12
ロッカーの前で、わたしはフリーズしてしばらく動くことができなかった。
ない。どこにもない。この一か月必死で勉強した、薬草学の教科書と参考書。
さあっと血の気が引いていく。
(――――こんな日に、また嫌がらせなの??)
最悪のタイミングだ。
どうやら犯人は、この日にこれをやりたいがために、ここ最近大人しくしていたとみえる。
怒りで両手がわなわなと震えたけれど、今は犯人に憤っている場合じゃない。どうにかして授業までに教科書を見つけないと、公爵様の顔に泥を塗ることになってしまう。授業参観で教科書を忘れるなどあり得ない失態だ。
(……っ。どうせもう、見つけられない場所にあるんでしょうけど)
すぐに見つかってしまっては、犯人は面白くないだろう。だからきっと、すぐには見つけられないような場所に――あるいは使うことができないような状態になっているんじゃないかと、わたしは心のどこかで覚悟していた。
昼休み中校内を探し回って、結局わたしは失くし物を見つけることはできた。けれどもそれは半分以上が灰になっていて、鼻に着く焦げた匂いを漂わせていた。――まだ火がくすぶる焼却炉の中で。
燃え尽きかけた教科書と参考書を取ろうと炉に手を突っ込むと、鋭い痛みが指先に走った。
「……熱っ!!」
何度か手を突っ込んでじわじわとこちら側に位置を移動し、やっと取り出すことができた。
けれどもそれは、わたしの手の中でぼろりと崩れ落ちる。背の少し硬い部分だけが灰にならず手元に残った。
(殿下がくださったものなのに……)
彼の優しさまで踏みにじられた気がした。
コルネリア様の教科書っをダメにされたときにも胸が張り裂けそうになったけど、それとはまた違った悲しみが心を覆っていく。
(わたしはいただいたもの一つさえ、守れないのだわ)
不甲斐ない自分。――わたしは初めて学園で涙を流していた。
いや、実家で虐げられていた時だって、ここ数年は泣いたことなんてなかった。
悔しかった。自分は無力だ。透明になれる魔能だって活用できていない。珍しい魔能があったって、使う人間が能無しだったら何の意味もないじゃない。
わたしを無能だと罵った母と妹の言葉はあながち外れていなかったわねと、自分の心に自分で剣を突き立てる。
もっと強くなりたい。コルネリア様のように。アルフレッド殿下のように。どんなことが起こっても貴族然として凛としていて。自分が辛い時でも、人を助けられる器の大きさを備えている。
わたしはまだ、何者にもなれていないわ――――。
授業開始五分前を知らせる予鈴が鳴り響く。
(行かなきゃ。教科書はなくっても、予習はしているからどうにかなるはず……)
机の上にノートしかないというのはひどく体裁が悪いけれど、仕方がない。事情を話せば公爵様は理解していただけるだろう。けれどもやはり、『出来の悪い養子』という烙印を押されてしまうことは、恩を仇で返すようですごく申し訳なかった。
「セリアーナ様! ここにいらっしゃったのですねっ!」
聞き覚えのある声がわたしを呼ぶ。
振り返ると、裏庭の小道からアン様がこちらに向かって走ってくる。
「どうしたのですか、アン様。もう授業が始まりますよ」
「それはセリアーナ様。あなたも同じでしょう」
息を切らせたアン様は、わたしの手にある焦げた教科書の残骸を見て、すべてを悟った顔をした。
そして、驚くべきことを口にした。
「これ、使ってください。わたくしの教科書と参考書です」
「えっ!?」
押し付けるように手に持たされたのは、アン様が使っている薬草学の教材一式だった。
けれども、これは今からアン様も授業で使うものだ。二年生の三クラスはみな、同じ時間に同じ科目の参観がある。
戸惑うわたしに、アン様は真剣な面持ちで言う。
「わたくしは兄のものを使いますから大丈夫ですわ。去年と今年で教材は変わっていませんから、問題ございません」
「おっ、お兄様のものも持っていらしたの?」
ご自分の物があるのに、どうしてそんなことを? 状況が掴めずにいると、アン様は時間を気にするように早口で教えてくれた。
「実は、悪い予感がしていたのです。最近嫌がらせがなくなったとおっしゃっていたでしょう。ですから今日を狙うんじゃないかと思ったのです。セリアーナ様とジャレット公爵様、おふたりに損害を与えられる機会ですもの」
そこまで言って、アン様ははっとして口元を抑えた。
数秒沈黙して、気まずい表情で先を続ける。
「こんなことでわたくしのしたことが許されるとは思いません。ですが、どうかお使いくださいませ。では、わたくしは戻りますね」
「あっ、アン様……っ!」
あっという間にアン様の後ろ姿は裏庭の樹木の間に消えていった。
手元に残ったのは、まだ彼女の手のぬくもりが残る本が二冊。
(……ありがとう)
じんと胸の奥が熱くなる。涙はすっかり乾いて、心の中はすっきりと晴れていた。
ぎゅっと教科書を抱きしめて、わたしも急いで教室に向かって走り出したのだった。




