七
羽生はなにごともなかったかのように滑らかに立ちあがると滑らかに歩きはじめたので色吉も従った。向両国に戻り、こんどは観世物通りを歩く。
しばらく歩いて羽生は獣使いの小屋のまえで滑らかに停止した。
木戸番は宮助ではなかった。臨時雇いだろう。色吉は二人分の木戸賃を払った。
舞台にはちょうどお浅が出ていた。正面、左、右、と辞儀をする。派手な衣装と舞台化粧でなかなかの美人に見えた。
「わっ」
「きゃあぁ」
「ひっ」
見世物客の悲鳴、息をのむ声があがる。舞台袖から熊が出てきたのだ。
熊は両前足をあげてのっしのっしと後足で歩いて、中央のお浅に近づいていく。
「ぷっ」
「あはは」
客席から、今度は失笑や嘲笑めいた笑いが起こった。
「なんだありゃ」
「金返せ」
あきれ声や文句も混じってくる。
熊は手や体の皮が余っていて、動きもゆったりとしている……というより鈍重で、足元もおぼつかない。どう見ても人間がぶかぶかの熊の毛皮をかぶっているだけだった。
熊は皮の余っている手、前足ならぬ手を伸ばして舞台の真ん中にいる獣使いの女をひっかこうとした。動きが鈍いから、お浅は簡単にくるりと身をかわした。
女は懐から鞭を出して、ぴしりと地を叩いた。熊がおおげさにのけぞりかえると、笑いが起こった。そののちもお浅と熊は滑稽な動きをかけあいのようにやって見物の笑いを誘った。
鞭に追われて熊が引っ込み、笑いが収まったところで、お浅はまた舞台の中央に立ち、客に向かって体を折るように深く頭をさげた。舞台袖から出てきたなにかがその上を飛び越えて反対側の袖に消えた。
「ひゃっ」
「なんだ」
客席から声があがる。
狼だ。色吉は人間ほども大きな狼がお浅のうえを飛び越えるのを見た。
狼が今度はゆっくりと姿を現すと、どよめきが起こった。人間熊の余興が終わり、本筋の芸が始まったのだ。
獣使いが鞭をぴしりとひと振りすると、狼は伏せ、の姿勢をとった。その姿勢、筋肉の張り、動作の鋭さ。本物の猛獣だ。猛獣は大きな輪をくぐったり、後足で立って歩いたり、さらに前足で立って歩くという、人間でいう逆立ち歩きのようなことまでしてみせた。
しまいに狼がしゃがんでこちらを向き大口を開けた。口先は一尺ほども開き、ずらりと並んだ牙によだれが糸を引いていた。
お浅がそこに、自分の頭を差し入れた。顔は観世物客に向けたまま、頭を横にして獣の上下の牙のあいだにすっぽりと収める。狼が口を少し閉じ、また開けた。さきほどよりもさらに大きく口を開いたあと、がっ、音をたてて一気に口を閉じた。
見物衆から悲鳴があがった。
しかし猛獣使いはそのほんの少しまえにすばやく頭をはずし、獣のあごのしたに移していた。あまりに早かったので見世物客には女の頭が狼のあごを通り抜けたように見えた。
ほう、というためいきのあと、割れんばかりの拍手が起こり、そのなかを狼にまたがった娘が手を振りながら退場していった。
「いやたいしたもんだ」
色吉はまったく、興奮さめやらぬ、といったていだった。
「ありがとよ」
お浅はそっけなかった。
「どうやってあの狼をしつけたんだ」
「さあ。あたしにもわからないね」
お浅は化粧を落としながら言った。
「からかっちゃいけえねえ」
「ほんとだよ。あたしが頼むと、権太は言うことをきくんだ」
舞台の終わったあと、今日は楽屋に通してもらった。羽生は壁際に座っている。権太がその周りをうろうろしながら、しきりににおいをかいでいた。
「檻に入れたり、鎖につないだりしないで、逃げだしたりしねえかい」
「しないよ」
お浅は鏡のまえを離れ、土間に降り、顔を洗った。「そんで、昨日の今日でなにしにきたんだい」
「おう、そいつを忘れてたぜ」
色吉が振り返ると、狼は多大有の横で丸くなって寝ていた。「お常さんがこの五日ばかり店に出てもなけりゃ家に帰ってもねえんだ。なにかお常さんの行きそうなところに心当たりはねえかと思ってな」
「ないね」
しかし色吉には、お浅がちょっとためらったように見えた。
「正直に言ってくんねい」
