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翌日の放課後。生徒がいなくなった静かな教室内で、わたしはさっそく魔能を発動して姿を消した。
教室と廊下の全体が見渡せるような位置で仁王立ちをする。
(さあ、いつでもいらっしゃい!)
ロッカーにはあえてたくさん荷物を入れているし、机も真新しい教科書でパンパンだ。イタズラし放題の環境を整えている。
新しい教科書は、なぜか公爵様ではなく、アルフレッド殿下が用意してくださった。
それはつい今朝のこと。寝ぼけ眼で朝食を食べていたところに、眩しい笑顔を浮かべたダンディな公爵様が現れ、「そうか、セリアーナがねえ。うん、わたしは賛成だよ。アルフレッド殿下は唯一才能があられるお方だからね。いいんじゃないかな」なんて言って頭をポンポンしてくれた。何のことか分からないまま公爵様が持ってきた包みを開けると、新品の教科書が入っていたというわけだ。
小さなカードに『セリアーナ嬢 よかったら使ってほしい アルフレッド』と、美しい文字で書いてあって、食べ物の味が分らなくなるぐらいドキドキしてしまったことは記憶に新しい。
(ああもう、今思い出しても恥ずかしい)
顔の赤味もちゃんと透明になっているかしら? 急に不安になってくる。
と、一人の女の子がきょろきょろとしながらこちらにやってくることに気がついた。
長い髪を左右で三つ編みにした大人しそうな子。あっ、わたしに言われたくないか。
とにかく、クラスが違うので初めて見る子だ。
おどおどしたその令嬢は、人がいないことを確認すると、迷うことなくわたしの机へ駆け寄った。
背中を屈めて机の中を覗き込み、真新しい教科書類を引っ張り出す。スカートのポケットから黒いペンを取り出し、教科書にむかって、やけっぱちのように腕を振り下ろす――――。
「ちょっと待って!!!!」
「ひゃああっ」
驚いた令嬢はペンと教科書ごとひっくり返る。わたしを見上げて目を見開き、床に這いつくばって頭を下げた。
「すみませんすみませんっ。どうか許してくださいっ!!」
「あなたなのね? わたしのミニハープを隠したり、教科書を破いたりしたのは」
「っっ……! ごめんなさい。すみません。なんでもしますから、許してくださいっ!」
おさげの令嬢はひたすら謝り続ける。涙で顔はびっしょりと濡れていて、悪いのは向こうなのに、だんだん可哀想な気持ちになってくる。
こんなに気弱な女の子が見ず知らずのわたしに嫌がらせするなんて、すごく不自然だ。
「誰かに指示されたの? その人の名前を教えてくれたら、あなたのことは責めないから」
「それは……っ。……どうかお許しください。ごめんなさい。ごめんなさい」
「……口止めされているの?」
はいともいいえとも言わずに、その子はわあっと泣き出してしまった。
――それが答えなのだと解釈した。
この子は誰かに指示されてわたしの持ち物に手を出した。罪を責めないと言われてもなお、その名前を口にできない。そんな高位の貴族といったら、ジャレット公爵家に次ぐバロンド侯爵家しかないだろうと、今のわたしなら理解できる。
泣きじゃくる女の子に名前を尋ねると、ゴズリン男爵令嬢のアン様だということが分った。
わたしはすっかりアン様が気の毒になってしまった。男爵というのは貴族の中でも最下級。学園内のカーストは基本的に爵位に比例するから、肩身が狭いことは想像がつく。
(高位貴族に目をつけられたら、ご自分だけでなく家族にも影響が及ぶもの。自分の気持ちなんて誰も気にしてくれないわ)
そう考えながら、わたしはアン様に昔の自分の姿を重ねていた。
お母様やミアに虐げられていたけど、わたしは声を上げることができなかった。自分は無能だから仕方がないと。この家に居続けるためには大人しく言うことを聞くしかないのだと。
きっとアン様も同じなんじゃないかしら。自分は男爵位だから仕方がない。学園に居続けるためには、格上の令嬢の言うことに従うしかないと。
――もう、彼女を責める気持ちにはなれなかった。
「……今のは見なかったことにする。早く戻るといいわ」
「えっ」
アン様は虚を突かれたような表情をした。
「よ、よいのですか」
「ええ。あなたは、本当はこんなことしたくなかったっていう顔をしていたから」
そう言うと、アン様は再び茶色の瞳いっぱいに涙をためて頭を下げた。
「あっ、ありがとうございます! ありがとうございますっっ!!」
アン様は急いで床に散らばった教科書を丁寧に拾い集め、机に戻した。
その小さな手は小刻みに震えていて、白い薄い唇はぎゅっと噛み締めたところだけが赤くなっている。それを目にしたわたしの胸も、なぜだかぎゅっと締め付けられたような感覚になった。
「……あの。余計なお世話、かもしれないけど」
教室を出て行こうとしたところで声を掛けたものだから、びくりとアン様が振り返る。
「な、なんでしょうか」
「もしまた誰かに命令をされそうになったら。……いえ、そうなる前に。休み時間や放課後は、図書室に行ってみたらどうかしら。あそこには、あなたを利用するような人間はいないから。なんのしがらみもなくて、静かで平和な時間が流れているの」
「図書室、ですか?」
アン様はよく分からないという困惑の表情を浮かべている。
一般の生徒にとって図書室は身近ではない。貴族の屋敷には普通似たような書庫があるものだし、そもそも勉学に熱心な生徒自体も少ない学園だ。勉強よりも社交を通じて人脈を広げることの方が重要視されている。
だからこそ、ごく一部の生徒にとってはオアシスのような場所になりうる。打算や陰謀から切り離された空間。自分の好きなことに向き合い、誰にも邪魔されない唯一の場所。
「来てみたら分かると思うわ。……じゃあ、わたくしは帰るわね」
アルフレッド殿下からいただいたピカピカの教科書を鞄にしまい、今度こそわたしは教室を後にした。