二
寺に参り、とちゅうで昼をいただき、甘味処に寄り、八つごろにのんびりと店に帰ると、まえに人だかりができていた。なかから丁稚の巳之吉が青い顔をして飛び出してきた。
「たっ、たっ、たいへんです」
「どうしたんだえ、落ち着きなさいな」
お紺が言った。
「ご主人が、ご主人が……」
お紺はうなずく。「ご主人が……?」店のなかから岡っ引が出てきて自分をうかがっているのに気がつかないふりをしていた。
「こ、ころ、……お亡くなりになりました」
「え」
呆けたような顔をしてみせた。すぐに笑顔になって、「ご主人がどうしたって? もういちど言ってごらんなさい」
「よこからすまねえですが、あんたが御内儀ですかえ」と、さっきから見ていた岡っ引が口をはさんできた。
お紺は初めて気がついた、といった顔で岡っ引を見た。妙に整った顔立ちの、しかし役者の二枚目看板とは違う、野生の獣くささを放つ、いい男だった。お紺の顔に驚きが浮かんだが、この驚きは本当だった。
「ああ、ごめんなさい。あっしは御上の御用を聞くもんで、色吉と申しやす」
岡っ引はお紺の表情を不審と受け取ったのか、そう言った。「今日は同心の旦那の供でやって参りやした。あとで会ってもらいやす」
「ええ、いったい、なにがあったのでしょう。うちの丁稚が妙なことを言ってましたが」
「それが――」
言いかけて、「いや、こんなとこじゃなんだ、なかへどうぞ」
と岡っ引はまるで自分の店のようなことを言って内へ入っていった。
お紺はそれに従い、升弥はひとつ頭をさげて離れようとしたとき、色吉が店から顔を出した。
「ああ、あんたは手代の升弥さんだね。あんたも来てくんなさい」
「いえ、わたしは裏から……」
「急場なんで、そのへんは気にしないでもらいてえ」
店のなかは客はおらず、それでいて妙にものものしい感じだった。店の者たちがひとところに集められていた。番頭の久造が立ちあがり、これもやはり岡っ引らしい坊主頭の太った男に紙に包んだ心づけらしきものを渡すとこちらに小走りに寄ってきた。
「いや、あとにしとくんなさい、申し訳ないが」
久造がお紺に話しかけようとするまえに先手を打って色吉が言った。しかし番頭の差し出した袖の下だけはちゃっかりと受け取り、お紺に、
「ちいと他んとこで話をしやしょう。どっか部屋を借りやすぜ」と言った。
いつのまにか坊主の岡っ引も寄ってきていて、並んで歩きだした。
「ああ、こいつも御上の御用聞で、太助といいやす」
色吉が坊主頭を紹介した。太助が、奥の間の襖をがらりと開けた。
「うっ」
お紺の喉から声が漏れた。
「ああ、こりゃいけねえ」
太助がすぐに襖を閉めた。その座敷には床が延べられ、そこに横たわる人の顔は白布でおおわれていたのだ。ちらりと見えただけだが、枕元には同心姿の侍が端座していた。
「客間でも借りられますかえ」
色吉が言った。
「そちらに」
お紺が廊下を先導し、客間のひとつの襖をあけた。太助がうながすので先に座敷に入った。つづいて升弥が入ろうとすると、
「ああ、手代さんはあっしと」
色吉が言い、そのまま廊下を歩いていったので、升弥は少し迷い、しかし結局、若い岡っ引についていった。
廊下を歩きながら、岡っ引が声をひそめて、
「実はここのご当主の長衛門さんが殺されまして」
と言った。
「はい」
升弥は冷静に応える。
「おや、あまり驚かれないようで」
「そりゃ、さっき誰かはわからなかったが、お亡くなりになっているのを見ましたしね。そうするといちばん年嵩の主人であってもおかしくない、というわけで」
「ふむ、でも死んでるのはわかっても、殺された、ってとこにも驚かないんですかえ」
「そりゃあ、同心の旦那や御用聞きの親分が何人もいるんじゃあ、ふつうの死に方じゃないのでは、と疑うでしょう」
なるほど、と岡っ引はうなずいている。うまく切り抜けられたようだ。あらためて見るとずいぶんと若いやつで、これなら丸め込めるのでは、と手代には岡っ引をあなどる気分が沸きあがってきた。
「ところでどこに向かってるんですか。わたしは住み込みで、部屋をもらっているから、なんならそこに――」
「いや、ご当主が被害にあった現場、裏庭にある土蔵でいくつか訊きたいことがあるんでさ」
「でもわたしは、蔵に入ったことはないんですよ。あすこに入れるのは主人と番頭までなんです」
「そうのようですね、でも皆さんにうかがってるんで、ひとつご足労を願います」
と、色吉は縁側から裏庭に降りてすたすたと歩いていくので、しかたなく升弥もついていった。
「どうぞお座りになって」
お紺に続いて部屋に入ってきた坊主頭の岡っ引が言った。
お紺は座布団を差し出し、自分は畳に座った。太助は遠慮なしに胡坐をかくとお紺と向かいあった。
「落ち着いて聞いておくんなさい。実はあんたのご亭主、伊那戸屋当主の長衛門さんはお亡くなりになりました」
向かいあうと、太助が単刀直入に言ってきた。もう少し遠回しな言いかたを期待していたお紺は動揺した。
「だ、だれに殺されたんですか?」
「殺された……? とは、まだ言っていませんが、どうして知ってなさるんですかい」
坊主頭の三白眼がぎろりとにらむ。
「そ、それは、さっき、番頭の久造が……」
「番頭さんがなにか言うより先に色吉の野郎が止めたんじゃなかったかな、おいらも見てましたが」
「え……ええ、そうでしたわね。そのまえ、帰ってきて店に入るまえに、丁稚の巳之吉が、そのようなことを申していたものですから」
なるべく目立たぬように息を大きく吸うと、お紺は落ち着きを取り戻した。
「ふん、そうでしたっけか」
太助は鼻を鳴らしたが、しかしそのあと岡っ引の訊くことに、お紺はそつなく応えることができた。




