うことはしなかった。
メガネの代わりにカートに乗ったティーポットを手に取り、ふんとわざとらしく鼻を鳴らす。金色瞳がぎらりと妖しく光った。
「ローズ嬢。これが最後の通告だ。僕は君なんかと婚約するつもりはさらさらないから、今すぐ帰りたまえ。でないと、うっかり君に熱々の紅茶を溢してしまいそうだよ」
「…………???」
ローズ様は何を言われたのか分からない様子でぽかんとしている。さっきまでの余裕たっぷりの態度はどこかへ吹き飛んでいた。
「あれ? 聞こえなかった? それならもう一度だけ言おうか」
殿下は切れ長の目を細め、低い声ではっきりと口にした。
「僕、君のこと、全く好みじゃないから。迷惑だから二度と来ないで。これはお願いではなく、王子としての命令だ」
「……っっ!!!!」
ようやく何を言われたか理解したローズ様は真っ赤な顔になって立ち上がり、殿下の右手のティーポットを奪い取る。そして勢いよく床に振り下ろした。
ガシャンという大きな音と共に白い磁器が粉々になり、絨毯にはみるみる染みが広がっていく。
ヨセフ様がドアの隙間からこちらを覗き込み、何事かという顔をしたものの、ローズ様のお顔と殿下のお顔を見比べると、そっとドアを閉じた。
プライドを傷つけられたローズ様は怒りを爆発させた。
「なによ! あなたみたいな地味で冴えない男なんか、わたくしから願い下げよ!! お父さまの指示さえなければっ……!!!!」
そこまで言ってローズ様は急にぴたりと言葉を止めた。まるで、言ってはいけないことを口にしてしまったかのように。
「ふん。君の好みなんて、世界で一番どうでもいい情報だな」
「まあ! 失礼極まりないですわね。普段はそのひねくれた性格を隠しておられるのかしら? 懸命な判断ですわね。そんな性格だと知れたら誰にも受け入れられないでしょうから」
馬鹿にされたことが余程悔しかったのか、ローズ様の口はなかなか閉じない。
「わざわざご命令されなくても帰りますわ。このような辛気臭い場所にいたら苔でも生えてきそうですもの。せいぜい、あの地味で卑しい養子と仲良くしていればよろしいわ」
地味で卑しい養子、というのはわたしのことかしら。
殿下と親しくしていることを知る人はあまりいないと思っていたけれど、ローズ様は把握していたらしい。なにしろ殿下と顔を合わせるのは基本的に図書室だし、そこでだってそれぞれ自分の作業に集中している。陰の者同士の目立たない交流だから、陽の筆頭であるローズ様が知っているのは意外だった。
――と、捨て台詞を吐いて退室する彼女の前に、恐ろしい顔をした殿下が立ち塞がった。
「……今のは聞き捨てならないな。僕のことは何とでも言えばいいけど、他の女の子を貶めるような発言は許せない」
見るだけで人を殺せそうな、氷のように冷たい視線。先ほどまでの態度とは、明らかに一線を画していた。
それはローズ様にも伝わったようで、彼女は一瞬怯えた目をして息を呑む。けれども、すぐに強気な態度を取り戻す。
「わっ。わたくしは何も、セリアーナ嬢のことだとは言っておりませんわ」
「ああ、もちろんだ。セリアーナのわけがない」
殿下はきっぱりと言い放つ。
そして一切表情を緩めないまま、ゆっくりとローズ様の顔を覗き込んだ。地の底から響くような低い声を出す。
「今度セリアーナに手を出したら、どうなるか分かっているね? 僕は本気だよ。……兄上のように辺境に流されたくなければ、大人しくした方がいい」
「…………っっ!! あ、あの件はあなた様が……??」
「さあ? どうだろうね。兄上は奔放だから、聡明なコルネリア嬢を傷つけた時点で破滅は始まっていたと思うけど」
二人は一体何を話しているのかしら。貴族特有の遠回しな言い方にはまだ馴染めない。
ユージーン殿下の件はわたしの悪役令嬢ぶりが功を奏したと思っていたけれど、もしかして違ったのかしら。
「分かったなら、返事をして」
「…………」
「返事は?」
獅子に睨まれた蛇のように、ローズ様はじっとりと殿下を睨みつけて唇を噛んでいた。負けてたまるかというように。
終始一貫している強情さには、逆に潔さすら感じられた。ローズ様がしていることは悪いことだけれど、自分のプライドを折るようなことは決して受け入れないのだという強い決意が伝わってきたからだ。
返事をしないローズ様に、殿下は見切りをつけた。
「……時間の無駄だな。まあいい。セリアーナに何かしようものなら、僕が全力で潰すから。じゃあ、さっさと帰ってくれ」
ローズ様はその言葉が終わる前に、つんとした顔のまま動きを再開する。ドアの影にいたヨセフ様にぶつかり、「もうっ、なんなのよ」と愚痴をこぼしながら、甘ったるい香水の香りだけを残して去っていったのだった。




