御縁日
長月も半ば過ぎのある日、所用で浅草に行った、その帰り道のことだ。
秋も深まり、このところめっきり冷えてきた。色吉は人影もまばらになりつつある通りを足早に歩いていた。
「色吉さん」
声のほうを見ると、自分のつかえる同心の家の子守り兼女中だった。
「なんだ留緒ちゃんか。こんな近くまで気づかなかったぜ」
誰そ彼どきといわれるような暗くなりつつあるときとはいえ、留緒とは毎日羽生邸で顔を合わせているのに、思いもよらぬ場所だったからか。
「なんだなんてひどいわねえ、ふふ」
「ああ、ごめん。理縫ちゃんはどうした」
留緒が世話をしている羽生家の娘のことを訊くと、しかし留緒はにこにこと笑っているきりで答えない。
「ああ、ご隠居さんと遊んでるのか」
そうだ。色吉は思いだした。そもそもからして――
「そういや、留緒ちゃんの家は浅草だったな。そこを訪ねてたってわけか。この近くなのかい」
留緒の実家は老舗の菓子屋だと聞いているが、詳しい場所までは知らなかった。
「ううん」
留緒はどっちともとれるような、あいまいにうなずいた。
「留緒ちゃんも帰りかい、おれも旦那のとこに行くとこだ、いっしょに帰ろう」
色吉が歩きだすと、留緒はついてきた。
いつも元気な留緒が、今日はなんだか妙におとなしい。実家でなにかあったかな、などと考えていると、
「色吉さん、あそこ、寄ってこうよ」
留緒が指さすのは、浅草のお寺の境内だった。参道に屋台が立ち並んでいるのはいつものことだが、夕暮れを提灯で明るく照らし、ひとも昼間よりもごった返しているくらいだ。ざわざわと、子供のはしゃぐ声や、けんかする声、泣き声も聞こえる。
「ああ、きょうは御縁日か」
しかし今日は一日、だんなをほったらかしちまった。こんなところで油を売ってちゃあ……などと逡巡する色吉の手を取って、
「早く早く」
と留緒が引っ張っていく。
色吉も苦笑しながらついていった。
「あ……」
手をつないでいることに気がついて、留緒が頬を染めた。
「ごめんなさい」
「かまわねえさ、減るもんじゃなし」
「でも、色吉さんのおかみさんになる人に悪いわ」
「なに、女房なんざしばらくは持たねえよ」
留緒は顔をそらすと、なにかを見つけてぱっと明るい顔になった。
「あまざけ、飲みたい」
「おう」
ふたりで甘酒売りのまえで飲んだ。
「そういや腹が減ってきた。鮨でも食うか」
飲み終わってまたぶらぶらしながら色吉が言うと、留緒は、
「うーん、いらない」
と首を振る。
「蕎麦でもいいぜ」
「食べものはいいや」
「そうか」
まあ考えてみれば、いつも羽生宅で留緒の作る夕餉をふるまってもらうのが、このところのすっかり習いになっている。屋台で済まそうなんて、ひょっとしたら悪いことを言っちまったかもしれない。
「あれ、やりたい」
留緒はこんどは、射的屋を指さす。
おもちゃの弓でおもちゃの矢を射るが、なかなかうまくいかない。
「色吉さん、やってみてよ」
色吉もやってみるが、矢はあさっての方角へ飛んでいく。
「アハハ、へただね」
「む。見てるよりゃ難しいもんだな」
「アハハ」
留緒が鈴を転がすように笑う。
さっきは元気がないのでは、とちょっと心配したが、とりこし苦労だったようだ。
「色吉さん、風車ほしい」
色吉が買ってやると、小さく駆けまわって楽しそうに回している。
それにしても、いつもは家のことをてきぱきとこなし、理縫がいるために姉さん然とした留緒の、こんな無邪気な姿を見るのは初めてだった。
「留緒ちゃんもなんだかんだ、まだ子供なんだな」
「あら、そんなことないわ。あたし、子供なんかじゃないよ」
「ああ、ごめんごめん。そうだな、ハハハ」
怒ったかな、と思ったが留緒はむしろ微笑んでいた。
「色吉さん、かんざしほしい」
留緒が屋台に並ぶかんざしを手に取って目を輝かせている。
「待て、さすがにそんな高えもん、お父っつぁんにでもねだんな」
「ちぇ、だめかい」
留緒は唇をとがらせたが、素直に歩きだした。
「ああ、楽しかった」
ぐるりひとまわりして、門まで戻ってきた。
「そろそろ帰るとするか、だいぶ遅くなっちまった」
「色吉さん、あのね」
しかし留緒はそれきり言葉を継がない。
「どうしたい」
色吉が言った。
「あたしサ」
またひとつためらい、ひとつうなずいて、それから思い切ったようにひと息につづける。「お嫁にいくことになった」
「え」
色吉は驚いた。
泣き笑いのような、思いつめたような、しかしもうあたりは暗く、留緒の表情はよくは見えなかった。
