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セボーン中央貴族学園最上階にある、学園長室や理事長室などが並ぶ区域。
普通の生徒達にはおよそ縁のないエリアは静かでしんとしている。場違い感を感じながらも、わたしはずらりと廊下に並ぶ重厚なドアのうち一つをノックした。
すぐにドアは開き、アルフレッド殿下がニコニコ顔で出迎えてくれた。
「アルフレッド殿下。お忙しいところ無理を言ってしまってすみません」
「いやっ、全然気にしないで。というか、むしろセリアーナ嬢とこういうことができるのは、うっ、嬉しいっていうか……」
優しい殿下は「べっ、勉強が大変だったら、今日の茶会はなくても大丈夫だよ。参観日は明日だし……」とおっしゃってくれたのだけれど。多忙な殿下と一緒に過ごせる時間は貴重だ。
正直明日に備えて勉強したいことはまだまだあるけれど、ちょっと寂しい気持ちになってしまったわたしは、殿下にダメもとで「では、勉強を教えていただけませんか」とお願いしたのである。
返事は快諾。耳まで真っ赤になったアルフレッド殿下を見て、わたしもドキドキしてしまったのは内緒だ。
そういうわけで、殿下の希望もあって図書室ではなく学園内の殿下の個人部屋にお邪魔している。
室内は整頓されていて、背の高い棚に収納された本の多さがまず目に留まる。ほんのりとした森林系のフレグランスの香りが漂い、殿下の人柄と同じように安心感を覚える空間だ。
ソファに並んで腰かけ、さっそく参観科目である薬草学の教科書と参考書を机に広げる。
「基本問題は理解できたんですが、ここの応用問題が分らなくって……」
「反応速度論のところだね。こっ、公式を組み合わせて使う必要があるから、ちょっと難しいね」
難しいと言いながらも、殿下はすらすらと簡単に解いていく。流れるような筆記体で綴られる方程式は、わたしが書くものよりずっと美しく見えた。
(コルネリア様が言っていたわ。殿下は入学以来ずっと学年首席で、コルネリア様がどんなに努力しても一位になることはできなかったと)
その話を聞いたときは、『負けず嫌いで頑張るコルネリア様尊い』としか思わなかったけれど。こうして殿下の実力を目の当たりにすると圧倒される。
参考書に向けられる真剣なまなざしに、休みなく美しい字を綴り続ける大きな手。横から見ると、メガネの隙間から長い銀色の睫毛と甘い蜂蜜色の瞳が見えて、ふいにわたしの心臓をきゅっと締め付ける。
勉強を教わりにきたはずなのに、急に緊張してきてしまって、それどころではない気持ちになってしまった。
――殿下に触れたい。あの穏やかな瞳で、もっとわたしのことを見てほしい。
部屋に二人きりなのも、わたしの頭をおかしくする大きな要因になった。
気がついたら、わたしは殿下の頬に触れてしまっていた。――教科書ではなく、こっちを見てとでも言わんばかりに。
「えっ……!? せっ、セリアーナ嬢??」
驚いたような殿下の表情で我に返る。
わたしは殿下の右頬に手を当てて、顔を覗き込むような態勢になっていた。
それはまるで、キスをする二秒前のような距離感。困惑と喜びの感情が入り混じった黄金色の瞳と、至近距離で目が合う。
「ひゃあっ!? ごっ、ごめんなさいっ!!!!」
「へぶっ!!」
動転したわたしは思わず殿下を突き飛ばしてしまった。貴族令嬢の中では一番力があると自負しているだけに、思いっきり押された細身の殿下はソファから転がり落ちる。
「ああっ、ごめんなさい! すみません! 殿下は何も悪くないのに……!!」
慌てて助け起こした殿下はメガネが外れていた。銀色の髪は乱れ、床にどこか打ったのか顔をしかめている。
「ほんっとうにすみません!! 今メガネを探しますね――」
どこに飛んで行ってしまったのかと焦っていると、急に視界がぐるっと回り、わたしの背中はソファに押し付けられていた。




