7『お姫様抱っこ』
背に響いたそれは、聞き慣れた声。
その声は耳を通り抜け身体の奥、私の一番深い場所まで易々と辿り着き、胸中を充たす得体の知れない靄のような何かを一瞬で蹴散らしてしまった。
燃え盛った怒りも灼けつくような瞳の熱も、過ぎ去った思い出のように輪郭を失い、散った後には綺麗さっぱり何も残らなかった。
その事に大いに安堵すると同時に、私は落ち着きを取り戻した事で自分の軽はずみな言動を思い返し、正に穴があったら入りたい──という気持ちになった。恥ずかしさが蔓延して、頭を抱えた。実際には肩の痛みが酷く腕が上がらない為、心の中だけでだが。
『フィー、大丈夫か?』
振り返らない私を不審に思ったのか、僅かに苛立ちを含んだ声で兄は問う。だが私が応えずにいると焦れたのか、足早に駆け寄り私の前へと回り込んだ。そのまま跪くものだから今度は私が焦る。
『お、お兄様、いけません。お召し物が汚れてしまいます』
『返事をしないお前が悪い』
じろりと睨まれ一蹴されて、返す言葉もなく私はしょんぼりと項垂れた。
『怪我をしているな……』
上から下までまじまじと私を眺めて、ぽつり呟いた兄の声音に私は凍り付いた。
何故なら彼が、とてつもなく怒っていたから。そう、激怒だ。
確かに、今の私の状態は見られたものではない。
綺麗に結われていた髪は解けてぼさぼさ、頬は涙でぐしゃぐしゃ、落下の際にドレスが汚れた挙げ句、裾は紅く濡れて変色しているのだから。なんとも不細工でみっともない姿だ。
さぞかし兄を失望させただろうと思うと胸が痛んだ。が、それ以上に冷や汗が止まらない。
だって怖いから、顔!!
お陰で涙も引っ込みました。
周囲を一瞥しただけで、彼は即座に全てを理解したのだろう。小さく吐いたため息さえ猛吹雪のように冷ややかで、私はびくっと身を竦ませた。
『すぐに母上を呼ぶ』
そう告げると兄は脱いだジャケットを私に掛け、痛む肩に触れないように慎重に腕を回して優しく抱き寄せた。服が汚れるから──と喉元までやって来た言葉は彼の一睨みですごすごと撤退したようだ。結果、私は躊躇いながらも兄に身体を預ける事にしたのだが、少しでも距離を取ろうとすると途端に不機嫌になるものだから、結局ぴったりと密着するしかなくて……なんというか、非常に恥ずかしい。
しかもまた兄の悪い癖が始まってしまった。キスの雨だ。この人は何かというと過剰な愛情表現をしたがる。何故なのか、不思議だ。
『お、お兄様、あの、』
肩は痛いし、がっちり拘束されて動けないでいる私の、最初は額に軽く口付け。
『ちょっと、待っ、』
次いで目尻から両の頬へ。次は鼻の頭に。ちゅ、ちゅ、と何度も音を立てて繰り返されるキスに目を回しながら私は、
──うわぁぁぁぁぁぁん、絶対に今、物凄く注目されてる!!
と心の中で大絶叫、そして大号泣。
先程の騒ぎを聞き付けた人達が会場を飛び出しテラスに雪崩れ込んだらしく、大勢の気配と視線がざくざくと背に刺さっている。
怖くて振り返れない。
その間もキスの豪雨は止まず困り果てる私だが、兄の発言を思い出し急いで訊ねた。
『あ、あの、お兄様。お母様をお呼びになられるのでは?』
『ああ、それならもう──来た』
『……え?』
『フィー!!』
男女混合の叫び声、聞き覚えがあるのは当然で。
『お母様? お父様も?』
振り返った私と目が合えば、大輪の花が綻ぶように破顔して、すぐさまお母様が猛然と階段を駆け降りてくる。足首までを隠す長いドレスの裾を捲し上げ、ヒールが鉄板を打つ音を高く鳴り響かせて、脇目も振らず私の側へと駆け寄った。転がり落ちそうな勢いで、お父様も後に続く。
『ああ! フィー、大丈夫なの!?』
『先ずはフィーに治癒を』
兄と同じように両膝を付く二人に青褪める私だったが、兄は私に飛び付こうとする母の眼前に手を突き出し押し止め、更に端的に告げた。
『恐らく骨折しています』
──え? そうなの? ……ああ、道理で痛い訳だ。
『分かったわ。……よく我慢したわね、偉いわ。さすがはわたくしの可愛いフィーね』
硬い表情で頷く母は一転、誇らしげに微笑み私の頬を優しく撫でた。
その隣で、
『こ!? 骨折って一体どうして!? 何があったんだ!?』
と青い顔をして一人で大騒ぎしている父を、完全に無視している二人だった。
ぽうっ……と。肩に添えられた母の手に淡い光が宿った。
母の魔力は母そのものだ。暖かくて優しくて、まるで波に揺蕩うような心地好さが身も心も癒してくれる。
しかし次の瞬間。
パキィン──
繊細な薄い硝子が割れたような音が響いて、砕けた光の破片が輝く粒子となって辺りに降り注いだ。
『!? 弾かれた? ……阻害されたと言うの?』
俄に、三人に緊張が走る。だが決断は早かった。互いに視線だけで確認すると、
『帰りましょう』
『ええ、そうね』
兄の言葉に母が即決し、父は馬車を庭園側に寄せるようにと馭者に伝令を出した。
『あ、あの、お兄様、私は自分で歩けますから』
さも当然のように抱え上げられて、私は羞恥に身悶える。涙目で訴えても兄は全く取り合ってくれないし、父は妙な対抗心を燃やして自分が抱っこしたいのに……などとぶつぶつ言っては兄に睨まれているし。
母は母でずっと青い顔で、大丈夫? 大丈夫? と繰り返しているし。
……本当に、私の家族は私に甘過ぎる。衆人環視の中でこのような行動をすれば醜聞になりかねないのに、一向に気にしないのだから困ってしまう。申し訳ないのに、優しさがとても嬉しくて、幸せで。また困ってしまうのだけれど。
馭者のマリウスが私を見るなり真っ青になって、慌てて馬車の扉を開けた。やっぱり兄には私を降ろす気など更々ないらしい、抱いたまま乗り込もうとするが。
『エメンダ、義兄上、一体何があったんだ!?』
エントランスから飛び出してきた男性の声にぴたりと足を止めた。
……あれ? 少しは良くなったかと思ったお兄様の機嫌が、また悪くなったような……?
過去話、もう少し続きます。