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いじめの犯人の手がかりを掴むべく始めたパトロールだったけれど。犯人側も警戒しているのか、二週間が経っても動きはなく、新たな嫌がらせも発生しなかった。ローズ様にも怪しい動きはなく、放課後はご友人と美容サロンに向かわれたり、男の子たちと食事に行かれたりと、何の変哲もない華やかな生活を送っているだけだ。
(嫌がらせが終わったのであれば、パトロールをする必要もなくなるのだけれど……)
校内を透明になって歩き回るのは楽しいのだけれど、そうも言っていられなくなってきた。なぜかというと、月末に授業参観が待ち構えているからだ。
――『授業参観』。令嬢令息の授業の様子を、親たちが見学に来る一大イベント。先生方にとっても生徒にとっても、間違いなく一年で一番緊張する日だ。
ここで高位貴族に自分の能力をアピールできれば、就職口が決まることも多い。うちの部署で働かないかとか、うちの商会に勤めないかとか、そういうスカウトが実際に来るのである。就職活動としての一面を備えていると言ってもいい。
爵位を継ぐ嫡男はともかく、次男三男といった令息たちは自分の力で食い扶持を見つけなければいけないから、この日に懸けて猛勉強しているのだ。
普段よりやや混んでいる図書室で、わたしもみんなと同じように参考書を開いていた。
(公爵様も見にいらしてくださるんだもの。みっともない姿はお見せできないわ)
なんの取り柄もないわたしを――養うメリットなんて一つもないわたしを快く受け入れて、養子にまでしてくれた公爵ご夫妻。お二人のおかげでわたしは泥沼のような境遇から抜け出し、分不相応にも思える幸せの中にいる。
いつか恩返しをしたいと思っているだけに、授業で当てられて答えられないという大失態を犯すわけにはいかない。
(やっぱり、参観が終わるまでパトロールはお休みしよう。こっちのほうが遥かに大切だもの)
心を決めて気合を入れ直すと、ふと視界の隅に見覚えのある人物が目に入った。
茶色の髪をきっちりと三つ編みにした、真面目そうな横顔。鼻の上に見える細かいそばかす。
(アン様だわ……!)
参観日前だから来ているだけかもしれないけれど。でも、わたしはここ図書室でアン様の姿を見ることができてとても嬉しかった。
じっと見過ぎたためか、ふとアン様は顔を上げてこちらに顔を向けた。わたしと目が合うと恥ずかしそうにはにかんで、ぺこりと軽く頭を下げた。
(お元気そうね。ローズ様とはその後、問題ないのかしら。ああ、ローズ様と決まったわけではないけれど――)
彼女の会釈に小さく手を振り返して応える。
勉強を邪魔しては悪いと思ったので、二時間ほど経って彼女が図書室を出るタイミングでわたしも荷物をまとめ、後を追いかけた。
「アン様!」
二つのおさげがふわりと揺れ、一拍遅れて彼女は振り返った。髪と同じ茶色の丸い目が驚きで見開かれる。
「セリアーナ様! 今お帰りですか」
「アン様が帰るみたいだったから、おしゃべりがしたくて出てきちゃった。えへへ」
すると、アン様はくしゃりと顔を歪めた。
「えっ!? ごめんなさい、なにか気に障った?」
「いえ。違うんです。……わたくしはセリアーナ様に酷いことをしたのに、どうして優しくしていただけるのだろうと思って」
「アン様は謝ってくれたもの。それに、一番悪いのはあなたに指示をした人でしょう? だからもう、わたしはアン様のことをどうも思っていないの。本当よ」
当たり前のことを言ったのに、アン様はますますわからないという表情になる。
「わたくしは、報復を恐れて名前もお教えできていないのに」
「まあ、教えてくれたらすごく助かるけど。でも、そうできない気持ちもわかるから。アン様だけじゃなくて、お家も巻き込む問題なんでしょうし」
アン様のヘマは男爵家のヘマになってしまう。悲しいかな、それが貴族社会というものだ。
連れだって校門を出て、生徒がまばらになったところで話を切り出す。
「――それで。その後は大丈夫なの? わたしへの嫌がらせがぴたりと止まったから、アン様はどうしているかしらと気になっていたのよ」
「ええ……。わたくし、自分を恥じました。いくら何でも、なんの面識もないセリアーナ様に嫌がらせをするなど、よく考えなくたって悪いことです。ですから一人でいる時間を作らないように、休み時間や放課後は教室にいないようにしました。お勧めいただいた図書室に行ったり、先生のところに質問に行ったり。そうしたらあちらも何か察したようで、わたくしに頼むことは無くなりました」
「そうなの! それはよかったわ。アン様の勇気ある決断に敬意を表しますわ」
「いえ、そんなこと……。それに、わたくしが使えなくなったら、結局別の人間にやらせるだけなんだと思います。わたくしのように使い捨てできる弱小貴族はいくらでもいますから。そう思うと胸が苦しくって」
胸のところでぎゅっと小さな拳を震わせるアン様。ご自分も辛い思いをしたのに、次に利用される令嬢の心配をして胸を痛めている。優しい方だ、と思った。
「爵位ってほんとうに厄介よね。わたしも元は弱小伯爵令嬢でしたけれど、今こうしてジャレット公爵家の肩書を名乗るようになって、扱いの差に愕然としておりますもの」
先生や生徒たちの見る目がガラリと変わった。以前はまるで存在を無視されていたのに、一挙手一投足に注目が集まり、色んな人が集まるようになった。誉め言葉を沢山聞くようになった一方で、同じかそれ以上に妬み嫉みの言葉も耳に入るようになった。
わたし自身の内面はなにひとつ変わっていないのに、爵位ひとつで世界は全く色を変えてしまう。すごく怖いと思ったし、そんな世界を淑女の笑みで渡り歩いているコルネリア様や公爵夫人には尊敬しかない。自分自身を見失わない芯の強さがないと到底無理なことだから。
「セリアーナ様も、そのように悩んでらしたのですね。少々意外でした」
「公爵家の養子になったから、浮かれていると思っていた? ふふっ。推しの妹になれたという意味では合っているけれど、わたしは爵位なんてどうだっていいの。優しい家族がいて、温かい食事が食べられることが、わたしにとっての一番の望みであり幸せだから」
「お、推し……?」
おっと、失言をしてしまった。
困惑するアン様をコルネリア様直伝の淑女の笑みで誤魔化し、そうこうしているうちに公爵家の前に到着した。
「わたしはここで。お気をつけてお帰りくださいね」
「ありがとうございます。では、また」
真っ赤な夕焼けに呑み込まれるようにして、だんだんと小さくなっていく後ろ姿を見送る。
この学園で、友達のような人ができることはないと思っていたけれど。もしかしたらアン様とはお友達になれるのではないかしら?
わたしはどこか弾んだ気持ちで公爵家の門をくぐったのだった。




