8『母、激怒する』
『エリオン、騒がしくして申し訳ないけれど、わたくし達はこれで失礼するわ』
『!? 何かあったのか?』
冷ややかに一瞥だけを寄越して昂然と告げる母の様子に何か察したのだろう、男性の顔色がさっと変わった。
『エリオン叔父様……?』
兄の肩越しにその姿を認め、私は血の気が引くのを感じた。
エリオン・ラングス。
ラングス侯爵家当主で、私の母の双子の弟。つまり私の叔父様で、つまりはサラーティカのお父様。
今更ながら、とんでもない事を仕出かしてしまったと眩暈を覚えた。今日のパーティーはサラーティカの為のものだったのに、私の軽率な行動で台無しにしてしまった。いくら優しい叔父様とはいえ、笑って赦せる事ではない。申し訳なくて胸が痛んで、せめて謝罪をと思ったのに。
『母上に任せておけば良い』
『お兄様? 駄目です、そのような』
何故か不機嫌指数が急上昇の兄がそれを是とはせず、険しい顔で私に言い聞かせる。
『早く帰ってお前の治療に当たらねばならん。母上の治癒が効かないのなら、全治には時間が掛かるのだから』
……珍しく焦っているよう。この人は本当に過保護だ。私の骨折は言ってしまえば自業自得なのだから、
『お兄様がそんなお顔をなさる必要はありません』
と伝えたのだが、余計に渋い顔をされてしまった。
困った。こうなると長い。
どうしたら機嫌が直るのか?
一番手っ取り早い方法を知っているけれど出来る事なら避けたいし……と他の手を思索する私の視線がこちらを見た叔父の視線とぶつかった。
『オルディアス、フィオネッタも──』
兄に続いて私の名を呼んだ途端、叔父は絶句した。
ああ。まあ、今の私は随分と酷い有り様だから、そういうお顔にもなりますよね。本当に申し訳ないです。
『フィオネッタ……その姿は』
だが訊ねる叔父に対して、応える兄は酷く冷淡だった。
『詳しくはご息女にお訊きになられれば宜しいのでは?』
顔を見ようともせず、対話さえ厭うのか、そう突き放す。
『……サラ、か……』
絞り出した声に苦さが滲み、私の胸を詰まらせた。小さく頭を振ると、叔父は真っ直ぐに私を見た。母に似た柔和な面立ちは気の毒なまでに強張っていて、そして──
『すまない、フィオネッタ。いや……フィオネッタ嬢。我が娘の度重なる無礼、誠に申し訳ない。本人にも正式に謝罪させる故、どうか何卒、寛大なる裁量を検討頂けるようお願い申し上げる』
『お、叔父様!?』
深々と頭を下げる叔父。思いがけない行動に私は青褪め、狼狽える。だが、お顔を上げて下さいませとお願いするより早く。
『どうしてお父様が謝るのよ!?』
激しい怒りに身体を震わせて、サラーティカが叫んだ。
『どうして!? 私は何も悪くないわ! なのにどうして謝るのよ!? どうして私が謝らなくてはいけないの!? その子が公爵家の娘だから!? でも所詮、偽物じゃない! 皆、知っているわ、その子がただの紛い物だって皆、知っているわ!! だから私は何も悪く』
バシッ!!
サラーティカの言葉を遮ったのは、母の手にあった紅蓮の扇。強かに掌に打ち付けて響かせた大きな音は、ざわざわと騒がしくなり始めた見物人達を一瞬で黙らせ、サラーティカの言葉も怒りも簡単に捩じ伏せてしまったのだ。
『……ルディ、フィーを連れて先に馬車に乗っていなさい』
しん……と痛いくらいの静寂の中、そう告げる母の声に頷く兄は、私を抱えたまま馬車へと乗り込んだ。
扉を閉められたら一体どういった仕組みなのか、外からの音が一切聞こえなくなった。外で何が起こるのか分からず不安な私は、私を膝に置いたまま離さないでいる兄をそっと見上げた。
『お兄様……』
『お前を煩わせるものなど、此処には何もない。だから少し……眠れ』
そんな風に囁いて、彼は私の髪を指で優しく梳いた。
肩が痛くて痛くて、全く眠れそうにないのだけれど、確かに少しばかり草臥れてしまった。
汚れたドレスが悲しかった。
ヘアカフスが壊れて辛かった。
サラーティカに対しては怒りよりも申し訳なさが先に立って、心苦しかった。
自分の不甲斐なさばかりが思い出されて、またじわりと目に涙が滲んだ。
泣きたくはない。公爵家令嬢として毅然としていたい。母のように胸を張って堂々と構えていたい。
だけど結局、私にはどれも出来なくて。優しい両親や兄に恥をかかせるだけの自分が恨めしくて、憎らしくて。
そう考えたなら、もう駄目だった。
涙の堰はあっさりと決壊し、大粒の涙が次々に頬を流れ落ちた。私は幼子のように大きな声で泣き出してしまった。
『ご、ごめん、なさい……ごめんなさい、お兄様』
『何を謝る事がある?』
胸に縋り付いて泣けば、兄は私の言葉を軽やかに笑い飛ばした。泣きじゃくる私の背を優しく撫でて、
『フィーの泣き虫は母上にも治せまい』
などと言って、また笑う。
優しい人。だから今だけ、今だけと言い訳をして思う存分、私は彼の胸で泣いた。
水を打ったように静まり返る庭園で、エメンダは努めて平静を装いサラーティカと対峙していた。だが心の内には激憤が渦巻き、彼女を階段から引き摺り下ろして滅多打ちにしてやりたい衝動に絶えず襲われていた。
側に寄り添い、肩を支えてくれている夫がいなければ、すぐにでも実行しかねない程だ。
加えて、野次馬根性の逞しい見物人達の好奇の視線だ。
大いに顔を顰めながらも無視を決め込み、階段下から姪を睨め付けた。
『申し開きがあるのなら聞いてあげなくもないけれど?』
鋭い視線で貫けば、気圧されたサラーティカは顔を歪め、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。どう甘く評価しても反省の色なしである。その上、
『私は何も、悪くないわ』
の一点張りだ。呆れ返るエメンダは頭を振り、早々に彼女との対話を無駄だと切り捨てた。一言、
『貴女は、頬を打たれたくらいでは何も理解出来なかったのね』
とだけ、呟いて。
『エル、貴方に頼まれていた話だけれど』
双子の弟へと向き直り、エメンダは淡々と続ける。
『悪いけれどお断りさせて頂くわ』
『……そうだな、それが良い。どのみち今日の事は遠からず先方に伝わるだろうから、結果は目に見えているさ』
さして落胆した様子でもなく、エリオンは応える。
『エレにも義兄上にも尽力して頂いたのに、本当に申し訳ない』
『いや。偶々、私には伝があっただけだよ。それより支援の方はちゃんと継続させて貰うからね、安心して良いよ』
『義兄上……感謝致します』
この穏やかながらも有能で辣腕と名高い彼の気分次第で侯爵家の明日が天と地程も変わるという事実を、一体どれだけの人間が理解しているのだろうか?
彼を射止め繋ぎ止めている姉に心底、畏怖の念を抱くエリオンであった。