「あの娘とはただの知り合いで、友達でもなんでもない、と言ったはずだよ」
「でも近所づきあいはあったんだろ。友達づきあいはないとしても」
「近所づきあいなんかもないね。とにかくいっさい、つきあいはなし」
顔をふきながら言った。静かだったが、きっぱりと切り捨てるような口調だった。
「子供のころはよく遊んだもんだったけどね」
舞台化粧をすっかり落としたお浅は、平凡な、というよりむしろ不格好な顔に戻っている。
「お常のほうは小さいころからあたしと遊んじゃだめだ、って親からずっと言われてたんだ。こんなころは」と、胸のあたりに手をかざして見せる。「親には隠れて遊んでたんだけど、物心ついたころにはもう遊ばなくなってたね」
お浅は唇をゆがめるように笑った。
「そうかい、あくまでとぼけようってえつもりか」
「あんた、人の話を聞いてたかい」
「餓鬼のころの話なんざ知るか。おれがそんな話に感動すると思ったら大間違いだ。おれが知りてえのはここ最近のことよ。あんたはなにか知ってるにちげえねえ」
「なんでそんなことがわかる」
「おめえさんの態度だよ。昨日お常のことを、あまり意味がなくてもなんでも内緒にしたがる、なんて言ってやがったが、そらあんた自身にもあてはまるな」
「ふん、勝手にそう思ってりゃいいさ。知らないもんは知らないよ」
「あくまでしらぁ切るってんなら、こっちにだって考えがあるぜ」
色吉はまた狼のほうを見た。狼の権太は羽生の脇ですっかり安心しているようで、ときどき尻尾をふわふわと振るのがなんとも気持ちよさげだった。
お浅のほうは、用心するような顔つきになった。
「先月とこないだ、娘が動物に喰い殺されたのよ。爪で腹を裂かれ、牙で臓物を食い荒らされてな」
色吉は狼を見たままで言った。「娘といっても小さな子じゃあねえ。じゅうぶん立派なおとなだ。襲いかかって殺すにゃあ、そこいらの野良猫や野良犬ってわけにゃあいかねえだろうな」
「あんたまで、権太がやったってんじゃないだろうね」
「ひょっとしてお常はもう、権太の腹ん中に納まっちまってるんじゃねえだろうな」
「なんてこと言うんだよ」
「しょっぴいて、腹かっさばいてみるかな」
「証拠もなしにそんなことできるもんか」
「できるかできないか、やってみようよ。おめえ、お上のあくどさをなめるなよ」
「自慢することじゃないだろ。もし、もしだよ、権太をつかまえて、かっさばいて、お常が出てこなかったらどう責任とってくれんだい」
「そんときゃ謝るよ」
「謝って済むわけないだろ!」
冷静なお浅もさすがに目を吊りあげた。
「お幹、お蘭、お常、そしておめえさん。年も近いし、みんな幼なじみだったんだな。小さいころは仲よく遊んでたが、ちっと大きくなったら遊んでくんなくなった。それを恨みに思って、その狼に襲わせた」
「ぜんぜん違うわ、そんなことで人を、それも三人も殺すやつがいるかい」
「三人、やっぱお常はもう死んでるのか」
「ああもう、いちいち頭にくるね。知らないよ、あんたがそう言ったんだろ。何人だろうととにかくそんなことで人殺しなんかしないだろ、そもそもそいつら、幼なじみでもなんでもない」
「じゃあどういう知りあいなんだ」
「是坊の旦那のとこで……いや、そんなやつら知らないよ」
「おせえよ! 正直に吐きな。でなけりゃ、ほんとにその狼を連れてくぜ」
「そうはいくか。そんな簡単に思い通りいくと思ったら大間違いだ。権太!」
狼は頭をもたげた。
「ほら!」
狼は低くうなり、色吉を敵意むき出しで威嚇する。
ぐるぐるぐる……。
二間も離れていたがじゅうぶん恐ろしい。色吉は震えあがった。
その狼の背中を、羽生が撫でた。二回、三回……と首のあたりから尻尾まで撫でおろすと、狼はうなりをあげるのをやめ、またうずくまった。ぱたぱたと尻尾を振る。お浅が驚愕の表情でそれを見ている。
「へっ、どうでい、お上をなめるんじゃねえ」
助かったぜ……旦那と来てよかった。
「神妙に」
全部吐きやがれ、と言いかけたとき、色吉の背後で、狼がまたぐるる、とうなった。「知ってることを全部教えてください」