一
神田。
伊那戸屋のお内儀、お紺が、帳場にいる亭主に声をかける。
「いってまいります」
長衛門は帳簿を持って立ちあがったところだった。と、眉をひそめる。
「また、升弥を連れていくのか。手代をそう連れ回されちゃ困るんだが」
お紺が、うしろに手代を従えているのを見てそう言った。
「ええ、だからまえにも申しあげたとおり、十遍に一度のことにしております。あなたもお許しくださったではありませんか」
「ふん、そうだったかな」
「そうでしたよ。だいたい、去年わたしがこうやってお百日を詣でたからあなたが厄をなにごともなく過ごすことができたのではありませんか。今年はわたしが自分のために詣でるのがそんなにいけませんか。それに、わたしが自分のためだけだと思うならば大きなお間違いですよ。あなたの後厄のことも、いえむしろそちらを主に願掛けをしているのですから――」
「ああ、もう、わかった、わかった。早く行きなさい」
「升弥を連れていくのは今日が最後になりますから。それに、なるべく早く帰りますから」
お紺は長衛門に一礼すると、そそくさと店の裏に向かう。裏木戸から出るのだ。
升弥も主人にひとつ頭をさげ、それに続いた。
時刻は朝の五つ、神田の通りはすでにかなりの人が行き交う。先を歩く升弥に従うように、あるいは人波に対する盾にするようにお紺が歩いていく。道行く人たちのなかには、特にこの二人だけに注目しているものはもちろんなかったが、もしあったとしたら、先を行く男がいつの間にかいなくなって、しかしそれでも女の歩みはかわらなかったことに気がついただろう。
升弥はさっき出てきた裏木戸から入り、裏庭を行きかけて思いとどまったように引き返し、あたりをうかがいながら母屋に入った。しばらくして出てくると、ついさきほど引き返したところを逆にたどって、こんどは裏庭にある土蔵のところまで足を忍ばせた。扉をそっと開け、すばやく中に入るとそっと閉じる。
背中を向けていた長衛門が振り返った。
この時分には店ではなく土蔵で在庫を確かめているのはいつものことだった。
「どうした。おまえはお紺といっしょに――」
升弥は主人に躍りかかった。
……
暗い目立たぬところに隠しておいた着物に着替えると、血のついた衣服を風呂敷にまとめる。扉を薄く開けて外をうかがい、入ってきたときと同様、すばやく表に出た。
不忍池のほとりに何軒か建ちならぶ出会茶屋の一軒に升弥が入っていく。ひと部屋に待っていたお紺を抱きよせようとすると、女は身を任せようとし、しかし眉をひそめてあらがった。
「血のにおいがするわ」
「ああ……」
升弥は風呂敷包みに目をやった。お紺はうなずいた。
「捨てちまいましょう」
障子をあけるともうお池が迫っている。左右を見回し、お紺は風呂敷ごと池に放りこんだ。
「どうだったんですえ」
「うまくいったぜ。長衛門は俺が蔵に入っていくと驚いたようだったが、声をあげる間もなく急所をひと突きよ」
お紺が嫌な顔をして、
「そこはいいんです。そのあとの話ですよ、だれにも見られなかったんでしょうね」
「そのへん、抜かりはねえ。なにしろ銭は先に盗っておいた」
「え。だいじょうぶなんですか、そんなことして」
お紺は不安が表に出る。
「まあ考えても見なせえ、お内儀さん」
手代はよくぞ聞いてくれたとばかり、やや自慢げだった。
「俺も裏木戸から入ったときは、もとからの予定通り蔵に向かおうとしたのよ。だがそこではたと思いあたった。長衛門をやっちまってから座敷にいって、そこでもし店の者にでも出会わそうものなら、俺が店に戻ってたことがわかってそこで一巻の終わりだ。でも先に店に入っておきゃあ、誰かと会っちまったらなんとでも言いつくろって長衛門の件は中止にできる、とな。そこで計画を変えて、先に座敷に押し入ったってわけだ。そこで小判を適当に何枚かちょうだいして、うまいことだれにも会わなかったから、それからゆうゆうと蔵に向かったって寸法よ。蔵のあとは、裏木戸から引きあげるだけだったから、ゆうゆうとしたもんよ。この順序で正しかったぜ」
「ふうん、ならいいんですけど」
自信たっぷりの升弥の言を聞いているうちに、お紺も納得したようだった。
「で、そのあとは」
「ああ、久造の長屋によって、銭と匕首を床下に隠してきた」
「だれにも――」
「もちろん、知ってるやつには会わなかったぜ。安心したかい」
お紺が青い顔のままうなずいた。それでもまだ不安を抱いている様子を見て、升弥は、
「心配しなさんな、お内儀さん。久造は博打でかなり借金を負ってる。なんども繰り返すようだが、よく覚えておくんな。久造としちゃ、こんなことが露見したらせっかくの祝言が破談になっちまう。だから店を乗っ取るために主人をやったうえ、当座の負けを返すためにいくらか盗んだ、と、こういう筋書きだ、お調べのときぼろを出さないように気をつけてくんなよ」
そう言うと、年上の女の熟れきった体を押し倒し、もうなにも言わせるかとばかりにその唇を唇でふさいだ。




