4『初めての兄妹喧嘩』
いや、きっと私の聞き違いだろう。だって今の今までとても感動的な流れだったのだから。
だが私の祈るような思いは、呆気なく打ち砕かれた。
「ああ、この子が娘なのね……って、それだけ。ああ! この子がわたくしの本当の娘なのね!! ──なんて気持ちには、ちっともなれなかったのよね」
「そうなんだよねぇ……」
まるで今日の天気を褒める程度の気軽さで母が語れば、同じ思いだったらしい父も苦笑いで頷いた。
おかしい……。父と母は、漸く見付け出した実の娘であるリリーナを公爵家へと迎え入れようとしているのではないのか?
人を遣ってまで捜し出した大切な娘なのに、これでは余りにも無関心が過ぎるのではないか。
これは……一体どういう事なのか?
困惑し、真意を問う言葉すら見失った私に追い討ちを掛けるように。
「だって、わたくしのフィーの方がずぅっと、ずぅぅぅっと、可愛いんですもの!!」
と、まるで恋する少女のように頬を赤らめて母が笑めば。
「そう!! そうなんだよねぇ!!」
と、父が先程と同じ言葉を、先程とは圧倒的に違う熱量で放って、うんうんと繰り返し頷いたのだ。
んんん?
明らかにおかしい。
そもそも、母にとても似ているというリリーナより私の方が可愛いなど、有り得ない。それは断言出来る。なのに二人して、私が如何に可愛いかを熱く語り合っているのだ。
困った。どうしよう、本格的に両親がおかしい。……どうしたら良いのだろうか?
こんな筈ではなかった。
きっかけがどうであれ、改めて今日この家を出ていく覚悟を決めたのに、これではまるで私が娘として側にいる事を望んでいるようではないか?
何故?
そんな事、有り得ない、あってはならない。
私は、私が搾取してきたものをちゃんと返さなくてはならないのに。
十四年以上も、本来この場にいるべき少女から奪い続けたものを全て、彼女に返さなくてはいけないのだ。
その為に、出来うる限りの手段を用いて、なんとか少しずつだが公爵家に今まで私に使ってもらったお金を返す当てを付けた。一生掛かっても無理かも知れないが、頑張るつもりだ。……兄に知られたら、きっと軽蔑されるだろうけれど、仕方ない。
そこまで考えてふと、私は隣に座ったまま未だ私の手を握り続けている兄へと視線を動かした。
「あの、お兄様。お兄様からもお二人に何か言って……」
兄に二人を説得してもらおうと思ったのだ。だが、私は気付いてしまった。私の縋るような眼差しを受けた彼が、
優艶と微笑んでいたから。
……お兄様は、何もかも全部、
「ご存知でいらしたの……?」
問う声は少し、震えていた。
「そんな顔をして、どうしたというのだ? フィー」
その美貌に極上の笑みを載せて小さく首を傾げる。私が何故そんな事を訊ねるのか、まるで分からない──そんな風に。
「……、! ではもしや、あの話が駄目になったのは……」
思い当たる事があった。家を出た後の私の働き口先が何故か突然、断りを入れてきたのだ。
「ステイシアが急に都合が悪くなったと、」
「当然だろう?」
兄がすうっ、と目を眇めた。
そこに僅かに──けれど確かに揺れる激しい怒りに、私は問う言葉を呑み込んだ。
「たかだか伯爵家の分際で私からフィーを奪い、あまつさえ己の手元に置こうなど一体どういう了見か。身の程を弁えぬ愚か者が」
「どう、して……?」
どうして知っているのか。
私が親友のステイシアに頼み込んで就職先を斡旋して貰った事を何故、兄が知っているのか。私と彼女、二人だけの秘密なのに。誰にも──信頼する侍女にも話していないのに。
しかし兄は笑う、さも当然とでも言わんばかりに。
「私を出し抜けるとでも思ったか?」
間近に迫る美しい顏。握ったままの手には一層、力が込められる。
「私から逃げられるとでも?」
ぞわり──背を、冷たいものが這った。
「諦めろ。世間知らずのお前に給仕など無理だ。お前はこの先もずっと私の側にいればそれで良い」
「何を……」
言っているのか、そんな事、
「そんな事、出来る筈がありません。私は」
「私は勿論の事、父上にも母上にもお前を手放す気など微塵もない」
ロイヤルブルーの瞳が一際、強い輝きを放つ。それは冷たく熱い、情念の炎。
意味が分からない。
何故そんな事を言うのか?
何故そんな事を望むのか?
私がこの家の、誰とも血の繋がりがないと明らかにされたのだ。なのに何故、手元に置きたがる?
私に価値など、砂漠の砂一粒程度もないのに。
王族貴族が何より尊ぶのはその血だ。どれ程に優れていても血統で劣れば、その者に拓かれた道は存在しない。
屑でも下衆でも、無能でも有害でも、血さえ貴ければ全てが罷り通る歪なこの社会で。
首席公爵家の嫡男である兄は誰よりも強い特権教育を施されている筈だ、なのに何故、無価値の私に固執するのか……理解出来ない。
「……お兄様が、どのようにお考えでも、私の決意は変わりません。私は……」
「無駄だ、チェスカーノ伯爵家にお前の居場所はない」
──自分で取り上げておいて、何を言うのか!?
「お兄様の指図は受けません!!」
苛立ちからか、思いがけず大きな声が出た。私は握られた手を荒々しく振り払って立ち上がると、追いかけてくる手を拒むように兄を強く睨み付けた。
「私はもう決めたのです! 他にも頼る所はございます、ですから」
「無駄だと言っている。そもそも人見知りのお前と繋がりのある者など程度が知れている。さあ、今度は一体、誰に頼る気だ?」
ああ、この人はとことん私を傷付けたいらしい。腹が立つ、人の気も知らないで!!
「サラーティカとアインベイクが、協力して下さるそうです!!」
その瞬間、彼から表情が抜け落ちた。
ああ……言ってしまった。
言いたくはなかった。
だが、これで兄は私に失望するだろう。
彼が蛇蝎の如く嫌っている二人に頼る私など、絶対に赦さない筈だ。
「……お前は……」
地を這った低い声、兄が発したと気付き私は小さく身を震わせた。そして、自分の認識の甘さを痛感する事となる。
「あの連中が……あの女がお前に何をしたのか忘れたのかっ!?」
語気を荒げて激昂する兄。白皙の頬は怒りに染まり、額には幾つもの青筋を浮かべ。立ち上がり、私の手を今度は痛いくらいに強く握り、凍える瞳で私を見下ろしている。
こんな姿を見るのはあの時以来か。
忘れる筈がない。
忘れられる、訳がない。
今でも時折、思い出しては恐怖するのだから。