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ユージーン殿下が婚約破棄されたらしい、という特大ニュースが飛び込んできたのは三日後のことだった。
放課後コルネリア様から驚きのニュースを聞いて、「ええっ!?」と大きな声を上げる。今日も今日とて二人の世界に入っているイチャイチャカップルには聞こえていなさそうだったけど、真面目に書き物をしているメガネ君に申し訳ないことをしてしまった。
声を潜めて口元に手を当てる。
「ユージーン殿下が、マルゲッタ様に振られたと。そういう解釈で合っていますか?」
あのプライドの塊のユージーン殿下が振られる? にわかには信じられない話だった。
「そうなのよ。わたくしも驚いたわ」
コルネリア様もこそこそ声で応じる。
「どうも、マルゲッタ嬢は別の男性と浮気をしていたらしいの。告発文がユージーン殿下の元に届いたのですって。それで彼女を問い詰めたら、逆上しちゃったみたい。開き直ったあげく、“あんたみたいな『小さい男』は願い下げよ”と大立ち回りをして婚約破棄を宣言したのですって。……ほら、あなたの見事な悪役令嬢っぷりで殿下は失態続きでしょう。蜂の件もあったし、マルゲッタ嬢は不満を募らせていたのでしょうね」
へえぇ!! と肺の底から感嘆する。
マルゲッタ様は思ったよりしたたかだった。乗り換え先は西方の国から留学中の公爵令息らしく、国内ではもう自分の嫁の貰い手はいないだろうということを正しく理解しているように見受けられた。
「殿下が捨てられるなんて意外ですね。二人でずっとお花畑に居続けるのかと思ってましたから」
「浮気の情報を殿下に漏らしたのは、セリアーナ、あなたじゃないのね? てっきりわたくしは、そういうことかと思って。なんでも、告発は真っ赤な便箋だったらしいの。赤は復讐の色って言うでしょう?」
「いえ、わたくしではありませんよ。そういう探偵みたいなことができるほど有能ではありませんからね。いったいどなたがタレコミしたんでしょうか……」
謎は残るけど、ユージーン殿下が大きなダメージを被ったことは確かだ。二兎追う者は一兎も得ず、という東方のことわざが頭に浮かんだ。
そのあとコルネリア様と話し合い、殿下にとってこれ以上の打撃はないだろうという判断になった。
心優しい女神の意向で復讐はもう十分だろうということになり、悪役令嬢としての役割は予想よりもだいぶ早く終わりを迎えた。
(コルネリア様の名誉が直接的に回復したわけではないけれど、瀕死の者を追撃するほど悪趣味ではないわ。悪役令嬢は義に厚く、去り際も潔くなければならないといけませんからね!)
◇
一連の騒動はこれで終わりかと思われたが、しかし、その晩公爵邸に招かれざる客人が訪れた。
激怒して今日も陛下の元へ抗議に行っている公爵様の不在時を狙い撃つように現れたのは、なんとユージーン殿下だった。
公爵邸の使用人たちは「うちのお嬢様を弄びやがって!」という明確な不歓迎オーラを出したらしいけど、王子ゆえ追い返すことはできない。仕方なしに応接間へ案内しましたと、コルネリア様付きのメイドが知らせに来た。
(今更なんの御用かしら? コルネリア様に謝罪したいというのなら話は別だけれど、そんな風には思えないわ)
ひどく嫌な予感がしたので、わたしも同席させてもらうことにした。
応接間の椅子でふてぶてしい表情を浮かべる殿下が放った言葉に、耳を疑った。
「なんだ。その……。そなたがどうしてもと言うならば、再婚約してやってもよい。どうせ嫁の貰い手などいないのであろう?」
(なっ!? なに言っているのかしらこのタコ助野郎殿下は!? 寝言は寝て言いやがれですわよっっ!!)
今すぐ透明になって目の前のクズ男のみぞおちに一発食らわせてやりたかった。けれども生身で目の前に出てきてしまっている以上、突然姿を消すことはできない。
とはいえ静かに座ってなどいられない。無言ですっくと立ち上がると、コルネリア様が制止した。
「ありがとう、セリアーナ。わたくしは大丈夫よ」
「ほう。さすがは王子妃教育を受けているだけある。話が早いな」
それみろと言わんばかりのタコ助殿下は、満足そうにゆっくりと足を組んだ。
けれども、コルネリア様の話は終わっていなかった。顔に淑女の笑みを浮かべたまま、いつもの鈴を転がしたような声で尋ねた。
「殿下。どの面下げていらっしゃいましたの?」
「――――??」
一瞬何が起こったか分からないような顔をした殿下は、「んっ?」とだけ言ってわざとらしく椅子に座り直した。
「お耳が遠くてあそばせるようですので、もう一度。調子に乗るのも大概にしてくださらないかしら、と申し上げているのですよ」
顔は笑っているだけに、ひどく恐ろしい。
女神は今、世界の終末を告げている。ぞくりと背に震えが走った。
「それと、殿下はなにか勘違いをしておられますね? もともとこの婚約は国王陛下が当家に頼み込んで成立したもの。お父様はあなた様のような放蕩男に娘はやりたくないと、最後まで反対しておられたのですよ。国王陛下は必ずわたくしを幸せにするからと、本来あなた様が言うべき台詞を口にされたため、とうとうお父様も折れました」
ですから、とコルネリア様の艶のある唇の端が上がる。
「今宵お父様が登城しているのは、婚約破棄への抗議ではございませんわ。賠償金の請求でもございません。……理由はおわかりになりますか?」
「いっ、いや……」
「その座っている椅子を差し出せと、そう迫っておられるはずですわ。王の座る椅子。この意味、あなた様でも理解できますわよね?」
殿下の顔は真っ青になっていた。事態の深刻さ、自分がしでかしたことの重さにようやく気がついたのだ。
「当家はこのラランデル王国の軍をつかさどる将軍家です。これはあくまで例えばの話ですけれど、お父様が右と言ったら百万の兵士達は全て皆右を向くのですよ。兵士は皆、王ではなく将軍の声を聞き命を差し出します。当家はそれに見合う報酬と生活の保障をしてきましたからね」
ジャレット公爵家は間違いなく国内最大の貴族だ。
当主は勇猛果敢で漢気に溢れた将軍。社交界一の華と呼ばれる夫人は慈善事業に力を入れているお優しい方だが、蝶のように舞い蜂のように刺すやり手で、公爵家の繁栄は夫人の立ち回りのおかげとも言われている。
夫妻の愛娘であるコルネリア様は、なるべくして至高となられた。
タコ助殿下は耳をかっぽじって天啓を聞くがいい!
「――そのくらい統率が取れているからこそ、戦に負けることなくここまで豊かな国に発展できたのです。手前味噌で恐縮ですけれど、王様の椅子の一つや二つ手に入れることぐらい、容易いことかと存じます」
軽蔑の色を浮かべた紫色の瞳は、メドゥーサのように、目が合っただけで死んでしまいそうなほど尊かった。
(ああ、コルネリア様! 淡々と追い詰めていく姿も素敵ですっ……!!)
背筋のぞくぞくが止まらない。いつもの優しく穏やかな姿も素晴らしいけれど、無慈悲モードも文句なしに推せる。
恐怖と衝撃で一言も言葉を発せない元婚約者に、女神は引導を渡した。
「ご理解いただけましたなら、どうぞお帰りくださいませ」