二
わたしはご存じの通り、浅草の菓子屋の娘として生まれまして、両親に男の子が恵まれなかったものですから、わたしが婿を取って今では店を継いでおります。
わたしにはいくつか妹がおりますが、すぐ下の留依は生まれつき体が弱く、何年か前にずいぶん幼くして亡くなってしまいました。ちょうど今の留緒と同い年でございましたか。
さて、この留依が生きておりました時分のはなし、いつ頃からだったからはもう覚えておりませんが、わたしもずいぶんと幼いころから、毎年正月になると双六あそびをしたものでございます。
この絵双六なのですが。
名前を「しずみよすごろく」といいまして、しずみよとは、浮世の反対、沈む世、と書きました。
浮世がこの世のことを指すとすれば、沈世はあの世のことを指すという洒落で、ふつうの廻り双六がこの世で道中を旅する様だの、この世で成り上がっていく様だのを遊びに模したものとすれば、これは死んでから無事に成仏するまでを遊ぶ、という、ある意味趣味の悪い、というかどのような意味においてもとても趣味がいいとはいえないものでした。
しかし子供というのは大人から見たら趣味の悪いものを好むもので、わたしも留依もこの双六が大好きで、毎年正月を待ちかねて楽しみに遊んだものでした。というのもふだんは物入れの奥にしまい込まれていて、正月に父が出してくれるのを待つほかなかったのです。そして三日が過ぎると、また奥深くしまい込まれてしまいましたので、わたしたちはまた次の正月を待つしかないのでした。
父によれば、沈世双六は父が子供のころに父の父、わたしから見れば祖父に買ってもらったものだということでした。
おそらくかなり高価なものだったのではないでしょうか。というのも、盤面は拡げると縦横三尺四尺ほどで、特に子供の目からはかなり大きく、しかもよくある絵双六のような一枚紙ではなく厚みのある紙で、ちょうど屏風のように四つにたたんでしまえるという、豪勢なものだったのです。
描かれている絵もきらびやかに彩色されていて、まるで錦絵のようでした。いえ、いま思いだしてみますと、そのいろいろな色にあふれた刷りはまさに錦絵そのものだったように思います。
さて、その双六遊びのなかみですが、まずふりだしが遊び子が死ぬところから始まるのです。
そしてあがりまでの道を魂として進んでいくのですが、これが本筋で、冥府の道、冥道と呼びます。
あがりは、さっきも言いましたように成仏です。成仏までのあいだに、徳を積んでいきます。止まる枡によって、三回休んだり、そのときに般若心経をお唱えしたりするのです。そのたびに徳を表す小札を貯めていきます。あがったときにも、その順番によって小札がもらえます。もちろん早くあがった者が多くもらえるのです。そして最後に、多くの小札を持っている者が勝ちです。
大きくはこうやって遊ぶのですが、駒の止まる枡によって、いろいろと小さな変化が出てきて、遊びかたが変わっていきます。
例えばある枡に止まると実は遊び子は恨みを呑んで殺されたということがわかり、幽霊になります。最初から幽霊じゃあないか、と思われるかもしれませんが、この双六では魂と幽霊は異なるものとして遊びます。幽霊は恨みの念を持っているのです。そして幽霊は、盤上を冥道とは別に走っている幽霊の道へ迷い込むことになり、自分を殺した相手を取り殺すか、あるいは逆に赦すかしなければなりません。そうするといくらかは回り道になりますが、本筋に戻ることができます。
取り殺すか赦すかは、幽霊になった遊び子が自分で決めていいのですが、やり方は幽霊の道の途中途中にある取り殺しの枡と赦しの枡に止まったときに、今まで積んだ徳の小札を枡にかいてある枚数だけ払うのです。この枚数はまちまちで、小札が足りないとその枡での赦しや取り殺しはできません。また、赦すつもりだったけど取り殺しの枚数の少ない枡に止まったから、というのでそこで取り殺しに変更する、ということもできるのです。逆も然りです。
そして、ここで取り殺すか赦すかは、実はあがったあとに効いてくるのです。さきほどあがりが成仏だという話をしましたが、この双六の面白いところは――そして嫌なところでもあるのですが――あがったあと、つまり成仏したあとにさらに極楽と地獄にわかれることです。ここでおもしろいことに、自分を殺した相手を赦したからといって極楽浄土に行けるとは限らず、また取り殺したからといって地獄に落ちるとも限らないのです。
というのも、自分を殺した相手が、前世での恨みをもってしたならば、それは正当とみなされて、それをさらに取り殺してしまうと地獄行きです。赦すと極楽です。
反対に、相手が単に現世での欲で自分を殺したなら、赦してしまうのは相手のためになりませんから地獄落ち、今度は取り殺すと極楽です。
……というのは理屈で、ではそれはどうやって決まるかというと、遊び始めるまえにあらかじめ札を――これは徳をあらわす小札と区別するために大札と呼びますが、その大札を――裏にして積んでおくのですが、あがったときに一枚とるのです。するとそこに事情が書いてあって、地獄極楽が決まるのです。
