九
色吉は太助とともに、樹の陰にひそんでいた。道を挟んだ向こうにある旗本の下屋敷を見張っている。
深川の大名旗本の中屋敷や下屋敷が多く建っているあたりで、色吉たちのいるところはちょっとした雑木林のようになっている。
「あの屋敷になにがあるってんだ」
そわそわと太助が言うと、
「わからねえ。まだ二日じゃねえか、そうあせんねえでくれよ」
色吉が答えた。
「是坊様」を探すのに太助たちの手を借りるとすぐに江戸の下屋敷が深川に見つかった。昨日から張り番しているのだ。上屋敷もあったのだが、内藤新宿ということでお浅の話をかんがみてこちらにしぼったのだ。
「お蘭って娘のことだが」
色吉が言った。お蘭は二番目の犠牲者だ。「水茶屋の看板娘だなんざ、どんだけ乱れてるかと思いきや、抜け癖で店の仲間に評判が悪いってだけで、男に関しちゃあ感心なことに浮いた噂ひとつ出てこねえ。客に一方的に口説かれることはずいぶんとあったみてえだがよ。もっとも怠けてる間になにやってたかは誰も知らないみたいだがよ」
「へえそうかい。実はお幹に関しても、おいらが調べた限りじゃあ全く同じだったぜ」
そして色吉の知る限り、お常についても同様だ。
「そのお幹もお蘭も、あの屋敷で怠けてたんじゃねえか、つうのがおれの見立てよ」
「ふーん。しばらくなにも出てこなけりゃ、おいらたちは引きあげるぜ」
それから二人は黙って見張りを続けたが、しばらくして太助が言った。
「おっ、なんか出てきたぜ」
玄関の門を出てきたのは主従とみえる侍のふたり連れだった。
「あいつぁ」
思わず色吉の口から漏れたことに、それはお常の住処のまえで会ったあの侍とお付きのものだった。
太助の目が、どうする、と訊いてきた。
「おれは顔を知られてるから、あんた頼む」
太助が、どういうことだ、とちょっと眉をひそめたが、
「詳しいこたぁあとだ」
と背中を押した。
太助が去ったあとは色吉ひとりで見張っていたが、特に変わったことはなかった。女中がひとり、老爺がひとり、それぞれ別々に出ていって、使いをすませて帰ってきただけだ。
夕方、卒太と根吉が交代のためやってきたときもまだ、是坊家の侍と太助は戻っていなかった。
色吉はいったん羽生の旦那の退勤にともなったあと、すぐに是坊の下屋敷に引き返した。
「親分は戻りなすったかえ」
声を落として卒太と根吉どちらにともなく尋ねる。ふたりは首を横に振った。
夜も遅く、八つもまわったあと、侍の主従が帰ってきた。供のほうは酔っているのかだいぶ足元が怪しくなっている。そのうしろに、さらに足元の怪しい太助が続いていた。色吉は夜目がきくので乏しい星明りのしたでもそれだけ見てとった。
「たいへんだったぜ」
戻ってくるなり太助が言った。「うう、気持ち悪い」
「ふらふらしてるわりに、酔っちゃいねえようだが」
「おう、色吉の、まだいやがったか。なにしろ奴ら、四、五軒も水茶屋を回りやがったもんでよ」
「まさかおめえ、全部つきあったのか」
「あたりめえだろう。だから見逃さなかったのよ」
「店の外で待ってりゃあいいだろうが」
「そんな長えこと待ってられるか他人事だと思いやがって」
「だからってそんな何軒も……ここじゃなんだ、引きあげて旦那の家で話そうぜ」
いちいち太助から話をきいてそれを歩兵衛や羽生に伝えるのも面倒だし、本人からじかのほうが余計なものが入らなくてよいだろう、と思ったのだ。もうだいぶ遅いが、一晩寝ていろいろと大事なことを忘れられても困る。しかし太助は驚きと、かすかなの怯えの入り混じった顔をした。
「いや、おれはもう帰って寝るぜ」
渋る太助を引っぱるようにして羽生邸に連れてきた。
「どうしても帰るってんなら仕方ねえ。おれのほうがあんたの長屋に行くぜ。旦那とご隠居にもご足労願ってな」のひとことが効いた。
裏口から入り、眠っているだろう理縫と留緒を起こさないようにそっと歩兵衛の部屋を訪ねた。ご隠居は行燈をともして書を読んでいた。羽生も灯の届かない暗がりに座っている。
「どうも、ごぶさたで」
太助が挨拶すると、
「太助殿もたまには遊びに来られよ」
