6『怒りが呼んだ恐怖』
『きゃあーーーーっ!!』
少女達の、絹を切り裂く悲鳴をどこか遠くに聞きながら私は、
ああ……、これは、軽い打撲や捻挫では済まないなぁ。
そんな事をぼんやりと、まるで他人事のように考えた。
このままでは背中を強かに打ち付けるだろう。最悪、頭を強打するかもしれない。鋼鉄製の踏み板だ、打ち所が悪ければ命の危険もある。
時間にすれば僅か二秒程。
妙に冷静な思考のまま、私は来るべき衝撃に備えてぎゅっと目を瞑り、出来るだけ身体を小さく丸めた。
そして次の瞬間。
私の身体は踏み板に叩き付けられ、無慈悲にも二度、跳ねた。
『────っ!?』
案の定、背中を打った。肩から背中にかけて激痛が走り、私は声にならない悲鳴を上げた。
短く刈り揃えられた芝生の上に転がり落ちた私は痛む肩を押さえながら、なんとか上半身を起こし荒い息を整える。
じわり……と目には涙が浮かんだが、耐えた。ここで泣き喚いて騒ぎを大きくするつもりなど更々ないし、何よりこれ以上この場にはいたくなかった。とにかく這ってでも、早く馬車へと戻りたかった。
だけど──
ぽとっ、と何かが落ちた音がして。不思議に思って下を向くと一拍遅れて、きちんと結っていた長い髪がはらはらと、頬を掠めて滑り落ちた。
『……あ……ああ』
それは、綺麗なヘアカフスだった。金色に輝く二重のリングに、アクアマリンとスタールビーがあしらわれた髪飾り。
蒼玉は父と兄の、紅玉は母の。それぞれの色を象った、とても美しいそれは、私の大切な宝物。
『これはね、私達家族四人を現しているのだよ』
そう微笑んで、今日の為に特別に誂えたヘアカフスを私にプレゼントして下さったお父様。
『うふふ、正に渾身の出来だわ。とっても良く似合っているわよ、フィー』
ナタリアと二人、ああでもないこうでもないとカタログとにらめっこしながら私の髪を編んで、仕上げにと髪飾りを着けて下さったお母様。
『ああ、本当に可愛らしい。こんなに可愛いフィーを誰にも見せたくないな。……どうしても行かなくては駄目か?』
そんな事を真面目な顔で訴えるお兄様だけれども。
『素敵なのはお兄様の方です』
『是非、皆様に私の自慢のお兄様をご覧になって頂きたいのです』
『……一緒に行っては下さいませんか?』
そう懇願すれば、お兄様は忽ちに冴え冴えと輝く美貌をふにゃり、と溶かして私を抱き締めた。
『今回は父上に先を越されてしまったが、また私からもフィーに何か贈ろう。楽しみに待っておいで』
私の髪で光るカフスを指先で撫でながら、甘い吐息と共にそう囁いたお兄様。
カフスを彩る美しい宝石が、そんな優しい思い出と一緒に、私の目の前で、砕けた。
落下の衝撃で割れたのだろうと、理解はしている。
だけど……頭では分かっていても心が追い付かない。呆然と、言葉を失ったまま壊れたカフスを見つめていると。
ぽろ……ぽろ……ぽろぽろ。
ずっと堪えていたものが、とうとう崩れた。目一杯、溜まりに溜まっていた涙が堰を切ったように零れ落ちた。
どうして、私の大切なものを奪うのか?
今まで、彼女にどれだけ蔑まれても嘲られても、私の事だけならば自分が傷付くだけで済んだ。誹謗も中傷も、甘んじて受けた。言葉の暴力ならば幾らでも耐えられた。
なのに、よくも、よくも。
私の大切な思い出を。
両親の愛を。
家族への私の愛を。
踏みにじったな。
赦さない、赦すものか!!
ざわり──全身が総毛立つ。
目が眩む程の、荒れ狂うこの感情は、怒りだ。自分の中にこんな激しいものが存在するなんて、思いも寄らなかった。
だけど確かに、臓腑を灼き尽くす程の熱は身体中を縦横無尽に暴れ回り、サラーティカへの明確な害意を形作った。
怒りのままに私は涙に濡れた瞳で彼女を睨め付けた。
『──ひっ!?』
私の視線に貫かれたサラーティカが喉の奥、引き攣ったような悲鳴を上げ、ほんの僅か後退った。
それは逃げ出したいのに逃げられない──そんな反応で、彼女らしくない姿に私は怒りも忘れて首を傾げた。
……なんだ、少し、
様子がおかしい。
先程までの彼女は抑えきれない怒りに身体を震わせていた筈だが、なのに今は、その震えの意味合いが全く違うものになっているようだった。
何故かは分からないが、
得体の知れないものを前にした時のように怯え。
酷く身体を強張らせ。
気の毒なまでに青褪めて。
声を上げて逃げ出す事も叶わず。
とても恐ろしいものを見るような目を、私に向けていたから。
だがしかし、そのさまの、なんと面白い事か。
ざわざわ、ざわざわ。
ざわざわ、ざわざわ。
胸の奥の方。
何かが無遠慮に囃し立て。
毒のようにじわじわと侵食し。
少しずつ、少しずつ、私の内を喰らう。
それが不快で仕方ないのに、堪らなく……楽しい。
腹の底から、嗤いが込み上げる。
ああ、なんて可笑しい、なんて滑稽なのか。
愉快だ、私を見下ろしている彼女がこの瞬間、私に見下されているだなんて。
散々、私を貶めておいて。
今頃、何が恐ろしいと言う?
『……はっ、はは、あはは』
私の中の私ではない私が、私の声を勝手に使って、発狂したかのように哄笑する。
それがとても、怖いのに。
止まらない、止められない。
ああ、何故だろう。
瞳が、燃えるように熱い。
嫌だ、怖い。誰か、助けて。
『フィー!!』