プロローグ5
プロローグ5
背もたれに押し付けた肩甲骨が痛む。肩、お尻の端、つま先の三点に全体重がかかっているせいだ。窮屈だが、イスからずり落ちそうになる体を引き上げる気力はない。こんな体制でも座っているといくらか楽だ。前に倒した頭は重く、目をつむると身体がぐわんぐわんと揺れている感覚になる。
件の式の後、私は促されるがまま詩花の隣に座っていた。さっきまで満員だった教室に、今は数人しかいない。残りのクラスメイト達は式が終わるとどこかへ出かけて行ってしまった。
「すー」
「ふぅ」
短く息を吐く。本当は深呼吸がしたかったのだけれど失敗に終わった。首の角度のせいか空気がめいっぱい吸えなかったのだ。当然吐き出す量も少なくなり、こんな出来損ないの深呼吸に気持ちを静める効果はない。自分のしたいことを邪魔されイライラが増す。
〇
「おまたせー。」
お盆を両手で持った露が私達に歩み寄る。そういえばどこかへ行ってくるって話していた気がする。彼女の持つお盆にはマグカップが三つ並んでいた。私達に水を持ってきてくれたのか。
「はい、お疲れさま。今回も完璧だったよ。」
「ありがとう露。」
そう言って詩花は水を受け取った。露が言う「完璧」とは先ほどの演説のことだろう。私の後に詩花もやったのだ。確かにすごかった。聴衆も私と同意見らしく、彼女にはスタンディングオーベーションが送られた。すごいのはいいんだけど。…ダメだ、思い出すと爆発してしまいそう。
水を私にも渡そうと、露がこちらを一瞥した。
「あんたはなんて格好してるのよ。椅子から落ちかけじゃない。」
しぶしぶと座り直す。お尻の両脇に手をつき、ぐっと体を奥に引いた。
「お疲れさま。はい。」
「おおきに。…ん!?」
熱い。カップに触れて驚き、中身を覗いて二度驚く。容器の中には黒々とした液体が入っていたのだ。熱と共に焦げた匂いが顔を包む。コーヒーだ。どこから持ってきた。
「京ちゃんも飲みなよ。絶品だから。」
スプーンでコーヒーをかき混ぜながら詩花が言う。
「いや飲んじゃダメやろ!学校やで!?」
「はぁ?飲みたいものを飲んで何がダメなのよ。」
「えぇ…。」
露の言い分に一度思考が止まる。
…確かに一理あるかもしれない。やりたいことをするのが一番だ。けれどここは学校な訳で。喉が渇いたら蛇口から出る水を飲むのが普通なんじゃないのか。
露の言ったことはどこか収まりが悪い。あと少しで納得できそうなのに、その少しが埋まらないのだ。これがどうも気持ち悪い。この感覚は詩花との会話でもあった。バクゼンってなんだ。
きっと分校と本校では違うところがあるのだろう。歴史とか文化とか雰囲気とか。大げさか。
でも、これから本校に通うのだからこういった違いにも慣れていかなくちゃならない。郷に入っては郷に従え。そこに抵抗はない。
けれど、受け入れられないこともある。受け入れられずに体が拒絶反応まで起こしている。ここを正さないと私は先へ進めない。
「飲み物の話はまあええわ。ちょっとホンマなんなんあの式。」
声が感情に流される。怒り由来の低い声だ。
「あんたやるじゃない。客引きの置物かと思ってたのに。」
「京ちゃんすごくよかったよ。露、原稿にジェスチャーの指示まで書いたの?」
「ううん。そんな余裕ないと思ってたし。」
感想を聞いたんじゃないっての…。
「そうやなくて。さっきのはいったい何?保健相とか外務相とかってなに?もう訳分からへんっ!」
言葉にあおられ我慢していたいら立ちが遂に爆発した。こうならない為に深呼吸がしたかったのに。一度流れ出した感情は簡単には止まらない。
顔にちらちらと視線が当たる。露が私と詩花を交互に見ているせいだ。うっとうしい。
「なんや!」
「と、突然どうしたのよ。ていうかあんたなにも聞いてな」
「客引きの置物ってなんやぁっ!」
「ひっ」
怒鳴りつけられた露はサッと詩花の後ろに退散した。あぁ、大声出すと頭痛い。頭を抱え前にかがんだ姿勢になる。
ふと、肩に触れられた感覚がありそちらに体を向ける。
「京ちゃん」
いつのまにか詩花が立ち上がり私の真横まで来ていた。下から見上げる彼女の目は雰囲気が違って見える。
「なんや」
「…。」
「なんや!」
「…。」
詩花は何も言わない。何も言わないまま私に一歩近寄った。
「なんっ」