それから、止まった枡によっては、妖怪に変化してしまうこともあります。
これは、悪い妖怪にたぶらかされたためで、こうなると本筋の冥道を行きつ戻りつすることになります。つまり、次の賽を振ったときには、目の数だけ逆に進みます。それからまた妖怪になった枡のほうに進み、ちょうどぴったりそこで止まるまで行ったり来たりを続けなければなりません。ぴったり妖怪枡に止まれば、人間に――というか人間の霊魂に、ということですが――戻ることができて、また順に駒を進めることができます。この妖怪枡は、たしか五か所くらいはあったと思います。
ただ、妖怪は人間にいろいろといたずらができるのです。人間と同じ枡に止まったら、その人を賽の目の数だけ休ませたり、もっとひどいことにふりだしに戻したりもできるのです。ただし、いたずらに応じて積んできた徳の小札を払うことにはなりますが……。
それから、お化けというのもあります。これは幽霊や妖怪とはまた別に、お化けがあるのです。
これも幽霊や妖怪と同じように、お化けになる枡に止まると、駒はお化けになります。そうなると、あがるのが難しくなります。あがりの枡の手前には三途の川が横たわっていて、そこを渡るとあがりなのですが、そして人間の駒はサイコロの目が余っても渡れるのですが、お化けは渡し場でぴったりと賽の目が合わないと、そこではじかれて今度は本筋を逆に進むことになるのです。ふりだしに戻ったら、また同じようにひとつ手前で跳ね返されて、また順に進んでいきます。
じゃあお化けはずっとこうやってあがりとふりだしのあいだを往復するしかないかというと、そうでもないのです。
本筋の冥道はくねくねと蛇行しながらふりだしからあがりまで続いていますが、その蛇行を、お化けだけが通れる近道があるのです。お化けはそこを通って、また本筋に戻ると、ゆく向きを選ぶことができるのです。つまり、あがりに向かってもふりだしに向かうのでも、どちらでも好きなほうに行けるのです。ただし、いちど決めた向きはつぎに近道を通るまで変えられません。
それから、お化けは幽霊の道にも入って、そこを通ることができるのです。
そして、うまく賽の目が合って、他の駒と同じ枡に入ると、その駒と役割を入れ換えることができます。
つまり、人間の魂の駒といっしょになればお化けだった人が魂に戻り、人間の魂だった人はお化けになってしまいます。そのあと、人間に戻ったほうが逃げるために、お化けになったほうはお休みします。これは一回から三回までで、人間に戻ったほうが指定できるのです。さっき言ったようにお化けには近道がありますから、お休みは長ければよいというものでもないのです。
いま言ったように、お化けは幽霊の道にも入れますから、幽霊を追いかけて幽霊と入れ替わることもできます。逆に、幽霊がお化けを追いかけることもあるのです。お化けになれば他に人の霊魂がいるときは、その人と入れ替われますから。
お化け同士が同じ駒に入ったときは、それまでに積んだ徳が小さいほうが人間の魂に戻れます。そう、徳の小さいほうなのです。だからお化けになってしまう危険を考えると、徳も大きければ大きいほどいいとも限らないのです。
このときも、人の魂と入れ替わったときと同じように、人間に戻ったほうがお化けの休む回数を決めて、逃げます。
そうそう、思いだした、言うのを忘れていましたが、お化けになっても徳を積むことは人間と同じようにできるのです。
さて、あがりの手前に三途の川があることはさっき言いましたね。渡し賃は六文だと言われていますが、冥府道中で積んできた徳の小札が渡し賃になります。ここでこれまでに貯めた徳札で足りれば三途の川を渡ることができますが、足らないと、なんとふりだしに戻ってしまいます。これは結構腹の立つことで、何人かで遊んでいると、ここで頭にきて辞めてしまう子もおりました。
それにこの双六は終わるのにたいてい半日かそこらはかかるものですから、途中で飽きてやめてしまう子もありました。
そして、三途の川を渡ればあがりとなるのですが、この双六のおもしろい、そして嫌なところは、あがりで札の数で一番になったところで、それは遊戯には勝ったのですが、遊び手は地獄に落ちていることもあるというところです。逆に、どんけつで負けても、極楽にいければまだ気が晴れます。最悪なのはどんけつで負けたうえに地獄行きのときで、これは本当に嫌な気分になります。いったいこれを作った人はなにを考えてこんな嫌な後味の遊戯を作ったのだろうと思ってしまいます。最後まで遊んでもそれで嫌になって二度とこの双六はやりたくないという子も多かったのです。
でもその一方で、なぜかこの沈世絵双六が好きで――いえ、ひょっとしたら好きというのとは少し違うのかもしれませんが――それこそ取り憑かれたように遊んでしまう子たちもいました。
わたしもそうですが、妹たちも夢中でした。
「沈世双六の進め方は、わかっていただけたでしょうか?」