と歩兵衛は笑った。太助も愛想笑いを返した。羽生の姿がよく見えないからなのか、以前ほどはびくびくしていない。
「ご隠居さま、よろしいですか」
襖の向こうから声がかかった。
「おお、良いよ」
歩兵衛が応えると、留緒が盆を持って入ってきた。ご隠居、太助、色吉のまえに茶を置く。羽生には小さく頭をさげるだけで置かない。寝てりゃあいいのに、と色吉などは思うが、留緒のほうはそういう性分で、つまり、客がいるのに茶を出さないと、気になって眠るどころではないのだ。
まず色吉がざっと事情を話し、それから太助をうながした。
色吉と、あろうことか羽生にまで絡んで土下座までさせた侍とその供は、まず本所の水茶屋に入った。これは神田の稲荷神社で見つかったお幹が勤めていた店だった。まだ日は高かったのに、そこで半刻ばかりもねばっていた。ときどき店の娘に顔を寄せてなにやらささやいていた。娘もこういう店のものらしく、愛想よく応じていた。
そこを出るとつぎに両国の水茶屋に行った。ここはお常の勤めていた店とは違う店だった。ここでも半刻から一刻ほどもねばった。行動はさっきの店と似たようなものだった。
それからぶらぶらと歩いて大橋を渡り、川風にあたりながら浅草に行き、水茶屋に入った。
「まさかお蘭の店か」
「おう。おめえも勘がよくなってきたな。まあ浅草じゃあ他にも二軒ばかり回ったんだが」
「おいちょっと待て、さっきも聞いたが、おめえ本当にいままでの店全部にあの侍といっしょに入ったのか」
「莫迦いえ、全部いっしょに入るわけねえだろう」
色吉はほっとした。こいつもそこまで馬鹿ではなかったようだ。
「ちいと間をおいてから入ったのよ」
やっぱり馬鹿だったようだ。
「なにしろ一軒の店で半刻からねばるもんだからよ、こっちだって水一杯茶一杯つうわけにもいかねえ。腹がたぷたぷよ」
「それで酔ってもねえのにふらふらだったのか」
色吉があきれていると、太助はこっくりこっくり舟をこぎ始めた。
「おい寝るな、続きを話せ」
色吉は太助を揺すぶった。揺すぶられたのが心地よかったのか、目をつむったまま、太助の顔に笑みが広がった。
「気持ち悪いな笑うんじゃねえ、起きやがれ」
色吉は二、三発、軽く太助の頬を張ったが起きない。にやにやと笑いをへばりつけたまま気持ちよさそうにゆらゆらと揺れている。
「しかたねえ、旦那に頼んで――」
すると太助はすぐに目を開いた。
「続きといってももう大したことは残ってねえ。そのあと両国の広小路まで戻って、そこでまた一軒、水茶屋に入ってまた店の娘となにやらくっついて親しげに話したあと、屋敷に戻ったってことよ」
「なにか変わったことはなかったか。店の娘とはどんな話をしていたか聞こえなかったか」
「なにしろどの店も騒がしかったし、怪しまれちゃまずいんでそんなに近寄るわけにゃあいかなかったんでな」
四、五軒も同じ店に現れりゃあどう考えたって怪しまれてないわけがねえだろうがこの間抜け、とは思うだけで、
「その娘どもには、こう、なんだ、なにか共通点みてえなものはなかったのかよ」と訊いた。
「そういやあ」
太助は腕を組み、目をつぶって考える。
「なにか思いだしたか」
「……」
しかし太助は、そのまま動かなくなった。
「旦那――」
すると太助は目を開いた。
「みんな、若い女だったな」
そりゃ娘なんだから若い女だろうがこの間抜け、とは思うだけで、
「他にはなんかねえのか」と訊いた。
「うーん」
太助は腕を組み、目をつぶった。
「旦那――」
「まだ寝てねえよ!」
太助は目を開いた。
「んで、どうなんだ」
「だめだ、ねえな」
じゃあ今日はこのあたりで、と色吉が言いかけたとき、それまでずっと黙って聞いていた歩兵衛が口を開いた。
「是坊様、というたか」
「へい。旦那とあっしに土下座をさせたやつです」
「娘たちはひどい殺されかたをした、という話だったが、どうひどいのか話してくれぬか」
色吉はそこで、様子を詳しく話した。――娘が腹を裂かれて臓物を喰われていたということを。
「ふむ」
歩兵衛はちょっと顔をしかめ、それから腕を組んですこし考えをまとめる様子だった。そして長い話を話しはじめた。