ぬっとこちらに倒れ掛かってくる彼女が見えた。
「むふっ!?」
それが最後、視界が薄暗くなった。
…状況把握にしばし時間を要する。
背中に回された腕。
前髪にかかる吐息。
顔に押し付けられた微かな胸。
圧迫感。
どうやら私は詩花に抱きしめられたらしい。
「ごめん。急すぎたよね。」
「そ、そうや!ウチなにがなんだか…」
困惑が興奮を押さえつけ、人肌のぬくもりが怒りを溶かす。先ほどまでの勢いはもうない。
「ごめん。ちゃんと説明するから。」
「それなら、いい…ケド。」
「とりあえずコーヒー飲んでみてよ。落ち着くから。」
「うん。」
そっと腕が解かれ、細い体が後ろへ下がった。柔軟剤の匂いが遠のく。
言われるがままマグカップを口へ運んだ。
カップを傾けたのに少し遅れて中身が動く。
「あま。」
初めはそう感じた。ただただ甘い。けれど、液体がのどの奥に消えた後、舌に不思議な風味が残った。普通のシュガーではない、香ばしさのようなものを感じる。コーヒーなんて年に数回しか飲まない私でも違いが分かった。これ、おいしい。
とろとろとした液体が、すでにしぼみ切った激情をつれてお腹の底へと流れていった。
〇
私がおとなしくなったのを見計らってか、詩花が口を開いた。
「京ちゃん、大丈夫?」
「あ、はい。」
冷静になると、自分のしたことが恥ずかしい。
「じゃあ、まずは私の友人から紹介するね。こちらは流々河露。二年生の時に知り合ってからずっと一緒にいるの。」
「よ、よろしくお願いします。」
詩花の後ろから顔を出す少女に今日二度目のあいさつをする。私の会釈に微動だにしない。
「…。」
「うっ」
軽蔑のジト目から堪らず顔を背ける。ですよねぇ。いきなり大声出されたらそうなるよね。この話が終わったら謝ろう。
「それじゃ本題。さっきの式で私は学級代表に、京ちゃんは保健相と外務相になった。他はともかく、学級代表って分校にも同じようなのなかった?」
名前からして学級委員長やろ?クラスで何かやるときに仕切ったり、クラス代表して賞状もらったりする人。
「あーそうそう。だいたいそんなところ。とにかくこの五年一組の管理者だって思ってくれればいい。おーけー?」
詩花が学級委員長かぁ。確かに昔からしっかりした子ではあったけど、実際に大役を務めているところは想像ができない。だって私の知っている詩花は人前に出るのが大嫌いだったから。人って変わるもんだ。
学級委員長が管理者っていうのはしっくりこないが、異論はないので静かにうなずく。
「あとは保健相と外務相についてだね。さっき学級代表がクラスの管理者って話したじゃん?」
「うん。」
「でも私ひとりじゃ対応できないくらい様々な問題が発生するんだよ。たぶん。だから問題を分野ごとに分けて、それぞれの担当者に任せたいんだ。」
あー。なんとなくわかった。手分けしようってことやな。でもそんなに問題って起きるものだろうか。
「で、ウチの担当が保健と外務なんやな。」
「うん。まぁ外務の方は私がやることになるだろうから、京ちゃんには保健部門を頑張ってほしい。」
「どんなことすればええん?」
「とりあえずは水回りをきれいに保ってほしいかな。お願いできる?」
「ええよええよ。ウチきれい好きやし。」
「ありがとう。任せるね。」
〇
カップを傾ける。これが最後の一口だ。空になった陶器の表面はまだかすかに温かい。あの妙味がもう名残惜しく感じる。露ちゃん、私におかわりを。…なんて言える訳がないか。
朝からいろんなことがあった数時間だった。どうなる事かと思ったが、案外なんとかなるもんだ。
詩花がいじめられているというのは私の早とちりみたいだし、任された仕事も要は水飲み場の後始末だ。分校の保健委員会の延長だと思えばなにも苦ではない。
新生活も頑張っていこうと思ったその時、露がその沈黙を破った。
「水回りってトイレもだからね。むしろそっちがメイン」
「え。あぁ洗面台も拭いておくで。」
「流しだけじゃ駄目よ。あと男子トイレもだから。」
「は!?いやさすがに」
「はぁ」
私の主張を聞き終わる前に、露は小さく息をついた。
「早い話が、保健相になったあんたは五年用お便所のボスってことよおーけー?」
「全然おーけーとちゃうっ!!」
こうして私の本校ライフは幕を開けたのだった。