八
夜のもう、九つ近くだった。
番頭の久造が長い一日を終えて帰宅しようとしたとき、内儀のお紺に呼びとめられた。
「久造、ほんとにごくろうさんでしたね、おまえにはたよりっぱなしです、ほんと、ありがとう」
「とんでもない、ご主人に受けた恩を考えると、まだ足りぬくらいのことでございます」
久造が辞儀をして去ろうとすると、お紺は、
「まあお待ちなさいな、きょうは一日、お疲れだろうから労ってやろうと思いましてね、晩飯とお酒を用意したんですよ」と言った。
「いえ、お通夜の席でたくさんにいただきましたから、もう腹のほうはくちくなっております。お気持ちだけ充分ちょうだいしました、ありがとうございます」
「まあ、お待ちなさい。じゃあお酒だけでも召しあがっておいきなさいな」
「いやもう、今日はもう、疲れてしまいまして。このうえお酒なんぞいただいたら倒れてしまいます。明日も早いんで、これで」
「いいじゃないですか、泊まっていけば。ついこないだまで住んでいたんですから」
「いえ、もう部屋もないし、わたしの長屋はすぐそこなんで」
「まあ、だったらそれこそちょっとくらいいいじゃないですか。魔除けと思って、いっぱいだけ飲んでおいきなさい」
これは飲まなければ解放してもらえそうにない、と観念した番頭は、お内儀の差し出した杯を乾した。
なんだかんだと勧められて三杯ほども空けると、久造は足元をふらつかせながら帰っていった。
「あれだけ聞し召していれば、すぐに寝入って朝まで起きることもあるめえ。まあ、朝になっても起きることはねえんだが」
番頭を見送るお内儀に、いつのまにか並んでいた手代が言った。
念のため半刻ほど待ち、升弥が久造の長屋にそっと忍び込んだのが深夜の九つ半を回ったところだった。
そっと襖をあけ、土間に入る。ちゃんと草鞋を脱いで畳にあがった。土汚れなど残して、また細かいことを気にするやつが出てきてもいけない。
どこかから漏れ入ってくる星明かりで、暗闇のなか布団が盛りあがっているのが見える。升弥は懐から縄を取りだした。
いびきをかいて寝ているかと思ったがそうでもなかった。
升弥はひと息つくと息を止め、布団をはがすと久造の首にすばやく縄を巻きつけ、力任せに絞りあげた。久造はばたばたと手足を動かしたが、それは最初から力のない動きで、すぐに油の絶えた行灯のように消え入った。一日の疲れと酒が効いたのか、升弥の思っていたよりも久造の抵抗ははるかに弱いものだった。それでも用心してしばらくは力いっぱい絞めつづけた。手が痺れ、息が荒くなってきたところで升弥はやっと力を緩めた。
首を吊ったように見せかけるために、暗いなか苦労して梁に縄をかけ、久造の体を持ちあげようとしたが、ずいぶんと重い。やっぱりお紺も連れてくればよかったか。いや待てよ、久造はこんなに図体が大きかったか、横になっているとわかりにくいとはいえ、いくらなんでも……
「うわあぁ」
そのとき初めて久造の顔を見て、升弥は情けない声をあげてしまった。久造は妙な面を顔にまとっていた。その磁器の肌は深刻の薄い明りにもつやつやと輝いていたのだ。いや、そもそもこれは久造ではない――
「手代さん、御用でやんす」
土間の暗がりから、十手をかざした男があがってきた。あの色吉という若い小者だということはすぐにわかった。
「くそっ」
罠にかかったこともすぐにわかった。升弥は懐から匕首を抜いた。小者をぶっ刺してでも逃げようと――すぐに腕を後ろ手にひねりあげられた。
「いてえ、やめてくれ。うわぁ、死んだんじゃなかったのか」
升弥をひねっているのは、たったいま縊り殺したはずの偽の久造だった。その刹那に思いだした、こいつは昨日、長衛門のなきがらのよこに座っていた同心だ。
「旦那はな、絞め殺されたくらいで死ぬほど軟じゃねえのよ」
と岡っ引が言った。




