八
杵屋弥六堂は天明から寛政にかけて、十年あまり存在していた版元です。だからいまからざっと五十年ほどまえになりましょうかな。このころの出版界にはあの蔦重がいたし、なにより泡沫版元のひとつでしかなかったから、まあ知らなくとも無理はないでしょう。
まずは絵草紙、江戸絵、錦絵のような刷り物からはじめて、これらはなかなか好調だったのです。そのころは絵草紙屋も町中にたくさんありましたからな。だからそれから草双紙、黄表紙、往来物、滑稽本……とだんだんに手を広げていったのはまあ当然のことといえましょう。
しかしですな、それが杵六の最初のつまづきとなりました。手を広げ過ぎたのですな。
もともと、杵屋が抱えていた絵師はそれほど多くなく、さよう、せいぜい二、三人といったところだったでしょう。そして今日まで名が残っているのはわずかひとり、那実川仁州だけといったありさまです。
……はは、その那実川仁州ですら聞いたこともないといった体、お二方ともそう顔に書いてあります。
そう、しかし絵師はまだよかったのです。少ないとはいえ、いたのですから。
杵屋のお抱えについていえば、文筆家にいたっては皆無だったのです。つまり、名前の残っている戯作者や狂歌師などは、という意味ですが。
じゃあなぜそんな分野に進出したかというと、そのころ景気がよかったということもあり、文筆業のものがしきりに売りこみに来たのですな。杵六もいける、と思っていたのでしょう、いろいろと刷り道具など拡充して、職人なども確保したのです。
そんなふうにして、ところがいざ文字本を出してみると、その売り上げは惨憺たるものでした。杵六は絵を見る目はあったが、文字を読む目はなかった。
だから杵屋弥六堂から出版された文字本に関しては、杵六が筆名を取り換え引き替え、みずから書いたようなものも多かったといわれております。
さて、このままでは手を広げたときに大きくした借金も返せないと悟った杵六は、文字本についてはあきらめ、原点の絵草紙、錦絵に戻ることにします。ただその際にひとつ――文字本の経験を生かしたいと考えたのでしょう――ひとつ商品をくわえることにします。それが道中絵双六でした。
道中絵双六といえば、東海道や中山道をたどるというものがすぐに思い浮かびますが、杵六はも少し規模を小さくして、行き先を成田山や、あるいはもっと近い御府内の、そう、例えば、浅草寺や、飛鳥山……などとしたのでした。そしてそれに、ひとつ工夫をくわえました。升目に道中にある食いもの屋、みやげもの屋など本当の店を載せ、双六遊びと名所図会を混ぜたようなものにしたのです。
絵双六といえば正月にしか売れないようなものですが、これならば観光案内を兼ねていますから年中売ることができたというわけです。もっとも、飛鳥山あてのものは、春にしか売れなかったかもしれないが……。
最初のうちは物珍しさも手伝って、かなり売れたようですが、わりと早くに飽きられたようです。というのも観光地やうまい飯屋を知りたければ、それこそ名所図会だの飯処番付だのを見ればよいわけで、わざわざ時間のかかる道中双六など遊ぶことはないわけですからな。
しかし最初の勢いで杵屋がひと息ついたのは確かなようでした。これにはもうひと工夫あって、この近場名所案内道中絵双六がよく売れたあとに第二弾、第三弾を出版するときに、掲載する店に売り込んで広告料を出させたようです。もちろん断った店もありましたが、そういう店はたとい有名店といえども載せず費用を出したところだけ載せました。あたりまえですな。それなりの宣伝効果はあったようで、最初断ったが次からは載せてくれ、と向こうから言ってきた店もあったようです。ところでこの広告を取るのに、杵六は文字本のときに役に立たなかった自称戯作者たちを遣わしたということです。売り込みはうまかったということなのでしょう、こうしてみると杵六というのは、文章を読む力はなかったかもしれないが、人の使いかたをまったく知らないというわけではなかったようですな。
閑話休題、絵双六の売れ行きでひと息ついたのもつかの間、棄捐令がお上より発せられます。平たく言えばぜいたく禁止令ですな。そして正月には道中双六の販売まで禁じられてしまった。これは杵屋にとっては大打撃となりました。変わり双六は売りあげを落としていたものの、ふつうの道中双六は正月の売り上げを大いに見込んでいたからです。
悪いことは重なるもので、杵屋弥六にとって個人的にもおおきに衝撃を受けることが起こりました。このころ目の中に入れても痛くないほどかわいがっていた、六つになる娘が亡くなったのです。なんでもない風邪だったようだが間が悪かったのか……。
娘は道中双六遊びが好きでよく遊んでいたことから、供養のつもりだったのでしょう、杵六は禁止の道中絵双六を作ることを決心します。
娘が迷わず成仏して、極楽へといけるように、との願いを込めて彫心鏤骨、苦心惨憺、作りあげたのが、「来世沈世絵双六」でした。絵師は気心の知れた那実川仁州、文章は杵六本人と考えられています。
沈世とは浮世すなわち今生の反対を意味したようです。来世というのは当世の反対、というほかに、娘の来世を頼むという願いもこもっていたのかと思います。
ご禁制の双六を作るわけですから本来これは地下出版物なわけで、となると版元の奥付などいれないか、いれたとしても仮のものにするだろうに、杵六は莫迦正直に自分の屋号を入れています。娘への供養なのだからちゃんと証をたてておきたかったということでしょうか。いずれにせよ、このときすでに、廃業の覚悟は決めていたのでしょうな。
沈世双六が何部作られたかはわかっておりません。しかし木製の外箱に屏風式の盤面、駒は木彫り、賽は象牙……弥六堂一世一代の豪華版でしたから、それほどの数は出ておらないでしょう。
これを出してからしばらくして、杵屋弥六堂は店をたたみました。その後、店主やその家族、絵師たちがどうなったかはわたしも知りません。
わたしの親父、だからこの家にとっては先々代にあたりますが、当時まだ小さく、藩のほうにいた私のために来世沈世絵双六を手に入れてくれました。父としてはお化けだ幽霊だのモノノ怪だのと怖がらぬように、そういったものに慣れさせるようなつもりだったのかもしれません。
わたしはこの双六に魅了されまして、おかげで長じてからも子供の遊び道具や幽霊画や妖怪をかたどった置物など蒐集するようになりました。当代のときは隠れるようにやっておりましたが、代を譲った今ではこうしておおっぴらにしております。隠居の身で国元に帰らないのも、やはり御府内はなにかと流通がよいからなのです。
さて、貴殿らは実に運が良い。実は来世沈世絵双六も、つい先ごろまで藩のほうの物置に置いてあったのです。こんどの正月をこちらで迎えるので、ちょうど取り寄せたところだったのですよ。これもなにかの縁なのでしょう。
では、ずいぶんと長い話につきあわせてしまいましたな。来世沈世絵双六の実物を、お見せいたしましょう。
田尻荘内は腰をあげた。