「そりゃおめでとう。おめでとう、だよな。でもずいぶん急だな。いや、べつにおれにあらかじめ言っとくこともないのか。でも留緒ちゃんがいなくなるとさびしくなるな。理縫ちゃんだって、ご隠居だってそうだろう。旦那は……なに考えてるかわからないけど、旦那だってきっとそうだ。どこか遠くなのかい? 近くだったらたまに遊びに来られるだろうから。いや、ご新造さんになったらそんな暇もねえか。でも近くならたまにばったり会うことだってあろうからな。近くならいいな。で、どこなんだい。そうだ、なんかお祝いをしなくちゃならねえな。そうだ、かんざしなんかどうだ。いまは持ち合わせがねえけど、そのうちきっと買ってやる。いつのことなんだい、その、お、お嫁に、いく、ってのは。きっとそれに間に合うように……いや待てよ、さっきの留緒ちゃんの科白じゃねえが、留緒ちゃんの旦那さんになる人に悪いかな、ははは、そういうおしゃれなものじゃなくて、なにか食うもんのほうが――」
「色吉さん」
色吉がとうとうと話すのを打ち切るように、留緒が言った。
「ありがとう。今日はほんとに楽しかった。あともうひとつ頼みがあるんだけど、それがかなったらもう思い残すことはないわ。聞いてくれる?」
「おう、なんでも言ってくれ」
「ありがとう、きっとだよ。でもそれはまたあとでお願いにいく。今日はこれで。じゃ、留緒を、留緒を大事にしてあげてね」
と微笑んだ。
「え」
なにを言ってるんだろう。見てないところで、どこかに頭でもぶつけたのだろうか。と見直したとき、もうそこには留緒はいなかった。
「色吉さん」
と背中から声がかかり、振り返ってみると留緒だった。
「なんだ、そこにいたのか」
「色吉さんこそ、なにやってるの、こんなとこで」
「なにやてるの、とんなことで」と理縫が言った。
留緒は理縫の手を引いていた。
「いや、ええと、留緒ちゃん、いま来たのか?」
「そうだよ」
留緒はにこにこと言った。
「理縫ちゃん連れて?」
留緒はうなずいた。
「ふたりでか、物騒だな」
と、色吉は違うことが気になってしまった。
「え、だいじょうぶだよ、旦那様といっしょだから……あれ、いない」
留緒はきょろきょろととまどっている。いっぽう色吉は安心した。旦那が消えるのはいつものことで、あとは色吉に任せて引きあげたのであろう。
「で、留緒ちゃんたちは御縁日のために、わざわざこんな遠くまで来たのかい」
「うーん、あたしはお墓参りなんだけど、理縫ちゃんが御縁日に行きたい、って言うから連れてきたんだ。だからついでだね」
言われてみれば留緒は、理縫を引く手と反対側に桶と花を持っていた。
三人は留緒の家の墓に参った。墓に向かって手を合わせる。
「今日が留依姉ちゃんの命日なんだ。生きてたらたぶん色吉さんと同じくらいだね。生まれたときから体が弱くて、でも年が明けたらお嫁入りも決まってたんだけど。年は離れてたけど家にこもりがちだったからよく遊んでくれたんだ。ずいぶんとお姉さんだと思ってたけど、お母さんと変わらないくらいに感じてたけど、もう今のあたしの年なんだよね。早いなあ」
留緒はすこし涙ぐんでいるようだ。
「そうか。……留緒ちゃんもそろそろお嫁入りの話なんかきてるのかい」
「うーん、でもまだ留宇ちゃんと留恵ちゃんが……って色吉さん、気になるの? あたしがどっかお嫁にいくかどうか、気になる? 気になるのか。気になるよねえ」
「訊いてみただけだよ」
「そうかぁ、どうしようかな、色吉さんがどうしても、って言うなら色吉さんの――」
「おめえ、ひとの話を聞いてるかい――」
「かだぐるま」
と、理縫が言い、墓のねもとを指さした。
「ああ、ほんとだ。風車なんて、だれが供えたのかねえ。それとも間違えて落としたんだろうか」
留緒は拾いあげ、花といっしょに挿した。
「かだぐるま、ほしい」
と理縫が言うので、そろそろここは切りあげて、御縁日を見にいくことにした。
「ちょっと色吉さん、さっきからあれもだめこれもだめ、なんにも買ってくれないじゃないか」
「今日は持ち合わせがないんだよ、おめえこそ小遣いくらい持ってきてねえのか」
「旦那がいるからだいじょうぶだと思ったんだよ!」
「旦那の財布をあてにしてたのかよ、あいかわらず悪だなおい」
「色吉さんこそ、子供の小遣いをあてにするなんて最低。ああもう、大人のくせに頼りにならないねえ」
「ちぇ、都合のいいときだけ子供ぶるない」
それから色吉は理縫を抱えあげ、肩に乗せた。
「ほれ理縫ちゃん、風車は買えねえが、代わりに肩車だ」
「きゃっきゃっ」
理縫は無邪気に喜んでいる。その様子に、留緒も微笑んだ。
〈了〉




