三
蔵の扉のまえで、色吉が振り返った。
「ここの鍵は、ご当主の長衛門さんと、番頭の久造さんしか持ってないそうですね」
升弥はうなずいた。
「長衛門さんは、毎朝ここで在庫を確認して帳簿をつけていたとか」
「そうです」
「それはお店の皆さん、ご存じだった」
「はい」
「いつも、どんなにかかっても四つ半にはお店のほうに戻ってたのに、今日に限ってお昼を過ぎても戻ってこないんで、番頭さんがいろいろ探して、このなかでとうとう見つけなすったんです」
そう言って岡っ引は蔵の中に入った。うながされて、升弥も続いた。異臭が鼻をつく
日は朝よりももちろん高いが、なかの薄暗さはそれほど変わらなかった。この蔵には畳敷きがなく、そこここの地べたにござを敷いて、そこに品物が重ねて置いてある。そのあいだの地面で、薄暗いなかでもわかるくらい黒く変色している部分があった。
「そう、これが血の跡です。まだちいとにおうでしょう。ご当主はここに倒れていなさったんでさあ」
升弥の目線を追って、岡っ引が言った。
「ここでちょっとわからないことがありやしてね。番頭さんに聞いたところ、お店のある母屋の、奥の座敷の帳場から、かなりの大金が盗まれているようなんですよ」
升弥はうなずいた。
「押し込み強盗でしょう。主人を殺めて帳場から金を盗む。なにも不思議はないと思いますけどね」
「そこでさあ。ご主人が帳場にいたってんなら、邪魔だからとやっちまうのはわからないでもねえ。ところが下手人は、ここで、この蔵のなかでご主人を殺めて、わざわざ母屋の帳場までいって金を盗ってる。人を殺めるなんざ、そんな危ない真似をしなくても、金が欲しけりゃ端から帳場にいって盗むだけでいいのに、なんでそんなことをしたのかがわからないんでさ」
「はじめにこっちに入って金を盗もうとしたところ、主人がいたので殺してしまったのではありませんかね」
「だとしたらなんでわざわざ母屋にいったんでしょう。金だったらそこにあるのを盗んでいけばいいのに」
色吉は少し離れたところにあった、小さな商品を置くための棚のいちばんうえに十両ほども載っているのを指さした。
「番頭さんによると盗まれたのは六両で、帳場にはまだ五両がとこ残っていやした。六両で足りたんなら、そっから持ってきゃあ見つかる危険を冒してまで母屋なんぞにいかなくても済んだのに。なんでそんなことをしたのか、不思議でやしょう」
升弥は焦った。今朝こんなところに十両などあっただろうか。考えろ、思いだせ、なぜ気がつかなかった――
「たぶん……見落としたんじゃあないかな。ほら、いまはそこに陽が当たっているからすぐに金があることはわかるが、主人が殺められた時分には、日の当たり方が違っていて、その辺は薄暗かったんじゃないかな」
「なあるほど。きっとそうですね。いや、やっぱり手代さんに来てもらってようござんした。あっしひとりじゃあそんなこと気がつかなくて、ずっと悩んじまうとこでした」
「それはなにより」
升弥は笑った。だが岡っ引はまだ考えこんでいる。
「まだなにか」
「いえ、しかしねえ、ここでご当主を殺めちまって、暗かったとはいえそこの金にも気づかないほど焦っていた下手人がですよ、なんで人に見つかるかもしれないってのにわざわざ母屋まで金を盗みにいったんでしょうね。人なんか殺っちまったら、ふつうはびびって金どころじゃなく、とっとと退散するんじゃねえかとね」
「強盗を商売にしていて、殺しにしろ盗みにしろ慣れてるってことじゃないのかね」
思わずそう言ってしまってから、しかし升弥は番頭の久造に罪を被せるつもりだったことを思いだし、失敗した、とほぞをかんだ。
「そうかもしれませんね。しかしそうだとなるとまたひとつわからなくなることがありやして」
「なんでしょう」
「凶器が見つからないで。たぶん傷跡から見て凶器は匕首なんでしょうが、ホトケさん――ご主人からは抜かれてましてね」
「さすがに凶器のゆくえなぞ、わたしにはわかりかねますが」
「いや、問題は――凶器のゆくえももちろんありやすが――なぜ匕首を抜いたのか、ってことなんで。つまり、匕首を抜いちまうと返り血を浴びることになる。真っ昼間から血塗れで逃げることになっちまうのになぜ、ってことなんでさ」
「そりゃその匕首が、下手人を示しちまうことになるからじゃあないですか」
「そこなんでさア。手代さんのおっしゃるように、商売として強盗をやってるやつ、職業的な強盗ってやつは、匕首なんざそこらでいくらでも手に入る、ひと山いくらのやつを使い捨てにするもんなんでさ。引っこ抜きゃ、血が噴き出やすからね。血を浴びるのをわかっていて、わざわざ抜いたうえ、大事に持って帰ってる。どうにもわからねえんでさ」
「それは、親分、じゃあやっぱり職業的な強盗じゃあないってことでしょう」
いいぞ、ここでうまくやりゃあ、この岡っ引の描く下手人像を、久造を示すように修正できそうだ。
「つまり、下手人はやっぱり素人で、主人に恨みかなんかを抱いてたやつで、匕首から足がつくのを怖れて持って帰ってしまったんだ。それから……それで、金は欲しかったけど、でも自分の殺した死体のまえからは一刻も早く逃げだしたかった。だからそこにある金に気づかなかった。でもなんらかの事情で、まとまった金はどうしても必要だった。だから見つかるかもしれない危険を冒してでも母屋に金を盗みにいったんだ。それだって、当座に要るぶんだけ持っていった、ということなんじゃあないかね」
「うん、なるほど。しかしあるだけ持ってきゃいいのに、要るだけしか持ってかないってのも莫迦正直なやつですな。でも人間、慌てると思いもよらないことをするもんで、火事のときに枕を後生大事に持って逃げたなんてよく聞く話ですからねえ」
色吉は苦笑しつつも納得したようだったが、
「でもねえ、こんな明るい時分に血に塗れたやつが往来を行きゃあ、かなり目立つはずなんだが、いまんとこそういう話は入ってきてねえんでさあ。もうよっぽど時間が経つってのに、いまだにってことは、こいつはもう期待できないな」
と、すぐにまた困り顔になった。
「いやな話だがね、親分さん――」
言いかけて、升弥は口をつぐむ。
「なんでやす、なんでもいいから、教えてくんなさい。手代さんに迷惑をかけるこたアございやせんから」
「わたしが言ったとは、誰にも内緒にしといてくださいよ」
升弥はいちど言葉をきり、色吉がうなずくのを確かめた。
「ひょっとして、店のもんが――ああ、いやいや、やっぱりこんなことはいけない。親分さん、忘れておくれ」
しかし色吉は一瞬呆けたような顔をすると、すぐに、
「ああ、そいつは思いつかなかった。……ひょっとして手代さん、誰か心当たりでも」と言った。
「いや、誰も。まさか、ありませんよ」
わざと目をそらす。
「さっきも言った通り、迷惑はかけやせん」
「いいえ、知りません、そんな人はいませんよ」
「ふうん、でもまあ、手代さんのおかげでだいぶ助かりやした。なにかまた思いだしたり思いついたりしたら、きっとすぐにあっしに教えてくんなさい」




